3. 別荘の夏休み

文字数 3,892文字

 夢を見た。

 額に触れた指。アマリリスは導かれるように眠りの淵から浮きあがって、目醒めとの狭間に揺蕩う。
 焦点の合わない視界で淡青色だけが鮮やかだった。手を伸ばせば届く距離。

『……リィリ』

 聞いたことのない声が呼んでいる。たおやかに爪弾かれた弦のように、心地よく鼓膜を震わせる。

(本当に?)

 夢。これはいつの夢。()()()()()()のリフレイン。

(ほんとうに?)



『たのむ、リィリ』

 彼の声は知らない、はずだ。わずかな交流の間、彼は一度も話さなかったから。

『……の、いずみ…………てくれ。もし、……えていて……』

 なのに、訴えかける声を彼のものと素直に思えるのは――涙が出るほど胸が詰まるのは、やっぱり、アマリリスは彼の言葉を聞いたのだろう。

(あぁ。待って、行かないで、フロウ……!)



 霞むほど遠い、夢と現実のあわいで。





 ストランジ家の別邸はひっそりと静まっていた。今いる使用人はノアをはじめ最小限のみ。しかし寂れた空気はない。令嬢の滞在に備え、屋敷内は徹底的に清められている。
 磨かれた暗褐色の組木の廊下に、朝の光が斜めに射し込んでいるのは、絵画のように厳かだ。ノアはほうと息をついた。

 コンコン、とドアを叩く。あくび混じりの返答があった。ノアは朝食の載ったワゴンを押して、静かに入室した。



 アマリリスは室内着で、テーブルセットにちょこんと座っていた。ノアは彼女が幼い頃からの専属メイドだ。
 開け放たれた窓から風が吹き込んで、濃いオリーブグリーンの髪を揺らしている。夏といえど、朝はこうしているだけで涼しい。

「おはようございます、アマリリス様」
「ノア、おはよう。朝ごはんはなぁに?」
「お肉とお芋のオムレツですよ」

 具沢山のオムレツはアマリリスの好物。口もとがふにゃりと緩むのを見て、ノアも笑みを浮かべた。

 五歳のアマリリスに付いたのは、ノア自身も幼さが残る十三の頃。使用人としての職能より、話し相手、遊び相手として期待されてのことだ。それから間近で過ごすうち、アマリリスを姉のような気持ちで見守るようになっていた。

「誰にも見られていないんだし、いつかみたいにノアと一緒に食べたいわぁ」
「それは流石に」

 内側がふかふかのパン。野菜がたっぷり煮込まれたスープ。刻んだ豚肉と芋をバターと香草で炒め、卵で包んだオムレツ。湯気のたつ料理を並べながら、ノアは苦笑した。
 幼いアマリリスが両親の不在で気落ちしているように見えた時、こっそり同じ卓で食事をとったことがある。

 姉のような、というと語弊があるかもしれない。ノアは実家に兄と弟がいるが、幼少の兄は粗野で弟はきかん気だった。
 ノアの礼節と、アマリリスの遠慮をもって、姉妹の綺麗な上澄みを掬ったような関係を築いてきた。――使用人のノアが分をわきまえるのはともかく、アマリリスの聞き分けが良すぎるのは、少し物足りなく思うけれど。



「久々にお父様たちとお食事できて楽しかったなぁ。もっと居られればよかったのに」
「お仕事、残念でしたね」

 アマリリスは今年の夏季休暇をこの郊外の別邸で過ごすことになっている。それも本当は、一家揃っての予定だった。だが優れた魔術師である当主は所用により王都滞在が決まり、領地の留守を預かる夫人は、まだ九歳の長男と本邸に残ることになった。
 せめてもと休暇初日である一昨日には、学園から戻るアマリリスに合わせて家族でこの屋敷に集まり、団欒の時間を取っていたが――みな昨日の朝食のあと、早々に発ってしまった。

「まぁ、ひろびろと羽根を伸ばさせてもらうわ。今日は町にも出るしね」
「おめかしはお任せくださいませ。私も久々で腕が鳴ります」
「本当ねぇ。ノアによそいきの仕度を手伝ってもらうの、半年ぶり!」

 アマリリスの在籍する学園は規則が厳しく、学生や聴講生以外の入構が難しい。貴族の子女であっても学寮に使用人を伴うことはできない。入学前、自分で一から十まで身だしなみを整える手順を仕込んだのもノアだ。

「もう二年半もやっているのに、ノアみたいに綺麗に髪が結えないの。いつも諦めて、梳かしただけで授業に出ちゃうのよぅ……」

 フォークで少しづつオムレツを口に運ぶ合間に、アマリリスはノアに語り掛けてふわふわ笑う。

「私はもう十年もやっていますからね。してみたい髪形があればコツをお教えしますよ」



 もう十年、仕えてきた相手だ。学園生活の話題に触れるとき、表情に僅かな陰が落ちるのを、ノアは目ざとく見抜いていた。表に出さず仕舞い込むのは、躾けられた貴族の長子だからか、生まれついての(さが)か。それがどうしようもなくいじらしい。

(私の前では気を抜いてもよろしいのに。せめてこの別荘にいる間は、心から楽しんでいただければ……)

 礼節と遠慮の上に飾った関係であっても――ノアはやはり、アマリリスを姉妹のように愛おしく思っているのだ。





 アマリリスは、ノアと馬車の中で向かい合って揺られていた。行先はストランジ家の別荘から最寄りの町、カザヤ。細い道の両側には、まばらに広葉樹が立っている。

「夏の間こっちに来てくれてありがとうねぇ。いつもは本邸勤めなのに」
「当然です、専属メイドですから」

 やる気満点のノアの手にかかり、アマリリスの髪は後頭部にまとめ上げられ、バラの花を象っている。普段用の落ち着いたドレスは瞳の色を薄めたブルーグレーで、襟ぐりやところどころに品のよい紺色のレースが入っている。

(ノアに、心配させちゃったかなぁ……)

 自分で思うより、テオドア達に容姿を揶揄されたことが後を引いていたらしい。何かを察したのだろう、ノアは顔にクリームを擦り込み、爪を磨き上げる合間合間に、アマリリスを褒めちぎった。
 むっとしたまま端を上げたような口は、猫のようで愛らしいと。
 重たい目蓋の垂れ目は、微睡んでいるようで心和むと。
 成長期が来てなお小柄な体躯は、大事に守りたくなると。

 ――現金だけれど、愛情のこもった言葉は心に効いた。
 小さい頃は、自分の顔がもっと好きだったはずだ。眠たげな目は父譲り、髪の色は母譲り。学園で口さがない批評に晒される前の、幼く純粋な誇りを少し思い出せた。

「町でお菓子も買いましょう。料理番には庶民の食べ物を口にして! と怒られそうですが、たまには素朴な味も良いものです」
「分かるわぁ。……実はね、学園のお店で売ってる駄菓子が好きで、キティと時々食べるの。固ーいクッキーとか。貴族はあまり買わないみたいだけど、勿体ないわよねぇ」

 他愛ないことを話しながら笑い合う。ノアと過ごす時間は、アマリリスの癒しだ。



 カザヤは林に彩られたなだらかな山の裾野に扇状に広がっていて、穏やかな自然の恵みと共存する林業と工芸の町だ。山以外の方角もぐるりと樹々に囲まれた土地柄だが、街道に合流する方向は綺麗に拓かれていた。別荘は街道とは真逆の山側にある。
 さすがに道の舗装はされていないものの、町中はよく整っている。町と外との境目には自警団が数人立っており、中央には小さな図書館まである。
 ストランジ領は代々当主の方針により基礎教育に力を入れており、国内でも随一の識字率を誇るのだ。

「アマリリスお嬢様、当館にようこそおいでくださいました。こちらの閲覧室をお使いください」

 額の広い壮年の図書館長が、にこやかに椅子を引いてくれる。アマリリスは謝意を伝えて腰を下ろした。
 事前に訪問を知らせていたため、わざわざ個室を整えてくれたらしい。机と椅子、ランプだけの小さな一室だが、埃ひとつ落ちていない。調度にはこの町らしい丁寧な彫刻が入り、灯火のもとでつや光っている。

 ノアは今、別行動だ。書架の前で解散した後は、大部屋で本を読んでいた女の子に、あれこれ話し掛けられているようだった。面倒見が良くて物腰が柔らかいから子供に懐かれるのだろう。とても身に覚えがある。

「しかし、御家の本邸の書庫の方が、資料の量も質もよろしいのでは? わたくしも一度見学させていただきましたが、誠に素晴らしい蔵書でした」

 館長はうっとりと髭を撫でたあと、少し慌てたように付け加える。

「もちろん当館が貢献できるのであれば何よりでございますよ」

 来館を迷惑がるように聞こえなかったか、危ぶんだのだろう。
 安心してもらえるように微笑んで頷いた。この部屋を見れば、歓迎してくれているのがよく分かる。

「夏休みの自由にできる時間を使って、領内のことをもっと知りたいの。町や村からの報告はお父様の書庫に歴代保管されているけれど、こちらには生の資料があるでしょう?」
「なるほど、なるほど……! それでしたら町の図書館がよろしいでしょう。お嬢様は聡明であらせられますな!」

 興奮気味に褒められて、なんだか面映ゆい。館長の口ぶりからはお世辞に留まらない熱量を感じた。自館が役に立てるのが、本当に嬉しくてたまらない、というような。

 アマリリスは少し――期待半分、迷惑でないか心配半分で思案してから、おずおずと切り出した。

「あの、お仕事の邪魔にならなければ、なのですけどぅ……。資料を案内していただけませんか? ここの蔵書には詳しくないから、一人では途方に暮れてしまいそうなの」
「ええ、喜んで。知りたいことを知るためのお手伝いも、仕事のうちでございますゆえ」

 そう言ってから、館長は破顔した。

「あらゆる業務の中で、私が一番好きな仕事です」







【貴族の屋敷】
ほとんどの貴族は自領の本邸の他に、王都に滞在用の屋敷を持ちます。王都の屋敷の方を本邸のように使う人もいます。
自領、ときには他領に複数の別荘を持っていることも多いです。

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