1. 精霊は応えない

文字数 3,353文字

 さわさわと木の葉を揺らしていた風が不意に強まって、緑燃ゆる夏の『精霊の山』を撫で上げていった。
 大人ひとり分くらいの小さな崖から、風に巻かれて水の気配が立ちのぼる。あの下には清らかなせせらぎがあるのだ。ここには何度も足を運んでいるから、もう地形は頭に入っている。

 自然が空に描いた微かな魔力の線を『旋風の蜻蛉(風精)』達が連なって辿る中で、川からはぐれた『水面の蛙(水精)』が手足をばたつかせている。それは身をよじって風の流れから逃れると、嬉しそうにもと居た崖下に飛び込んだ。
 魔術師になりうる者にしか姿を見せない、風や水といった魔力の化身。彼らは刹那の感情のまま自由に戯れている。



 アマリリスは風に乱れた暗いオリーブグリーンの長髪を押さえると、きゅっと眉を寄せて、崖を安全に降りる小道に向かった。

(今日こそは、誰か応えてくれるかなぁ。……うん。大丈夫。きっと上手くいくわ)

 鼓舞するように自問自答する。でも、虚勢の下に諦めが潜んでいるのを、誰よりもアマリリス自身がよく分かっている。
 幼いとき外遊びで破いてしまった服を、小さな手で握って隠そうとしたように。どれだけ上っ面を覆おうと、本心の弱さは消えない。汚れたままの手は服の穴を隠すどころかシミだらけにしてしまい、優しくも厳しい母にこんこんと説教された。服を駄目にしたことではなく、下手な誤魔化しを。

 目の前のことだけ考えていれば良かった頃よりももっと、十五歳のアマリリスは息苦しくて、世界は日々色あせていく。
 意気地なしな心だけが時の流れに置いていかれ、途方に暮れている。





 魔術をたて続けに発動したために、じんわりと全身が疲労していた。来るときは耐えられた陽射しがぎらつき、容赦なく体力を削ってくる。
 そうして恥じらいもなく川辺の木陰でへばっていると、背後から優しく呼ばう声がした。

「アマリリスさん」
「み、ミシェルせんせぇい!」

 慌てて立ち上がって背すじを正した。どんな相手にも間延びしたしゃべり方になってしまう癖は、どうにも直らない。
 精霊学の教師、ミシェル先生は、大柄な背をかがめてほほえんだ。少し皺のある目の鮮やかな緑色はいたわりに満ちている。

「あのぅ、すみません。今日も失敗ばかりしてしまって」
「気にしなくていいのよ。学舎(まなびや)は、失敗を重ねながら成長していくための場所なのですから」

 とはいえ、根を詰めすぎると身体を壊しますよ。そう言って先生はゆっくりと背中をさすってくれた。

「疲れているのね……かなり魔力を使ったでしょう。挫けずよく頑張ったわ。最後に、先生の前でもう一度だけやってみましょう」
「……はい」



 再び川に向き直り、きょろきょろと見回す。『精霊の山』だけあって、そこら中に魚や蛇や様々な半透明の姿がある。でも彼らとの契約は無理だ。歩み寄ってみても、アマリリスに興味を惹かれたそぶりがない。
 視線を彷徨わせていると、川幅の中程のところ、水面にぺたりと座り込む蛙がいた。崖上から飛び込み(ダイブ)をきめた子だろうか。――さっきから、こちらを向いている、ような。

 この小川は水深が浅くて、底に尖った石もない。脱いだブーツを揃えて、制服の長いスカートの裾を片手でたくし上げ、涼やかな水をじゃぶじゃぶ渡っていく。

「精霊さん、精霊さん。『水面の蛙』さん」

 透き通った蛙はつぶらな目を瞬かせて、ふわりとアマリリスの胸の前まで浮かび上がった。流星の尾みたいに後を引いた水の粒がそのまま周囲を回っている。これは、脈ありかもしれない。

 練習用のシンプルな短杖(ロッド)を構え、静かに魔術語を唇にのせた。
 詠唱が進むにつれ、淡い白光とともに、杖の前に小さな陣が展開されていく。
 ――《精霊契約(リンケージ)》は、契約術の初歩。魔力の消費はわずかで発動もたやすく、属性術を扱うにあたって様々な恩恵があるので、属性適性がある生徒はみな一年生のうちに初めての契約を済ます。

 ほどなく陣が完成して虚空にちらちらと輝いた。これに精霊が触れれば契約への同意とみなし、どちらかの意思で破棄するまでパートナーでいることができる。
 はずなのだけど。

 すんすん。匂いをかぐように蛙は陣を検分して、それからアマリリスのそばを楽しげにぴょこぴょこ跳び回った。それだけだった。
 一切触れようとはしない。人間が別れ際にするように片方の前肢を挙げると、するんと水面まで高度を落とし、勢いのまま川下へ滑っていってしまった。

「今度も、駄目みたいですぅ……」

 不発になった陣を解いて、アマリリスは短杖(ロッド)ごと手をしんなりと落とした。



「やはり……例のない状況ですね。明らかに興味を示しているにも関わらず、契約には応じない……」

 アマリリスが川から上がると、ミシェル先生は難しい表情で腕を組んだ。先生はきめ細やかな指導者だ。こうして不出来な生徒にも声を掛けてくれ、親身になって考えてくれる。
 その親切に報うことのできない自分が不甲斐なくて、アマリリスはぐっとうつむいた。

 アマリリス・ストランジの生家、ストランジ子爵家は領土こそ広くないが、優秀な魔術師を多く輩出する血筋である。
 魔術の才は家柄や親の資質を問わず現れうるのだけど、多少の偏りはあるらしく。そんな家で、実力も実績もある魔術師の両親と才能あふれる弟に囲まれて、アマリリスひとりが凡才なのだ。
 親は何も責めなかったが、それが逆に惨めだった。

「嫌われているんでしょうか。精霊さん達に」

 魔術師にとって、目の色は大きな意味を持つ。『魔力なき者の虹彩はアクセサリーにすぎない』なんて差別的な言い回しがあるくらい。一番適性のある属性が色合い、その強さが鮮やかさとなって瞳に表れるのだ。
 アマリリスの目はほんの少し青みがかった暗灰色――扱えるのは水の単属性で適性も低い。魔力は並程度、とはいえストランジの出としては貧相で、ついでに要領(物覚え)もよろしくない。魔術師に必要な素養がことごとく欠けている。

「嫌われてなどいませんよ。先の水精、ずっとご機嫌だったでしょう? 適性や魔力が高いほど精霊を惹き付けやすいのは確かだけれど、少なくとも、寄ってきてくれたものには好かれる性質(たち)だわ、アマリリスさんは」
「なら、どうして……?」

 魔術を習いたての一年生でも為せる契約が、三年生になっても未だに成功しないのは何故なのか。

「私の見立てでは、おそらく原因は()()()()()()()



 形を持たない低位の風精が、ミシェル先生のかっちりセットされた髪の一房をなびかせる。
 それを指先であしらって、先生は生徒をまっすぐ見つめ、そして遠い空へ視線を移した。ここではないどこかを見るように。瞳はどこまでも穏やかで、深い智に裏打ちされている。

「これは俗説なのだけれど……。契約すべき精霊が定まっている者が、稀に居るといいます。定めとはすなわち過去の縁、あるいは未来の運命。貴方もそうなのかもしれません」
「そんな……っ、じゃあ、私はどうしたら……!」

 いつになるとも知れない運命が訪れるまで、人並みのこともできずに待ち続けるしかないのか。
 あぁ、でも、とアマリリスは思う。消極的な自分にはそれが相応なのかもしれない――。

「アマリリスさん。諦めないで、失敗に囚われないで。先ほどの話が正しかったとして……定めが目の前に現れたとき、掴み取れるのは貴方だけなのよ」

 胸の奥で渦巻く言葉にならないものを押し込めて、アマリリスは顔を伏せたまま頷いた。
 先生は優しい。後ろ向きな感情をぶつけるべき相手じゃない。下げた視界の中で、短杖(ロッド)をきつく握る右手は白くなり、震えていたけれど。

「疲れたなら休んでいいの。嫌になったら一度放り投げてもいい。でもどうか、望むことを止めないで。貴方が望む限り、先生はいつでも力になります」
「……ありがとう、ございます」

 声は間近に聞こえた。先生はまたきっと長身をかがめていて、丁寧に語り掛けてくれている。
 それなのに――アマリリスは最後まで、顔を上げることができなかった。







【属性と瞳の色】
属性は火水地風の四種類です。瞳の色相とは以下のように対応します。
 火:赤~赤紫系 水:青~青紫系 地:黄~橙系 風:緑~黄緑系
彩度は適性の強さを現し、明度は適性とは関係なく人それぞれです。
複属性に適性がある場合は一番高適性の色が出ます。

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