8. メイドは怒髪天を衝く

文字数 5,056文字

「アマリリス様。夜の山に出られたことも論外ですが、得体の知れぬものを身近に置くなど許されません。まして封じられていたなんて……どんな邪悪な存在か分からないのですよ」

 今朝も夏の光と風は爽やかにアマリリスの私室を通り抜ける。風を起こす術具もあるが、それに頼らなくても過ごしやすい時間帯だ。なのに両の手のひらはじわっと汗で濡れていた。

 アマリリスは部屋着でテーブルセットの椅子に掛け、少し離れたソファには一抱えの水の塊が鎮座している。
 そして間にノアがすらりと立ちはだかる。
 一分の隙もなく恭しい立ち姿だが、滲み出す空気は無敗の騎士さながら。特異な姿の客人に警戒心を剥き出しで、何かしようものなら叩き出す、と全身が語っている。

「ノア、フロウは精霊さんなのよ。《精霊契約(リンケージ)》が成立したのだから間違いないわ」

 アマリリスは気を引くように、右手を掲げてみせる。貧弱な腕には何の跡も見えない。しかし確かにある繋がりに意識を向ければ、手首に青い契約紋が浮かび上がった。
 紋を認め、ノアの目はきゅっと鋭さを増した。

「私は魔術の才も知識も持ちません。……だからこそ。精霊は魔力なき者には見えないのでしょう? そこの者が精霊であれば私の目に映らないはずです」
「それは……」

 ――ノアに昨夜のあらましと期間限定の契約のことを伝え、フロウが人に変じるところも見せた。そして、彼のことを黙認してほしいと、頼んだ。
 ちょうど十年前にアマリリスの専属についたノアは、過去この別荘に滞在したフロウを知っている。その時のいざこざも。一筋縄では了承してもらえないと、予想はしていたけれど。

「強い魔物には、幻で人を惑わすものもあると聞きます。どうか冷静なご判断を」
「信用しないのは勝手だが、魔物などと同列にするな」

 室内には自然の魔力があまりない。そのぶん、硬い声とともに水の力がざわつくのをはっきりと感じた。ガラスの水差しの中身がちらちら細波(さざなみ)立っている。

「よしんば本当に精霊だとしても、私は使用人として、アマリリス様がこの狼藉者と過ごすなど看過できません」
「ろ、ろうぜき……。十年前のことは誤解なのよぅ、ノア。この人はただ……」
「もっともらしい理由で誤魔化せる所業ではありません。幼いアマリリス様の……ッ、()()()()()()()など!!」

 相対するノアは魔力を持たない。しかし、その背から気迫というべきものが陽炎めいて鎌首をもたげるのを、アマリリスは幻視した。
 入学したての頃に学園の先生が実演してくれた火術の、大人数人をゆうに呑み込めそうな燃える柱。離れて見ていた生徒のところまで瞬く間に空気を焦がした、あの業火。頬を焼くぴりぴりした感触が蘇る。

(どうしよう。想像以上に、ノアのガードが堅いわぁ……)

 ごくり。無意識に喉が鳴った。





 時は明け方前に遡る。
 地図と夜空を確認しながら、二人は足早に屋敷に向かっていた。

 十年ぶりの再会だ。話したいことはいくらでもあるのに、いざとなると何を話していいか分からない。
 だからアマリリスは思い出の代わりに、目下の問題を持ち出した。

「これからなんだけれど……。私の専属メイドに、フロウのことを打ち明けたいの」
「オレのこと?」
「精霊だとか、姿を変えられるとか。ノアとは一緒にいることが多いから、隠しても隠しきれないわぁ」

 人の姿でいればそうとしか見えないフロウは、人として別荘に迎えても問題なさそうだ。だが年頃の貴族令嬢が出自不明の異性を連れ込むのは、あらぬ誤解を招く。――事実アマリリスは慕情を捨てきれていないのだし。
 その辺りをどう取り繕うかも、一番身近で頼れるノアに相談したい。

「信用できる相手なら構わない。ただ、怪我を治したのは言わないでくれ」
「ぅ……。知られたくない、のね?」

 アマリリスは口ごもってしまった。ただでさえ我儘を言って、ひと夏の時間を割いてもらっているのだから、本人の意向を第一にするべきだ。しかし――。

「問題があるか? 魔物に遭ったことを伏せれば辻褄は合うだろう」

 そう。経緯を省いて、森を歩き回ったアマリリスが偶然彼と再会したことにすれば一応筋は通る。今夜の出来事は。
 厄介なのは十年前、フロウが屋敷を追われた顛末の方だ。



 彼が滞在していたとき、アマリリスは思い出すと恥ずかしいぐらい浮わついていて、それは不注意となってアマリリス自身を襲った。歩き慣れた屋敷の階段から転落し、脚を折った――のだという。曖昧なのは、執事による仮の見立てだったから。

 衝撃や痛みはほとんど覚えていないが、夕刻の色彩が強烈に記憶のキャンバスに残っている。
 宙に投げ出された身体を軸にして、ゆっくりと縦に回る景色に、輝く落日の朱色。砕けた鏡みたいにちかちか煌めいていた。血も凍る一瞬の美しさの中に、アマリリスは落ちていく。

 片脚の骨折で済んだのはむしろ幸運だったと、両親と執事に大層怒られた。

 フロウの声を一度きり夢うつつに聞いたのは、その翌日の夜明けのことだ。せっかくの言葉を、本当に夢だと思って忘れていたんだけれど。
 ともあれ目を覚ましたときにも、彼はそこにいた。ベッドの側に膝をついて、居眠りするみたいに、掛布ごしのアマリリスの身体にすやすや突っ伏していたのである。
 朝支度をしにきたメイドが悲鳴を上げてそれはもう大変な騒ぎになったし、フロウはやはり一言も喋らずで、すぐさま屋敷を叩き出された。罰がなかったのは、雨の夜にアマリリスを保護した恩を差し引いたのだろう。少女の必死の擁護は何の力も持たなかった。

 ――アマリリスに()()()()()()()()()()()()()と分かったのは、主治医がやって来てからで。その時にはもう、無言の青年の足取りは杳として知れなかった。



「あの日あなたと鉢合わせたのが、ノアなの。あれって治療のためだったのでしょ? 意図を説明できないと、そのぅ……」
「……そうだな、非常識だった。話すのはやむを得ないか」

 あんまりあっさりと頷くので、アマリリスはなんだか恐縮した。『なら契約はなしにしよう』と言われることまで覚悟していたのに。
 一度了承したからといって、どうしてこんなに律儀に付き合ってくれるのだろう。

(私が結界を壊したから? でも、以前からフロウは外に出ていたのに、なんの役に立ったのかしらぁ)

 それにアマリリスはもう何回も助けられていて、既におあいこ(イーブン)以上を貰っている。

 横顔をそっと仰ぎ見ると、ぱち、と瞬いてこちらを向いた薄青色とかち合った。どうした? と、物問いたげな目。――なんとなく分かってきた。無表情に見えて、小さな変化や動作は意外と雄弁だ。

「うぅん、ありがとう。あとは一人、屋敷に魔術の心得のある人がいるの。あなたのこと精霊だって証言してくれるかも」
「そいつにはどこまで話す?」
「そうねぇ……」

 たった二ヶ月間を一緒に過ごしたい。それだけなのに、過去や立場が行く手を阻む。
 説得材料は少なく、ノアの反応も未知数。けれど彼に譲歩させてしまったのだから、見合った結果を勝ち取らないといけない。

 歩きながらあれこれ頭をひねっていたら、いつの間にか空は白んでいた。――前方の樹々が開け、濃い朝靄の中に別荘の屋根がぬっと浮かんでいる。
 腕を翳して契約紋を確かめ、アマリリスはお腹に力を入れた。





「んー……。低位の水精が身体にぴったり重なるように水を帯びている、ですか? 低位精霊にしては随分大きいですね」

 八年前からストランジ家で働いている護衛兼御者、人手の少ない今は馬丁までしてくれているジェフリーは、目を白黒させてそう言った。急に呼び出され、水の塊を指して『これ何に見えるかしら?』なんて謎掛けをされたら、当然の反応だと思う。
 あのままではノアの鉄壁を崩せそうになかったので、第三者に訊いてみよう作戦に移ったところだ。

「確かですか、ジェフリー? スライムだとか危険な魔物の可能性は?」
「いや、魔物ってのは瘴気……汚れた魔力みたいなのを発してるんで、全然違います。それに姿もおぞましいですよ。僕は実物を見たことありますが、スライムなんて濁ったドロドロですからね。似ても似つきません」
「そうだろう、お前は見る目がある」
「うわ喋った!?」

 今この屋敷にいる、アマリリス以外の唯一の魔術師から言質が取れた。ノアは人を惑わす魔物もいるなんて言っていたけれど、客観的に見て、部屋に入ったばかりのジェフリーに小細工する隙はなかったはず。
 ひとまず第一関門を突破して、ほうと息が漏れる。

「……素性に疑念を持ちましたこと、お詫びいたします」

 感情を呑み下すような間があって、ノアが深々と頭を垂れた。
 フロウはといえば透明な身体をふるふる揺らしている。多分、首を振るのと同じ意味、なのかな。

「二度と魔物扱いしないなら、それでいい」
「ノア、ねぇ、顔を上げて。フロウもこう言っているし、私を心配したからだって分かってるわ」
「ご容赦ありがとうございます。ですが、」
「信用できるかは別、よね? ……あのね、一つ提案があるの」

 ソファの上にいるフロウがゆるりと姿を変え、腰掛けた状態に人の形をとる。ノアは冷えた一瞥を投げたあと、アマリリスに真剣な顔を向けた。

「は? えっ、えええ……人型精霊!? ヒェ……」

 狼狽しているジェフリーには申し訳ないけれど――魔術師であり、馬車を使う度に顔を合わせる彼には、姿のことまでは話しておくつもりだった。後でちゃんとフォローしよう。



「彼に邪心がないこと、証明はできないのよね。だからノアが見極めてくれないかしらぁ。私、フロウと二人きりにならないわ。ノアが同席できる時しか一緒にいない」

 これは昨夜のうちに、相談していた内容だ。他にノアに食い下がれる条件を思い付かなかった。
 あとはもう泣き落としぐらいしかない。効くかはともかくとして。

 ――アマリリスがフロウに願ったのは、共に過ごし、彼を知ること。いつもノアが一緒なら、話す内容も筒抜けになる。何をどこまで語るかは彼の匙加減とはいえ。
 アマリリスが妥協したように見えて、その実、不利益を被るのはフロウだ。言葉に力のない子供であることが悔しい。
 だから、せめて押し切ってみせる。どんな子供じみた手段を使ってでもだ。

(嘘泣きだって本気泣きだって……やってやるわ)

 ノアは眉根を寄せて難しい顔をしている。緊張で喉が乾くのを感じながら、自分の視線が逃げてしまわないように、ぎりと奥歯を噛んだ。気概で負けるようじゃ駄目だ。
 耳元で規則的に叩く鼓動が、朝の清々しい空気を乱している。返答を待つ時間は蚕の吐く糸のように、途切れることなどなく思えた。

 どれだけ経ったか。ノアの引き結んだ唇がはくりと無音を発して――躊躇いがちに閉じ、また開いた。

「……アマリリス様の安全のために、守ってほしい約束がございます。必要な時以外、人の姿をさせないこと。声を上げたらすぐ駆け付けられる距離に、必ず男手を置くこと」
「っ! それでいいわ! フロウ、どう?」
「問題ない」

 即答に、ノアは苦々しく口元を歪め、所在なさげにしている護衛に話を振る。

「ジェフリーも、よいですか」
「え? なんで僕?」
「男手と言ったでしょう。戦力にならないと意味がありませんし、話を広めたくないですから、あなたが適任です」
「ああ……、そりゃそうなりますね。仕事の範疇ですから大丈夫ですよ」

 ジェフリーが簡単に請け負うので、ノアはいっそう顔をしかめた。ゴネてくれた方が良かった、と言わんばかりに。
 ――でも、これは。

「その者が問題を起こしたら即、屋敷中に知らせて捕縛しますから。……いえ、ご当主様に洗いざらいお話しして領地中に顔絵入りの手配書を回していただきます」

 最後に深く息を吐くのと同時に、ふっと険しい雰囲気が消える。
 困り顔に乗せた笑みは、なんだか拗ねたような気配と躊躇いの混ざった、不思議な色をしていた。

「あ……ありがとうノアっ! 私もフロウも、悪いことなんて絶対しないわぁ!」
「危害を加えることはないと約束する」

 早速とぷんとフロウが姿を変える。
 それを尻目に――感極まったアマリリスは専属メイドの胸に飛び込んで、思い切り抱きついた。







【精霊と魔物】
精霊は本能的に魔物を大変嫌います。格上の魔物は忌避して近寄りもせず、格下と見れば苛烈に攻撃します。
逆の立場――魔物から精霊に対しても、同じような反応です。
互いに反目し合う精霊と魔物ですが、特に共通の属性を持つときの相性は最悪です。

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