20. 紅き大河

文字数 3,811文字

 フロウの手からアマリリスは逃れたかったのだと思う。
 指先から伝わり全身に拡がっていく波が痛みを覆い隠そうとする。彼はあんなに避けていた治療をアマリリスのためにしようとしている。それは慈悲でありながら、避けようのない断絶だった。

「近くに、女の子が、いるの。……先に、その子を」

 アマリリスが受けた麻痺毒は致死的ではなく、傷も多いが小さいのばかりだ。だから状態の分からない少女を優先してほしいと頼んだのは建前ではない。
 しかし彼から突き放されるのを少しでも先送りにしたいという焦りも、心のどこかにあった。そういうずるい自分が鳩尾あたりに後ろめたく蹲っている。
 フロウは静かに頷いて霧に分け入ると、すぐにくたりと力ない矮躯を抱えてきた。

「この子か」
「えぇ。無事、かしら……」
「魔物の瘴気に毒されている。それと頭を打ったみたいだ」

 言い終わらぬうちに、少女は濃い青の光に包まれた。ひたひたな水の力が、全身を蝕んでいた瘴気を浚い、押し流していく。

(綺麗……)

 揺蕩う青は、半透明のベールを上から何重にも掛けたような魔力光特有のもので、その真ん中でフロウはじっと目を伏せている。
 ほんのり憂いを刷いた瞼は絹のひだに似ていて、人と同じに瞬くのが不可解に思える。まずこんな野山にいることも場違いだ。王宮の秘奥か極地の果て、垣間見るのも容易でない場所に在るのがふさわしい。青を湛えた彼はそれほど浮世離れした姿だった。

 光は湧き出したときと同じく唐突に止み、少女はアマリリスの隣にそっと降ろされた。
 すぅすぅと寝息が聞こえてくる。生かして帰すとは言われたが、受けた仕打ちによっては後遺症や傷跡が残る可能性もある――そんな懸念が丸ごと洗われる、健やかな様子だ。

「ごめんなさい、フロウ。治すことには、あれだけ、慎重だったのに」
「構わない。気を失っていれば治療された実感などないだろうし、……」

 言いかけた続きを、フロウはぽつんと放り出す。
 それを追いかけようか迷っている間に、温かな掌が今度こそアマリリスの頸動脈の上を押さえる。

 そうして二人は、青に融けた。





 ざぁ。ざぁ。ざぁ。
 規則正しい水音が、身の内を流れゆく。
 フロウが触れている首から重たい頭に、そして身体の中心に。網目みたいに分かれて手足の隅々に。ゆっくりと、循環している。
 混ざり合う魔力を介して克明に知覚する(わかる)のは己の血潮。以前癒してもらった時に思い描いた大河のイメージは、彼から惜しみなく注がれる力に対して抱いたものだった。しかしそれは元よりアマリリスの中にもあったのだ。
 脈打つ二つの河は境界を失くし、一つとなって複雑な円を描く。

 巡る力と霧の繭の外側で、ぴくりとも動かずにいた瘴気の塊が、鋭い魔力に呑まれて喰い潰されていくのをぼんやりと感じた。あの上級らしき魔物、だろう。敵はほど近くまで迫っていたのに、霧を隔てると遥か彼方の出来事のようだ。
 ぱきぱきと澄んだ音が聞こえて、それきり瘴気は散らばっていく。嘘みたいに僅かな間の出来事だった。

(あなたって、私が思っていたより物凄い精霊さん……なのねぇ)

 この時初めて、アマリリスはフロウに気後れ以上の漠然とした危惧を抱いたのだった。その危惧の種が、彼のもたらす心地よさに沈んで全く芽を出さないのも少しだけ空恐ろしい。溺れるほどの安らぎが違和感を(なら)してしまう。
 けれど。
 ほぅ、と全身を(ひた)す力の流れに意識を浮かべて、アマリリスは自ら警戒を投げ捨てる。

 感情はとうに一線を越えていた。
 もう、魔力がとろけるようだとか、何度も助けてもらったから信頼できるとか、もっともらしい理由を付けられる局面じゃあないのだ。根っこの部分で、フロウを危険視するなど一生できまい。
 フロウがどんな存在かという疑いよりも、その痛ましい表情を、あるいは別離を、アマリリスは真っ先に案じてしまう。彼が感じているだろう悔恨を少しでも軽くすることを、この瞬間も至上命題に置いている。



「私、あなたともっと話して、あなたをちゃんと知らなきゃって思ってたわ。……でも、今だけは、私のことを聞いてくれないかしらぁ」
「リィリのこと?」
「そう」

 短く答えて、ゆっくりと唇を舐める。舌の痺れはとっくに消えていた。
 胸にあれほどへばりついていた瘴気は絡めるように剥がされて、末端から流れ落ちる。代わりに傷んだところに穏やかな力が染み入って、補うように癒えていく。
 それが小さな擦り傷や切り傷にまで及び、全て拭い去られていくのを、アマリリスは苦みとともに受け止めた。もちろん肉体的な苦痛ではない。
 本の角で痛めた手をフロウは治さないと言った。安易な治癒を繰り返すことでアマリリスが負傷に疎くならないようにと。今夜それを覆すのは、多分、()()()()()だから。

「人質を盾に脅迫されて、言われるがままにここまで来たの。だから私が酷い有様なのは……だったのは、全部、私のせい」
「違うだろう。悪いのはリィリじゃなく犯人だ」
「だって、小さい頃から、脅しに屈してはいけないって教えられてきたのよ。なのに私は嫌なことから逃げたんだわ」

 覆い被さるくらいの至近距離に居ながら、どうしても視線は合わない。フロウは俯いてアマリリスを見ない。
 彼にはなんの落ち度もないことを証明しないとならないのに、声が震えそうになる。

「自分がどうなっても領民を助けたいだとか、高潔な意志じゃぁない。もっと浅はかで愚かなその場しのぎ……。私は、私が見捨てたせいでこの子が死ぬという重みが、ただおそろしかった」

 そっと指を曲げてみる――動く。
 アマリリスは彼が治した両手で彼の頬を挟み、無理矢理自分の方へと向けた。

「ねぇ。あなたと再会していなくても、私は同じ選択をして死ぬより酷い目に遭ったでしょう。あなたの力を頼みにして無茶したんじゃない。全部私自身の問題なのよ」

 間近で相対した瞳はやわらかな水面でなく、しんしんと底冷える冬の、泉を閉ざす氷結の色。
 薄青は痛みを孕みながら決然としている。かつて垣間見せてくれた深奥は、アマリリスの裏切りによって塞がれてしまった。
 その隔たりに目眩がする。

 だけど――だけど。
 何としてでも伝えなければ、この契約は彼を傷付けただけに終わってしまう。

「あなたは私を谷底に導いてなんかないわぁ。落ちようとする私の手を掴んでくれたの。だから……お願いよ、私をあなたの後悔にしないで」



 フロウは薄く唇を開き、にわかに苛立ちを浮かべた。
 丸く囲われた空間を占める水の気配が、いっせいにふつふつ粟立つ。沸騰する直前みたいなのに冷えていく感じがする。それが身体の中でも起こるので、アマリリスはまるで芯まで冒されていく。

 次の瞬間には首筋の手がぱっと離れて、体内を満たしていた力ごと、妙な感覚も抜けていった。二人で一つの大河から放り出されたもの寂しさが心にぽっかりと空いている。そしてフロウの厳しい表情に剥き身で晒されると、未熟な恋心は竦み上がるようだった。

「オレの、後悔……?」
「っ……。そう、私はあなたに窮地を救われただけよ。あなたのせいで悪いことが起きたなんて、一度もないわぁ!」

 惚れた弱みとしても、そもそもの力の差も、アマリリスはどうやったってフロウに敵わない。さしずめ対岸も見えない湖に声をキィキィ張り上げる鼠だ。
 フロウは容易くアマリリスの手を外して、逆に頬を捕らえてくる。しんと細められた目には逃がすまいという強い意思があった。触れた膚は吸いつくように馴染むが、もう融け合うことはない。

「お前は……リィリは、こんな目にあって、平気なのか。怪我をして辛くないのか」
「そんなことは、ないわ。けどこの怪我は私の……」
「ならどうして自分の無事を差し置いてオレの後悔なんて気にするんだ」
「私はあなたに助けてもらったのに、あなたが負い目に思うなんておかしいじゃない!」

 しばし、無言で視線がぶつかり合う。
 やがて楽士が指遣いを迷ったように、フロウは小さく呟いた。

「……どうして分かってくれない」





 弦の響きが鼓膜をふるりと撫でていく。その一瞬の間に、世界を閉ざす極小の天蓋は跡形もなく消えてしまった。
 広い暗闇が視界に帰ってくる。そこらに転がる樹の断面から生々しい香りが立ち上り、待ちかねたように吹き込んだ風に揺れる。音を吸う霧がなくなったというのに、時折囁く葉擦れ以外、山は沈黙したままだった。
 いつの間にか雲は薄れ千切れていて、まばらな星が静寂の下界を覗き込んでいる。

 フロウはゆるく瞬き、仕切り直すみたいにアマリリスを真っ直ぐ見つめる。不思議なことに、二人を包んでいた霧と一緒に、彼の表情にあった険は抜け落ちていた。後に残るのは――どこまでも澄んだ凪。

「だが、リィリがそういう態度なら、オレにも考えがあるからな」

 脅しつけるような物言いなのに、瞳は常の穏やかさを取り戻して透き通っている。
 月のない宴の終わり、悪意も干からびた夜の底で、アマリリスはぽかんとそれを聞いていた。







【納涼の宴――新月の理由】
納涼の宴に限らず、各地の祝祭や風習には初夏の新月の夜に行うものが多く存在します。
これは新月だと星がよく見えるため、その並びに来たる夏の風向きを占ったり、あるいは願掛けをした名残だという説があります。実際に、星が多く流れると酷暑になるなどのジンクスが、祝祭とともに伝わっていることもしばしば。

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