第25話 星月紅の帰還

文字数 3,484文字

 襲撃があった十日後だった。
 午後の授業が終わり携帯電話を見ると、校長から放課後に校長室に来るようにと手紙が届いていた。今日、星月紅がインドネシア共和国から日本国に戻り、すぐに陽子に会いたいと言っているらしい。七福神に会えという課題を与えておきながら陽子の存在など完全に忘れていると信じていたので、陽子は驚いてしまった。
 陽子は校舎内にある接続室を借りて仮想世界に接続した。指定された場所はアマテラスワールドのなかだったが、江戸時代ではなく大正時代だった。指定されたのは内装に煉瓦が使用されている洋館で、高い位置に窓がある薄暗い部屋だった。
 しばらく待っていると、二十七、八歳ほどの赤い瞳の女性が部屋に入ってきた。豊かな金髪に深紅のドレスを着て、首からは金の十字架をさげていた。
 彼女が首からさげている十字架はキリスト教の信仰を表すものではなく、十九世紀のポーランド反乱によるものだ。
「元気にしていましたか?」と星月紅は陽子に訊ねた。
「お陰様で」と陽子は口を開いた。「お姿が変わりましたね。以前は、確か中学生くらいに見えたと記憶していますが」
 星月紅は微笑んだ。そして、陽子の正面に座った。
「私は子どもの姿になるのが好きです。子どもの目で世界を見るときに、私たちは容易に未来を見ることができるからです」
 本当は人をからかうのが好きなだけではないかと瞬間的に思ったが、そのような不遜な考えを陽子は慌てて頭から追いだした。
「インドネシアのほうは、どうでしたか?」と陽子は訊ねた。
「時間はかかりましたが、問題なく交渉は終わりました」
 インドネシア共和国は海王星最大の宇宙都市群として知られていた。そればかりか太陽系最大のイスラム教宇宙都市群でもあった。エッジワース・カイパーベルトにはイスラム教を国教とした多くの宇宙都市国家があるが、インドネシア共和国も日本国と同じように彼らと交流が盛んであるという。
 とはいえ、インドネシア共和国は、日本国のように国際共産党にも八惑星連邦政府にも従順ではなく唯一神への信仰を義務化する法律まであった。
 ほとんどのエッジワース・カイパーベルト諸国とは友好関係にあるが、それでも十年ほど前からイスラム統一帝国との関係は順調とはいえなかった。そして、インドネシア共和国は建国五原則を攻撃するイスラム統一帝国との仲介を国際共産党に求めたようだった。イスラム教徒なら無神論者の仲間になるなというイスラム統一帝国の主張にたいして、インドネシア内でも意見が割れているらしい。一部の過激派が街を壊しはじめてもいるらしい。そして、共産党員たちは慌てて対応しているのだそうだ。
「インドネシアはアジアでもっとも早く共産党が結成された場所です」
 着物姿の女中が現れると、星月紅と陽子に紅茶を淹れた。日本国に到着してすぐに陽子のところに来たようで、星月紅は冷やされた紅茶をこくこくと飲むと、ソーサーにカップを置いてほっと一息ついた。
「しかし、もっとも早く運動が届くことが必ずしも成功と結びつくわけではありません」と星月紅は話を続けた。「日本やインドネシアには共産主義運動は早く届きましたが、成功したのは中国やベトナムでした」
「今回はイスラム過激派への対応だったのですか?」と陽子は訊ねた。
「いえ、今回は修正主義者です」と星月紅は答えた。「イスラム過激派はのんびりと時間をかけて解決するべき問題です。なぜなら、ただ時間のみが状況を変化させて問題を解決することができるからです」
「しかし、それでも過激派を放置することは問題があるのでは?」と陽子は先日の襲撃事件を思いだした。「暴力により人の命が失われることがあります。そして死者は蘇りません」
「そうですね。しかし、人は事故でも病でも亡くなります」
「それは」
「人はいずれ亡くなります。死を恐れることで武力を用いるのは愚かな行為です。問題の本質を誤魔化してはいけません」
「しかし、人の命は尊いものです」と陽子は驚いて言った。
「だからですよ」と星月紅は静かな口調で断定的に答えた。「だから、惑星間革命で罪を犯した日本人を私たちは皆殺しにはしなかったのです。私たちは子どもを爆弾に積めて特攻させた許しがたい愚か者すら殺しませんでした。彼らにも正義があると思うからではなくて、ただ人命は尊いからです。もっとも、修正主義が相手なら話は別ですが」
 陽子は修正主義者という言葉を何度も聞いたことがあった。
 しかし、修正主義というのはマルクス主義の一種ではあるものの、国際共産党に正統な思想として受け入れられていないマルクス主義であるという印象しか持っていなかった。修正主義とはキリスト教徒が悪魔やグノーシス主義について語るのと同じように、ただ「悪いこと」以上の意味で使われているようには思えなかった。誰も修正主義の内容について語るところを陽子は見たことがなかった。
 これは好機だと思った。息を吸い、陽子は覚悟を決めて質問した。
「同志、修正主義とは何でしょうか?」
「ベルンシュタイン主義のことですよ」と星月紅はあっさりと答えた。「カント哲学が大好きな堕落した人たちです。大衆が気持ちよくなる言葉を口にしていればあらゆる問題は解決すると考えている妄想と現実の区別ができない嘘つきで、あらゆる問題は選挙で解決できると考える幼稚な思想の持ち主たちですね」
「それは民主主義では」と陽子が言うと、星月紅は微笑んだ。
「民主主義には二つの系統があります。自由民主主義と人民民主主義です」
 陽子は素早く言葉の意味を思いだそうとした。二つの言葉を聞いたことはあった。
「歴史を勉強する必要がありそうですね」と星月紅は言った。「陽子さんは聖書は読んだことがありましたね。それでしたら、旧約聖書、出エジプトもご存じですね」
 陽子は慌てて記憶を探った。「三千年以上前、ラムセス二世の時代にモーセはユダヤ人を連れてエジプトを離れました」 
「そうです。そして、それからギリシャでは哲学が生まれました。ユダヤ教とギリシャ哲学の二つの勢力がエジプトを中心に生まれたのです」と星月紅は言った。「宗教と哲学、二つの勢力は混じりあい分裂を繰りかえしました。キリスト教が生まれ、イスラム教が生まれ、新プラトン主義が生まれました。信仰と知性、教会と大学の協調と対立は何度も繰りかえされて十九世紀まで続きました」
「マルクスとエンゲルスが生きていた時代ですね」と陽子は言った。
「一八五九年、ダーウィンが『種の起源』で進化論を唱えたときに、二つの勢力は完全に分裂しました」と星月紅は話を続けた。「聖書ではなく神が自らの手で創造した世界そのものを知ることにより神の御心を知る。ガリレオ・ガリレイがはじめた科学は、とうとう宗教勢力と完全に対立する存在になりました。マルクスとエンゲルスは宗教から科学への発展を唱え、一冊の本を書きあげました。資本論です」
「一八六七年ですね」 
「九四年にかけて。とはいえ、ここで宗教と科学が対立したわけではありません。キリスト教とマルクス主義の対立がはじまる前に、マルクス主義の内部で早くも異端が生まれたのです。修正主義論争。マルクスとエンゲルスの弟子だったベルンシュタインはキリスト教の自由主義をマルクス主義と融合させることで、マルクス主義を立憲民主主義へと修正しました」
 マルクス主義、立憲民主主義、そして自由主義が陽子のなかで繋がりはじめた。  
「立憲民主主義にたいして私たちは修正主義という言葉を使います。しかし、日本で暮らしている陽子さんにはこちらの言葉のほうが馴染みがあるでしょう。私たちはベルンシュタインの後継者たちを侮蔑を込めて次のように呼ぶことにしています。革命を否定して、資本家階級に媚びるブルジョア・リベラル。あるいは、ただリベラルと」
「ブルジョア・リベラル」と陽子はつぶやいた。
「二十世紀では、社会民主主義と呼ばれていましたね」と言いながら星月紅は微笑んだ。「とても悪い人たちです」
 陽子は自然と言葉を発していた。
「では、マルクス・レーニン主義とはどのような思想なのですか?」
 星月紅は悪戯な目をして、楽しげに微笑んだ。
「それはいずれお話ししましょう」と星月紅は紅茶に口をつけた。「ただ、マルクス・レーニン主義もキリスト教や自由主義と同じ、イエス・キリストの教えに続くものであることは述べておきましょう」
「それは何ですか?」
「正義とは善人ではなく悪人のためにあるということです。本当に苦しんでいるのは常に罪を犯している人たちなのですよ」
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登場人物紹介

【二条陽子】淑景館の令嬢。勉強も運動も完璧で、中学時代は学園の女王として恐れられていた。高校一年生の時に謎の人工知能に軟禁されて、それが理由でアマテラスカードをはじめる。七福神の全員と出会うように星月紅から言われているが、彼女には何か秘密があるようだ。切り札は玉藻前。

【北原加奈】陽子の親友。幼い頃に淑景館に出入りしていたことで陽子と運命の出会いを果たす。陽子と同じ高校に進学してからも友情は続き、彼女から絶大な信頼を得ている。切り札はぬらりひょん。

【伊藤爽平】仮想世界アマテラスワールドで陽子が出会った少年。アマテラスカードに詳しくない陽子にいろいろなことを教えてくれる。天狗や火車、さまざまな妖怪を使いこなすが真の切り札は別にあるらしい。陽子のことが好き。

【大鳥勇也】財閥の御曹司で、陽子の幼馴染み。ユースランキング一位の実力者で、彼を慕う多くの取り巻きと行動している。伊藤爽平の好敵手だが、今のところ常に勇也が勝っているようだ。切り札は酒顚童子。

【ツララ】陽子の案内役の雪女。アマテラスワールドで生まれた原住民と呼ばれる人工知能で、陽子がアマテラスワールドで迷わないように助けてくれる。最高管理者である七福神に良い印象を持っていないようだが。

【Y・F】内裏にいる狐の面を着けた少女の人工知能。伊藤爽平と仲良しで、よく彼から遊んでもらっている。切り札は天照大神。

【伊藤舞子】爽平の妹。陽子に憧れてアマテラスカードをはじめたが、向いていないようだ。

【星月紅】八惑星連邦の指導者の一人で、太陽系の支配者。

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