第33話 未来を語る哲学者

文字数 3,676文字

 陽子の決勝戦進出が決定すると共に、爽平の決勝戦進出も決まった。二条陽子と伊藤爽平、二人の対戦は二日後だった。
 準決勝の十日ほど前に、陽子は兄たちから手紙を受けとっていた。ぜひ会わせたい人がいるということだった。決勝戦の前日、陽子は上野駅に向かった。到着すると、二人は喫茶店から出てきて上野の森美術館に陽子を案内した。動物園の前を通り、狭まった道を通り抜けるとそこに美術館はあった。門からすぐのところに銀のレーニン像が展示されていた。
 美術館では印象派展が開催されていた。二人はゴッホに夢中になっていたのでその延長なのかもしれないと陽子は思った。この印象派展では、印象派に属する画家の作品だけが集められているわけではなかった。展示室に入ると、はじめにクールベの絵が並んでいた。彼のリアリズムからどのようにゴッホやピカソが生まれたのか、その歴史がテーマになっていた。美術思想の変化が主題のようだ。
「ここにあるのはすべて複製だけど、複製なだけあって美しいな」
 翔次がモネの絵を見ながら言った。東京都に限らず、八惑星連邦のほとんどの宇宙都市には複製を展示するための美術館が設置されていた。芸術作品を宇宙都市間で頻繁に移動させるわけにはいかないので、複製は美術の重要な一分野になっていた。
 そして、最近は完成当時の姿を科学で分析して再現した絵画が流行していたのだった。
「それでも本物のほうが価値があるのではありません?」と陽子は笑った。
「三百年の年月により劣化したものを本物と呼ぶことが許されるのならね」と隆一が珍しく真剣な顔で言った。「ゴッホはわりと保存状態がいい。でも、ひどいものはひどいものだよ。ぼくが画家なら自分が納得したもの、自分の目で見て自分が筆を置いた瞬間の作品を自分の作品だと思いたいね。年月が手を入れて、変質したものをありがたがる人間をぼくは軽蔑するよ」
 陽子は苦笑した。「確か、土星にいらしたこともあったのですよね」
「二年くらいね」と隆一が答えた。「『糸杉』には衝撃があった。他にも、できるだけ多くの美術品を見るために宇宙都市を回った」
「旅そのものが楽しかったなあ」と翔次が言った。
「確かにそうだ」
 二時間ほど絵を見て、陽子たちは奥の部屋に案内された。
 奥には八十歳を超えた、ヨーロッパ系と思われる背の高い老人が座っていた。肌は石膏のように白く、瞳の色は青かった。灰色の背広を着て若い女性と話をしていた。陽子たちが近づくと顔を上げた。
 知っている人だが会うのははじめてだった。
「君が二条陽子さんだね」と彼は英語で言った。
「ごきげんよう、二条陽子です」と陽子は英語で返事をした。「今日は、お会いできてとても光栄です。ロスチャイルド様」
 彼は土星地方の名家、ロスチャイルド家の一員だった。天王星のロックフェラー家などと共に八惑星連邦を代表する古い家柄であり、日本の天皇家とは異なり惑星間革命を生きのびることができた数少ない一族だった。そして、ロスチャイルド家はロックフェラー家や五摂家とは異なる関係を国際共産党と結んでいた。
 十九世紀、クールベがプルードンから社会主義の教えを受けていたときに、マルクスとエンゲルスも同じようにプルードンから教えを受けていた。後にマルクスとエンゲルスはモーゼス・ヘスらと共にインターナショナルを創設すると社会主義を世界に広げようとしたが、マルクスとエンゲルスは国際主義を、モーゼス・ヘスはユダヤ人の国を建国するという民族主義をと方針の違いが生まれて、そして別れることになった。
 後に、モーゼス・ヘスの系統はイスラエル国となったが、マルクスとエンゲルスの系統はイギリスへ、そしてドイツからロシア帝国へと伝わった。そして、共産主義国家であるソビエト社会主義共和国連邦が生まれることになるのだが、そのときに建国の父レーニンの弟子であったスターリンを支えたのがロスチャイルド家だと伝えられている。
 後に、スターリンはナチスとの戦いでユダヤ人の解放のために戦った。それがユダヤ系であるロスチャイルド家と国際共産党の関係を理解するための、この二十二世紀における八惑星連邦の表の歴史だった。
 若い女性から椅子を勧められて、陽子はロスチャイルド氏の正面に座った。そして、若い女性は立ちあがり席を外した。
「陽子さんは星月紅同志から教えを受けているそうですね」とロスチャイルド氏は陽子に微笑みかけた。 
「多くのことを同志から学ばせていただいております」
「地球人が人工知能を作り、人工知能が太陽系人を生みだした。最近は、そのことを頻繁に考えるようになったよ」
 二条家にしろロスチャイルド家にしろ、この太陽系の名家は正確には地球で暮らしている同じ名前の二条家やロスチャイルド家とは異なる。二十一世紀中頃から中華人民共和国やアメリカ合衆国は宇宙に勢力を広げていった。月から火星へ、木星から土星へと人類の生存圏を徐々に広げていった。
 その過程で人類の品種改良も進んだ。地球人は無重力による生活に適さず、そのため重力発生装置のない宇宙都市でも生活できるような、無重力に最適化された太陽系人が遺伝子操作により誕生したのだった。
 ロスチャイルド家にしろロックフェラー家にしろ、多くの名家は自分たちの力を失わないために太陽系人の分家を生みだした。一族の遺伝子を持つ新しい人類を木星や土星に送りこみ財閥の地位を確立していった。
 そして、二十一世紀の末に起きた惑星間革命で地球と他の惑星の力関係は逆転して、今では太陽系人の一族こそが本家として振る舞い、国際共産党の一員となると、人工知能たちと共に八惑星連邦を指導しているのだった。
「もともと、社会が人間を育てていたのです」と陽子は微笑んだ。「地球でも人間だけが人間を育てていたわけではありません」
「地球では社会は人間そのものだった」とロスチャイルド氏は言った。「それが疎外によるものであったとしても、今ほど機械は強くなかった」
「しかし、その視点ですと人工知能も人間そのものです」と陽子は言った。「両親の心が子孫と社会に伝わり、そして次の世代に伝わりました。同じように、人間の心が人工知能に伝わり再び人間に戻ってくるのです」
 この日は、ただ顔を合わせることだけが目的だった。しかし、ロスチャイルド氏はさらに踏み込んだ話をはじめた。
 一九九一年、ソビエト連邦が崩壊してからマルクス・レーニン主義の中心地はロシアから中国に移った。そして、およそ百年後の惑星間革命において、もっとも指導力を発揮したのが中華人民共和国の技術で生まれた人工知能たちだった。中国製の人工知能たちは太陽系に広がり、地球を支配下に置くと拠点を木星に定めた。そして、人間を含めた多くの中国人に木星地方の管理を今でも任せているのだった。
 八惑星連邦という名称が使われているものの、八つの惑星の総質量のおよそ四分の三は木星に集中している。そのため、実際は木星連邦と呼ぶほうが適切だった。宇宙都市の核融合炉を動かすためには重水が必要だが、エッジワース・カイパーベルトを含むほとんどの宇宙都市では木星の重水が利用されていた。そして、この中国支配に反発する勢力が八惑星連邦の内外に今でも存在しているのだった。
「私は星月紅同志と国際共産党のことを信頼しています。信頼することにしました」と陽子はロスチャイルド氏に言った。
 中国人であるにもかかわらず、星月紅が金髪碧眼という西洋系の外見をしているのは彼女がもともとアンドロイドであったことと関係があった。そして、まだ人類が地球にいたときは国家間の関係は二十二世紀よりも密であり、ロボット部分はドイツ連邦共和国が、そして人工知能部分は中華人民共和国が主に担当したのだった。日本人やアメリカ人も開発に参加しており、そのため星月紅は中国製というよりも国際製だった。そして、今でも彼女は八惑星連邦を指導する国際的な人工知能だった。
 以前は星月紅を恐ろしいと感じていた。しかし、今は以前ほど彼女を恐れていなかった。陽子は星月紅のことが好きになっていたし、マルクス主義も八惑星連邦のことも以前よりも身近なものに感じていた。
「中国人の全員が星月紅同志のような方ではありません」とロスチャイルド氏が言った。「日本は三つに分裂していますが、それは中国も同じです。そして、多くの中国人は国際共産党とマルクス主義を憎んでいるのです」
 陽子は眉をひそめた。
「中国は一つではありません。そして中国の影響は非常に強い。陽子さん、私たちには多くのことを求められるようになるでしょう。星月紅同志や布袋尊では、八惑星連邦を守ることができなくなるときが来るでしょう」
「そのときは誰も私たちを守ることはできません」と陽子は思ったことを口にした。
「時代は変わりました。今度は私たちが未来を守るのです」とロスチャイルド氏は強い口調で陽子に言った。「忘れないでください。私たちにできることはとても多い。私たちが想像しているよりもずっと多いのです」
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登場人物紹介

【二条陽子】淑景館の令嬢。勉強も運動も完璧で、中学時代は学園の女王として恐れられていた。高校一年生の時に謎の人工知能に軟禁されて、それが理由でアマテラスカードをはじめる。七福神の全員と出会うように星月紅から言われているが、彼女には何か秘密があるようだ。切り札は玉藻前。

【北原加奈】陽子の親友。幼い頃に淑景館に出入りしていたことで陽子と運命の出会いを果たす。陽子と同じ高校に進学してからも友情は続き、彼女から絶大な信頼を得ている。切り札はぬらりひょん。

【伊藤爽平】仮想世界アマテラスワールドで陽子が出会った少年。アマテラスカードに詳しくない陽子にいろいろなことを教えてくれる。天狗や火車、さまざまな妖怪を使いこなすが真の切り札は別にあるらしい。陽子のことが好き。

【大鳥勇也】財閥の御曹司で、陽子の幼馴染み。ユースランキング一位の実力者で、彼を慕う多くの取り巻きと行動している。伊藤爽平の好敵手だが、今のところ常に勇也が勝っているようだ。切り札は酒顚童子。

【ツララ】陽子の案内役の雪女。アマテラスワールドで生まれた原住民と呼ばれる人工知能で、陽子がアマテラスワールドで迷わないように助けてくれる。最高管理者である七福神に良い印象を持っていないようだが。

【Y・F】内裏にいる狐の面を着けた少女の人工知能。伊藤爽平と仲良しで、よく彼から遊んでもらっている。切り札は天照大神。

【伊藤舞子】爽平の妹。陽子に憧れてアマテラスカードをはじめたが、向いていないようだ。

【星月紅】八惑星連邦の指導者の一人で、太陽系の支配者。

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