21. 宴のあとさき

文字数 4,850文字

 三度(みたび)、白霧の中にいた。
 これまでのように彼が生み出したのではない。霧の成り立ち、すなわち空中に散らばる細かい水の粒――とは根本的に異なるもの。()()()()()()()()()、いうなれば虚無。それがアマリリスには霧として見えているだけだ。
 上下左右は果てなくぼんやりとして身体を支えるものもない。ただふわふわと、薄紙のように落ちていく。



 ぽすんと何かに背が当たって、いつの間にか霧は晴れていた。
 そこはカザヤの別荘の、見知った自室の寝台だった。大きな窓から薄明かりがちらちらと漏れ入っている。カーテンを揺らすのは冷ややかな早朝の空気。
 仰向けに横たわった上には薄手の布団が掛かっていて、今落ちてきたはずなのに、最初からここで寝ていたように身体が収まっている。それになんだかベッドが広い、ような。

 けれど見回した視界が儚げな青年の姿を捉えると、疑問は意識から滑り落ちて消えていった。
 彼はベッドの上に乗り出してアマリリスの額にそっと触れている。

『……の、いずみ…………てくれ。もし、……えていて……』
『わかったわぁ。……ね、ぜったい……する』

 途切れとぎれの声に、舌足らずな子供の声が答える。

『ありがとう』

 密やかに交わされる声の片方は、どんな雑音に紛れても聞き分けられる美しい響き。夜明けの静寂を色付けるハープの調べ。
 もう片方の幼げな口調には覚えがない。なのに、どこかで聞いたことがある気がする。

『おやすみ、……。また昼に』

 滑らかな手が、布団の上から腹のあたりをぽんと撫でる。枕元を去っていこうとする青年をどうしても離し難く、アマリリスはベッドの上をにじにじと這って白い袖を掴んだ。

『    』

 ぽろりと零れた呟きがなんだったのか自分でも分からない。
 青年は小さな手をじっと見て、頷いた。
 それから二つの声はぽつぽつと、なにか他愛のないことを、いつまでも話していた。



 ――これは夢だ。
 はっと腑に落ちた。自覚は呼び水となって、アマリリスを密やかな幻想から押し流していく。寝ころんでいた身体は目眩にくるくる翻弄されて、ふらつきながら地に足をつける。
 風が吹き抜ければ、そこは緑がむせ返るカザヤの山中だった。
 月のない闇夜の奥のほうに蜜柑色の光がちらついている。樹々の狭間から現れる人物をアマリリスは既に知っている。この光景は、昨晩の顛末の再現だったから。

 ジェフリーは憔悴した様子で藪をかき分け、けれど揺るぎない足取りで駆けてきた。手にした短杖(ロッド)の先に輝くのは、副次的に発生する魔術光ではない、周囲を照らすための《灯光(クリアライト)》。温かな色味が無性に胸を打つ。

『お嬢様、ご無事ですか!!』
『ジェフリー! あ、あの、勝手に傍を離れてご……』
『申し訳ありませんでしたッ!』

 めんなさい、を封じられてしまった。ジェフリーが身体を直角にする勢いで頭を下げるのを、とにかく慌てて止める。

『僕の見込みの甘さでお嬢様を危険に晒しました。処罰はいかようにも受けますが、今はまず、お屋敷に戻りましょう』
『そんな……、ジェフリーの責任じゃないわぁ!』

 ちゃんと守ってもらっていたのに自ら敵の罠に飛び込んだのだ。どう考えてもこちらに非がある。
 言い募ろうと息を吸い込むと、先手を打つように目の前に紙片が差し出された。――アマリリスを窓の外に誘い出した、あの脅迫状だった。

『こういう悪意がお嬢様に触れないようにするのも、護衛の仕事です』

 ジェフリーはきっぱり断言する。
 食い下がることは躊躇われた。その潔い鋭さはジェフリー自身に向けられたものだ。容赦ない刃の正体はきっと当主への忠義や護衛としての誇りであって、それを踏みにじったアマリリスにどうこうする権利なんてない。

 何度でも突き付けられる。敵の言に従うなんて誤りだった。
 人質が自分のせいで死んでしまうと思ったとき、おそろしさのあまり安直な道を選んだ。それがジェフリーの落ち度となってしまうかもなんて考えが及ばなかった。アマリリスの行動はもしかしたら人の目には自己犠牲的に映るかもしれないが、結局他の人にしわ寄せを押し付けている。

(ジェフリーは悪くないって、お父様たちにちゃんと伝えなきゃ)

 昨晩も心に誓ったことを改めて刻みつける。それぐらいしか、できることがない。
 現実と夢、二度の決意は重なって深く食い込むようだった。



『アマリリス様……! お、お怪我はありませんか!?』

 瞬きすると、広いエントランスホールで、ノアが瞼を腫らしていた。
 今度は屋敷に帰り着いた直後だ。ノアは片時も休まずアマリリスを待ってくれていた。

『心配させてしまって、ごめんなさい。私は大丈夫よ』

 怪我を()()()()()わけではないけれど。
 たった半日でボロボロになったドレスには泥汚れと赤黒い染みがついていて、着ている本人が傷を負ったのは明らかだ。ノアは切羽詰まった表情で身体を検分する。そして()()本当に無事であることを確かめると、堰を切ったように涙を落とし、アマリリスを抱き締めた。

『お傍を片時も離れなければ良かった……。戦えずともアマリリス様をお止めすることぐらいできたでしょうに!』

 背の高さも、内面の落ち着きも、二人を比べたらあらゆる点でノアが保護者、アマリリスが被保護者だ。けれどこうして伝わってくる慄きは迷子の少女のよう。
 それだけ、失いたくないと思ってくれている。血は繋がらなくとも家族のように親身になってくれている。

『お昼に話したあの子を……人質に取られたのだと、聞きました。ですが私は、誰かのために、アマリリス様の身に何かあっては嫌です』
『ノア……』
『私は酷薄なのです。アマリリス様がお元気で幸せであれば、他の者のことはどうでもよいと思ってしまうほどに』

 か細い声が、耳元で途切れていく。
 ノアが冷たいなんて嘘だ。
 大商家である実家の両親とノアは折り合いが良くない、と聞いたことがある。そうであっても、父親の怪我の報が入った時にはどことなく沈んだ様子でいた。苦手な相手、嫌いな相手ですら切り捨てられるタイプではないのだ。まして自分に懐いている愛らしい子供に何かあって平気なわけがない。
 あの子を犠牲にしてもアマリリスに生きてほしいなんて――口にさせてしまったことが、悔しい。
 返す言葉が見当たらなくて、アマリリスはしがみつくように、ノアの身体に抱きついていた。



 考えずにはいられない。
 どうして()()()、間違えてしまうのだろう。
 どうしてその失敗は、アマリリスではなく誰かに降りかかるのだろう。





 泥濘の眠りが明けた。
 起き抜けの昼食は中途半端に豪華だった。納涼の宴のための食材がそのまま使われたからだ。
 めでたい状況とはとても言えないため、飾り切りなど華美な調理法は丁寧に避けられている。黄色のとろりとしたスープにたっぷり沈んだ白身魚は、氷箱に詰めて届けられた新鮮なもので、本当なら沢山の野菜や香草とともに姿蒸しにされていたはずだ。一口大まで切り分けられた魚の滋味が無性に寂しい。

 そうしてすっきりしない食事を終え、アマリリスは自室でジェフリーの話を聞いている。

「既にご存じのこともあるかと思いますが、改めて報告します。お嬢様と町の子供の誘拐、および魔物発生の犯人と思われる四人を捕縛。昏睡状態のまま西棟の空室に拘束しています。バージルと僕、それにフロウさんが交代で警戒し、他の者は一切近寄らないよう周知済みです」

 バージルは普段は本邸勤めの四十代半ばの執事で、この夏カザヤの別荘を取り仕切ってくれている。戦いに縁のある立場ではないが、護身の心得があり、どんな時でも冷静だ。それで見張りに抜擢されたのだろう。

「あの崖下にあった檻は、魔物が入っているものが十六、空が十五。危険度の低い魔物三体のみを後の調査のため残し、あとは即座に駆除しました。また檻を覆っていた布は、どうやら魔力や瘴気を遮断する作用があるようです。錬金術の産物と思われますが詳細は不明です」
「だから今まであんな数の魔物を隠しおおせていたのねぇ」

 おそらく、接近されるまでユインの魔力を察知できなかったのも、その布のせいだ。

「魔物入りの檻はそのまま山中に隔離してあります。これは自警団が見張ってくれていまして……冬眠でもしているように、一切能動的に動こうとしないそうです。何か変化があったらすぐ連絡が来ます」
「分かったわぁ。自警団の人にも迷惑を掛けてしまうわね……」
「彼らにとっても自分事ですから、お嬢様が気に病む必要はありませんよ。町を守るためにも互いに協力すべきです」
「でも、首魁の目的は復讐だったのよ。私がここに来なければ魔物が現れることもなかったわ」

 あの夜にユインが語った目的や動機は、帰る道すがら共有している。
 ジェフリーはアマリリスの自責には答えずに改めて真剣な眼差しを向けた。

「ユイン・リーヴァン、だと言っていたんですよね」
「えぇ」
「本当にリーヴァンの血筋なのかは分かりませんが、冗談で掲げられる家名ではありません。急ぎの手紙を出したので、元々頼んでいた護衛の増員と共に……おそらく奥様が来られます」



「お母様がこちらに?」
「はい。ことの重大さとは別に、理由があります。手下と思われる一人を起こして尋問したところ、異様な様子で舌を噛みました」
「えっ、な、亡くなったのぅ……?」
「フロウさんが同席していたので、大丈夫です」

 納得しかけてから、アマリリスは愕然とした。
 フロウがいたから生きている、ということは、あんなに知られるのを嫌がっていたのに人前で治療してくれたのか。それとも度重なる同行の中で、ジェフリーには既に教えていたのだろうか――?

 だがそもそも、ユイン達を深い眠りに留め置いているのもフロウの力なのだ。魔力の霧に呑まれてからずっと、彼らは自ら目を覚まさない。
 普通、自然の化身である精霊は非常にシンプルな能力を持つ。水精なら水や氷を操り、火精は何もないところに赤々と火を灯す。その範疇からフロウが逸脱していることを、今更隠しておける余地はなかったのかもしれない。

「そいつは持ち直したあと正気に戻り、自害しようとしたことは覚えていませんでした。更にここしばらくの記憶もあやふやだと。まあ、後者は罪を軽くするための方便かもしれませんけど、洗脳の類を使われたのは間違いないでしょう」
「だからお母様なのね。精神に関する魔術が上手だから」
「そうです。ストランジ家配下の誰よりもその分野に秀でていますので、自らいらっしゃるかと」

 ハイドランジア・ストランジ。結婚したら名乗る度に韻を踏む羽目になった――が口癖の、アマリリスの実母。
 その結婚の経緯(いきさつ)は、上層部と渡り合って研究費をもぎ取る強さに父が惚れたのだという。つまりかつては父と同じく王立魔術研究所、国の技術の粋に身を置いていたのだ。
 瞳は翠玉(エメラルド)のごとき青みの緑。風の高適性を持ち、精神、特に記憶に干渉する術に長けている。自分では魔術よりも交渉事が得意だなんて嘯いているけれども。
 母であれば掛けられた洗脳を紐解くことや、消された記憶を辿ることもできるかもしれない。



 けれども母は、かつてフロウを強硬に屋敷から追い出した張本人でもある。
 アマリリスはさらりと白い手首に目をやった。顕れてはいないが、確かに存在している契約紋に。

 今の状況でこんなことを考えてしまうのは酷く浅ましいが――母の訪れは、有無を言わさぬ夏の終わりを意味している。
 思えば最初からノアに反対され、フロウも契約を終わらせようとしている。アマリリスだけが必死に縋っている事実が悲しかった。







【心身に干渉する魔術】
生物を構成する重要な要素は、身体(いのち)精神(こころ)の二つだと考えられています。
これらに直接影響を与える魔術は扱いが難しく、一部のごく平易な術を除き、使い手に素養と努力を要求します。素養は属性への適性とは全く別のものであり、また身体に関する術が使える者でも精神に関する術が使えるとは限りません。逆も然りです。

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