第28話 カードクラブ
文字数 3,746文字
星月紅はしばらくは日本で暮らすことを決めたようだった。
またすぐにオーストラリアや土星地方の紛争地帯に行くと予想していたが、彼女はアマテラスワールドに新しく洋館を建てて原住民たちと暮らしていた。日曜日になると、陽子は彼女の屋敷を訪ねるのが習慣になっていた。そして、そこで陽子は資本論を読んだ。星月紅はドイツ語と英語の資本論も準備してくれていた。複数の言語で学ぶことにより、より正確な理解ができるということだった。
「たとえば、日本語の商品は英語ではコモディティです」と星月紅は説明した。「それがドイツ語ではどのような意味合いを持つのかを理解しなければなりません。すべては私たちの目に見えている存在の正体は何であるのか、そしてそれはどのようにして生まれるのかを知ることからはじまります」
とはいえ、まだ本格的にマルクス主義哲学を学んでいるわけではなかった。ほとんどがドイツ語の勉強だった。普段は一時間ほど本を読み、それから二人で雑談をしながら紅茶を楽しむだけの日々だった。
そして、二月十二日になった。
水曜日だった。この日は舞子の誕生日で、陽子たちの悪戯心に近いものだったが、せっかくなので彼女のために淑景館で誕生日会を開くことにしたのだ。親しい友人だけを招いて祝う予定だったので、舞踏会場や大広間ではなく小さな一室を改装して使うことにした。そこに飾り付けをして、豪華な六段の苺のショートケーキを焼いて舞子たちを迎えた。
舞子は緊張していた。舞子だけではなく、兄の爽平も青ざめている。
思えば、こうして二人を淑景館に招くのははじめてだった。爽平とは高校生になってからは現実世界で会ったことは一度もなく、陽子にとっては二人は仮想世界で暮らす人工知能とほとんど同じ存在だった。しかし、現実世界で実際に肉体を持つ二人を見ると、この二人は本当に自分たちと同じ人間なのだという実感が湧いてきた。
爽平と舞子は学校の制服姿で屋敷に来たが、陽子と加奈はドレス姿である。舞子がうらやましそうに陽子たち二人を見ていたので、陽子は使用人を呼んで二人を燕尾服とドレスに着替えさせることにした。
もちろん、アマテラスワールドからの招待客も来ていた。Y・Fとツララだった。Y・Fもツララも自分用のアバターロボットをあらかじめ用意しており、着物姿での参加だった。ツララはこの日のために仕立てた白い輝きのある着物を着ていた。そして、Y・Fは普段身につけている黒い振り袖姿である。
とはいえ、Y・Fの鳳凰柄の振り袖はそもそも豪華なので、誕生日会の出席者のなかではむしろ場にそぐわないほどの正装に見えた。非の打ち所のない仕立てであり、あまりにもすばらしいので仕立屋の見当がついたほどだった。
仮想世界とは異なり現実世界では汚すと取り返しがつかないので、今日のような若者だけで楽しむ誕生日会には相応しくない服装だと陽子は言ったが、Y・Fは無垢そうな顔で首をかしげただけだった。話をしてみると、仮想世界と現実世界の違いや、自分の着物の価値が分からないからではなくて世俗に関心がないだけだった。
「Y・F、今日は来てくれてありがとう」と舞子は嬉しそうだった。
豪華客船での出会いから舞子とY・Fの関係は途切れず続いており、ときどき二人でアマテラスワールドを冒険しているようだった。
しばらくすると、陽子の二人の兄が部屋に入ってきた。全員に挨拶をして、アメリカ風に爽平と握手をしていた。爽平は恥ずかしそうに二人の男と話をしていた。お会いできて光栄ですと緊張していた。
「そういえば、加奈はいつから二人が日本皇国出身だと知っていたの?」
ケーキが切りわけられた。二人の兄を囲んで楽しそうにしている一団から離れて、陽子は加奈に話しかけた。
「はじめから知っていたわよ。気になったから調べていたの」と加奈は答えた。
「私、まったく気がつかなかったわ」と陽子は肩をすくめた。
「普通は気がつかないわよ」と加奈は微笑みながら言った。「エジプトに留学した日本人が現地の生徒を見て、この人はケニア出身だとか思わないでしょう。小学生のときにトリトンに移住してきたみたいだから、まあ陽子よりも普通の日本人よね」
「なるほどね」
爽平が日本皇国出身と知ったときに、陽子は驚いていた。インターナショナルで出会った他の皇国人と爽平は少しも似ていなかったからだ。爽平は典型的なトリトン人であり、彼からは皇国人のような中国人への敵意や軍国主義的なところを感じなかった。将来、技術者になりそうな誠実な日本人だった。
陽子と加奈は隆一に呼ばれた。話が盛りあがっているようだった。
「そういえば、二人の宗教を聞いてもいい?」と翔次が爽平と舞子に訊ねた。「日本皇国出身だと聞いたけど」
「普通に浄土真宗です」と爽平は即答した。
普通に浄土真宗ですと聞いて、陽子は首をかしげた。日本人に浄土真宗教徒は多いと聞いたことはあれ、身近にいることを想像したことがなかったのだ。そもそも、仏教なり神道なりを日本人が信じているということを陽子は想像できなかった。浄土真宗って本当にあるのね、と陽子がつぶやくと加奈は言った。
「私も浄土真宗だけど」
陽子の動きが止まった。
私の家も浄土真宗だけどと加奈が再び口にすると、陽子ははじめて食べるハワイの料理を咀嚼するように、彼女の言葉を慎重に理解しようとした。
海王星で彼女と出会ってから今までずっと、陽子は加奈は無神論者であり、宗教とは無縁の人物だと固く信じていた。そのため、彼女に宗教があり、それが仏教であるというのは陽子には衝撃だったのだ。
冷静に考えれば不思議なことでもなければ、何か異常なことが起きたわけではないのに陽子は動揺してしまった。
「浄土真宗というのは何かしら?」と陽子は奇妙な質問をした。
「仏教よ」と加奈はあきれて言った。「日本最大の宗派で、キリスト教でいえばカトリック教会のような感じね」
「カトリック教会!」
陽子が驚きの声を上げて、二人の兄に目を向けると涼しい顔をしていた。何を驚いているのだろうという感じで、陽子を常識のないかわいそうな女の子を見るような目で見ていた。陽子は赤くなってしまった。
もちろん、話はそれだけでは終わらなかった。ツララも自分の宗派は浄土真宗だとくすりと笑って告白したのだ。しかも、雪女の村の全員が同じ浄土真宗らしい。陽子は突然、自分以外が全員異邦人に思えて怖くなった。かつて、ツララは自分のことを無神論者だと口にしていたが嘘だったのだろうか?
陽子は浄土真宗について四人に訊ねた。
しかし、四人とも浄土真宗にそれほど詳しいわけではないようだった。ツララも信仰ではなく葬式が浄土真宗なので、自分を浄土真宗に位置づけているだけらしい。彼女がいうには仏を信じていながら信じていないらしかった。結婚と葬式のときは信じていますよ、とツララは恥ずかしげもなく口にした。
そして、意外なことに、浄土真宗についてもっとも語ることができたのは舞子だった。
「浄土真宗は親鸞を開祖とした宗派です」と舞子は説明した。「信仰さえあれば、ただ阿弥陀仏の力だけにより浄土に行くことができると信じます。弥勒菩薩が現れて、すべての信者を救済するのです」
「救済するのね」と陽子は救世主イエス・キリストを思い浮かべた。
「はい」と舞子は続けた。少し嬉しそうだった。「弥勒菩薩はもっとも仏に近い菩薩で、仏陀が自分の次に仏になると預言したのが弥勒菩薩だそうです。宇宙でもっとも美しい菩薩であり、五十六億七千万年後に仏となり大衆を救済すると信じられています。ただ信仰のみにより救済されると考えるのが浄土真宗です」
「つまり、プロテスタントね」
陽子のなかで阿弥陀仏が主で、弥勒菩薩がイエス・キリストだと解釈された。探せば聖霊もいるかもしれない。浄土を天国だと解釈すれば、キリスト教プロテスタントが考える世界と完全に同じである。
語り終えると、「舞子さんは博学です」とY・Fが彼女の手を取った。日頃は褒められることが少ないせいか、舞子は顔を赤くして恥ずかしそうだった。二人の会話から、どうやらY・Fも弥勒菩薩という名前は聞いたことがあるようだった。弥勒信仰はアマテラスワールドでは広く知られているようである。
「弥勒様が救済してくれるというのは魅力的な信仰ですね」とY・Fが言った。
「私もまったく同じ意見」と舞子が笑った。「他力本願。駄目な人でも信仰があれば同じように報われるというのは公平だと思うわ。だって、そうでないと生まれつきがんばることが苦手な人はかわいそうだもの」
陽子は二人の会話が理解できなかった。