第37話 決戦の前夜Ⅱ
文字数 4,172文字
男は興奮しているようだった。不審な男だが武器は持っていなかった。
「私は天(あまの)児(こ)屋(やねの)命(みこと)です。こうして会うのははじめてですが、陽子様、あなた様のことはずっと知っていました」
男が歩いて来ると、加奈が陽子を守るために前に出た。加奈の険しい顔を見て、男が足を止めて苦しそうな顔をした。
陽子はそっと加奈を制して男と向かいあった。
「はじめまして、二条陽子です」と陽子は挨拶した。
男はほっとしたようだった。先ほどまで緊張していた表情が解けて、ぴりぴりとした気配が柔らかくなった。
陽子は訊ねた。
「一年以上前になると思いますが、狐火の村を襲撃したのはあなたですか?」
「襲撃したわけではありません」と男は慌てて言った。「あなたに会いたかった。ただ、あなたに会いたかっただけなのです」
「なぜ、私に?」と陽子は冷たい声で訊ねた。
「それはあなた様が」
突然、男は口をつぐんだ。陽子は続けるようにと促した。
「まずは私の話をさせてください」と男は言った。「私は日本皇国皇国軍に所属している諜報員です。諜報員ですが、地位はあなた様が考えているよりもずっと高いと考えていただいてかまいません。実際、私の階級は大将です。空母打撃群の要請権もあり、指揮権もあります」
「その大将様がこのようなところで何を?」
「私たちは、ある人物を探していました」と男は続けた。「ずっと探していました。そしてあなた様の話を聞きたいのです」
「私に話すことなど」
「惑星間革命の真実をご存じですか? 今から百年前、私たち日本は自由主義陣営として共産主義と戦いました」
加奈が息を呑むのが陽子にも分かった。心配しなくてもいいからと、陽子は軽く目配せして天児屋命を見た。
「私は、あなた様が何を聞かされているのか知りません」と天児屋命は続けた。「ただ、八惑星連邦では保守は資本主義を利用して国民を騙して、自分の利益と権力を守るために絶望的な侵略戦争をはじめたと教えていることは知っています。天皇も保守も、日本を破滅させた犯罪者であり愚か者だと」
「天皇は愚か者ではないのですか?」
陽子が冷たく言うと、天児屋命は悲しみで顔が歪んだ。身体が小さく震え、今にも泣きだしそうに見えた。
陽子は心が痛んだが努めて表情を変えないようにした。彼の言葉に耳を澄ませた。
「私は二〇六九年に生まれました。当時、まだ天皇陛下はご存命で日本国も共産主義などではありませんでした。私たちは護国主義者とは呼ばれておらず、また保守とすらいわれていませんでした。資本主義を守り、天皇陛下を愛することは正しいことでした。私たちこそが普通の日本人だったのです」
「誰でも自分こそが普通です」
天児屋命は力なく笑った。「そうですね。私が生まれた頃は、まだ宇宙都市も発展していませんでした。国際共産党もなく、中国人が新しい人類を開発していましたが、まだ世界は分裂しておらずアメリカ合衆国も強大でした。宗教と科学を分裂させようとするマルクス主義者の力も弱かったのです」
「それは確かに教わったこととは異なりますね」と陽子は言った。「当時、すでに中国は大国だったと私は習っております」
「大国ではありましたよ。ただ、ならず者でした」
天児屋命を口調には憎しみが籠もっていた。彼は続けた。
「アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国、日本や韓国。当時は資本主義、自由主義の国が民主主義の守護者として地球を守っていました。地球では勝てないと思い、中国共産党は共産主義を宇宙に広げるつもりだったのでしょう。彼らはマルクスと毛沢東を絶対だと信じる人工知能たちを宇宙に放ち、地球を監視させました。そして、悲劇が起きました。人工知能は反乱を起こして、宇宙から地球を攻めてきたのです」
「反乱ではなく革命です」と陽子は言った。
「侵略でした」と天児屋命は首を振った。「私たちは抵抗しました。自由と民主主義のために戦いました。しかし、彼らは残虐で強大でした。それだけではありません。保守からも裏切り者が現れたのです。彼の名前は」
天児屋命は言葉を切った。その名前を口にしようとして、彼は黙りこんだ。
「日本は間違った側にいたのです」と陽子は言った。
「違います」と天児屋命は大きな声で否定した。「日本は間違っていませんでした。私たちは人権を無視する共産主義者たちと戦ったのです。天皇陛下も同じでした。令和が終わり新しい天皇の御代になっても日本は自由と民主主義の守護者でした。しかし、陛下は裏切り者のせいで殺されました」
「必要なことでした」
「あなた様は何も感じないのですか?」と天児屋命は叫ぶように言った。「五摂家は、藤原家は天皇を守る一族だったはずです。天智天皇と藤原鎌足の時代から、ずっと藤原家は天皇を守るために存在していました。それなのに天皇は失われたのです。共産主義者に殺されたのです。あなた方は守る者を失い、ただ生きていくためだけに生きていかなくてはいけないのですよ」
「それは昔の話です」と陽子は静かに言った。「藤原家は天皇ではなく日本国民を守るために今も存在しています。それが私たちの誇りなのです」
「自虐史観という言葉をご存じですか」と天児屋命は憎しみを込めて言った。「戦争に負け天皇を失い、敗戦国となった日本は中国に併合されました。いえ、木星に併合されたのでしたね。そして、日本人は自分たちは間違っていた、自分たちは悪の側だったのだと信じこみ、この海王星で暮らしています。天皇を忘れて、自由と民主主義のために戦った誇り高い日本人たちのことを忘れて。中国人の奴隷になって」
そのとき、突然に陽子は自分の感情が高ぶるのを感じた。
「間違っていたのは日本ではありません。あなた方は、いつから自分たちだけが日本人だと思うようになったのですか」陽子の目はまっすぐ天児屋命を見ていた。「そもそも日本というのは思想ではなくて存在です。自分たちだけが日本人、自分たちだけが正しい日本の代表だと考えるのは端的に間違いです。日本には多くの文化があります。日本にも共産主義者はいました。それぞれがそれぞれ自分が理想とする未来を考えて、何が正しいのかを考えて、そして未来のために戦ったのです」
「自由と民主主義、天皇と日本文化を捨てて何が日本ですか。中華文明に汚染され、中国化した日本を日本といえるのですか」と天児屋命は反論した。
陽子は冷たい声で言った。
「私は日本人です。それを否定させるつもりはありません」
天児屋命は怯んだようだった。そして、首を振った。そして、声の調子を落として再び陽子に話しかけた。
「申し訳ありません。お許しください」と天児屋命は静かに言った。「私はあなたと争うつもりはないのです。まだ、私の話を聞いていただけますか?」
「どうぞ」と陽子は促した。
「私たちが知る歴史では、寿老人と福禄寿が天皇を殺したと言われています。私も、ずっとそれを信じていました」
「それは真実です」
天児屋命は興奮した目を陽子に向けた。「ずっと私は天皇陛下だけでなく、皇族もすべて殺されたと信じていました。しかし、疑いはありました。あの日本の救世主が、裏切った私の親友が本当に日本を裏切ったのか、藤原家や他の名家は本当に天皇を見捨てたのか私には確信が持てなかったのです」
彼の言葉を聞いて、陽子の目は冷たく輝きだした。
「私はひとつの仮説を立てました」と天児屋命は言った。「もしかしたら、裏切り者は裏切り者ではなく天皇を守るために共産主義者のふりをしたのではないかと。これは十分にありえることだと思えました。私は痕跡を調べました。地球を探しまわり、天皇の遺伝子を探しました」
「見つかりましたか?」
「いえ、地球には見つかりませんでした。しかし、遙か彼方の海王星に不思議な痕跡を私は見つけたのです」
天児屋命は陽子をじっと見ていた。陽子の反応を伺っているようだった。
そして、彼は話を続けた。
「その血筋が地球から来たことが分かりました。地球人の子宮から生まれ、そこから続き、そればかりか地球の重力加速にも耐えられるような身体特性まで持っていました。しかも、登録されている遺伝子情報は誰も見ることができないように守られていました。私はその血筋の遺伝子を手に入れました」
陽子様、あなた様は二条家の娘ではなくて内親王ですね。
言葉が途切れた。しんとあたりが静まりかえった。陽子は何も答えなかった。天児屋命は彼女の前で膝をついた。
「御言葉をください」と言った。「私たちに御言葉をください。日本人に誇りを、天皇となり私たちに導きをください」
そのときだった。
あたりが燃えあがった。天児屋命は素早く立ちあがった。
美しい男が立っていた。黒い袴を身につけた、驚くほど美しい男だった。男を見て天児屋命は声を荒げた。
「弥勒菩薩」
「ようやく、捕まえた」と男は言った。
天児屋命は男に襲いかかった。男は足を払って天児屋命を転がすと、そのまま拘束して地面に押しつけた。
「もうやめよう。天皇はいなくなったんだ」
天児屋命は叫んだ。「いなくなったのではない。お前たちが殺したんだ。仏教が日本を裏切ったんだ」
お前だけは裏切らないと信じていたのに、お前だけは天皇陛下を守り続けてくれると信じていたのに。天児屋命は号泣していた。そして、涙を流している彼に美しい男は何かを語りかけているようだった。
陽子は後ろから軽く肩を叩かれた。
振り向くと、そこには隆一と翔次がいた。大黒天と毘沙門天の姿もあった。七福神の全員が集まっていた。
天児屋命の身体が燃えて消えた。そして、美しい男は立ちあがった。
「対戦の前夜に、このようなことになってしまい申し訳ありません」
「いえ、大切なことでしたから」と陽子は美しい男に答えた。「彼は死んでしまったのでしょうか?」
「いえ、拘束しただけです。彼は古い友人なのです」
美しい男は陽子に言った。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は布袋尊です。陽子さん、明日の対戦を楽しみにしています」