9. 水精のいる風景

文字数 4,915文字

 こんなにはしゃぐアマリリスは久しぶりだ。まして積極的に主張を通そうとするなんて、幼少期以来ではないだろうか。
 ノアは複雑な内心を、羽箒で撫でるようにそっと宥めた。遠慮などしないでほしいと思っていたのに、いざ直面するとモヤモヤが募る。
 ――はっきり言えば、悔しい。我儘を見せてくれたのが、こんなぽっと出のケダモノを引き込むためだなんて。

 歓喜に頬を染めたアマリリスが落ち着き、照れたように離れるのを見守りながら、目端でさっとワゴンを確認する。

「少しお時間をくださいませ。温め直してまいります」
「あっ……、手間を掛けさせてごめんね」

 気にしないでください、とノアは笑顔で首を振った。
 朝一番に衝撃の打ち明け話を聞き始めてから、かなり時間が経っている。朝食は保温のため蓋やナフキンで覆われているが、いくらなんでも冷めてしまっただろう。
 ワゴンの取っ手を押しかけた時、思わぬ位置から反応があった。

「……温めようか? すぐ済む」

 どこか決定的に人と異なる、硬質な響きにぎくりとした。――態度には出さないが。何度聞いても慣れそうにない。
 咄嗟にソファの上の水塊を睨みつけてから、何事もなかった顔でアマリリスを窺う。常に見張れる大義名分は得たものの、この者の言動にどこまで干渉していいのだろう。ノアの私情としては、アマリリスの口に入る物に得体の知れないことをされるのは、生理的に嫌だ。

「そうねぇ……。ありがとうフロウ、でも大丈夫よ」
「分かった。ならしばらくバルコニーにいる」

 水は一度震え、ソファから降りてするすると部屋を出ていく。ノアがいない時は同席しない、という条件に引っ掛かるからだろう。――通った跡、床のラグが濡れていないのが変な感じだ。
 心得たジェフリーが後を追うのを確認してから、今度こそワゴンを押して退出する。

 願わくば、契約終了まで、大人しく約束を守っていてほしいものだ。





 薄焼き卵でアスパラと細切り肉をくるくる巻いたのを、そっと切り分け口に運ぶ。内側に塗られた茶色のソースは優しい味がした。表面は温め直す時にバターで焦げ目をつけたようで、カリカリとして香ばしい。

 フロウは向かい合った椅子に移動して気分だけ食卓に参加している。華奢な座面に成人男性一人分の水の球は随分大きいのだけど、背もたれに沿って伸び上がるようにして、零れ落ちることはない。
 昔は彼が食事をしないのを不思議に思っていた。栄養にもならないし、固体を体内に入れるのは苦痛なのだそうだ。

「他の使用人にも、契約のことは話すのがよいでしょう。見慣れぬ存在が屋敷にいる理由になります」

 遅れた朝食をいただきながら、アマリリスはノアの助言を聞いていた。

 フロウのことは、アマリリスとジェフリーで口裏を合わせ、契約精霊で押し通す。実体があることに疑問を持たれても、魔術の素質がある二人が堂々と断言すれば、皆は都合よく解釈するだろう。人の姿は見せない前提でいく。
 今も扉の向こうに待機してくれているジェフリー――護衛を屋敷内でもしばしば傍に控えさせるのは、気が向いたときに魔術の練習をしたいから、万一の事故に備えるため。
 ノアの案は筋が通っている。夏の間、別荘の皆を誤魔化すには十分そうだった。

「ありがとう、それでいくわぁ!」
「お役に立てて何よりです」

 こくん、と付け合わせの蒸し野菜を飲み込んで、ほの甘い人参の味とともに筋書きを腹に落とした。
 貴族として情けないが、アマリリスはこういう機転を利かせるのが苦手だ。本心は今も反対だろうに、親身に考えてくれるノアの気遣いがありがたかった。



「それと、客間を一室宛がわれますか?」
「フロウの普段の居場所、よね。うぅん……」

 学園では、契約精霊は寮の自室に一緒に住むことが多い。精霊の生まれによって、岩石や水盆、木片など、居心地のいい環境を用意して。
 だがフロウと同室で夜を過ごすのは流石にノアが許さない。ジェフリーの部屋では護衛に加えて負担を掛け過ぎる。かといって普通の精霊が個室を使うことはまずないので、客間に通すならそれらしい理由が必要だ。

「近くに川があったろう。夜は魔力を取り込みがてら、そこにいたい。昼の空き時間は適当に過ごす」
「そうだったわぁ、あなたは自然の中の方が快適よね。どうも人の姿の印象が強くて……。川までは少し歩くけれど、平気かしら」
「大丈夫だ。朝にはここに戻る」

 ――ここに()()、だなんて。
 淡々と告げられた何気ない言葉尻に、笑みがふわふわこみ上げてくる。期間限定とはいえ、この屋敷を生活の主軸だと思ってくれているのだ。

 アマリリスは頭を振って邪念を払った。破れかけの恋にしがみついては駄目だ。最後に少しだけ残ったスープをパンの欠片に吸わせ、ぱくりと口に入れた。

「……あ。もしかしてあなた、スープやお茶なら飲める?」
「固形物が入らなければ。……契約をして味覚がどうなったかは、興味がある」

 声のトーンはいつも通りだが、心なしか、透明な身体の表面がつやつやして見える。光の加減とか魔力どうこうではなく、雰囲気の問題で。

(意外と好奇心が強いのかなぁ。ちょっと可愛いな、なんて……)

 熱を持つ頬の内側をきゅっと噛む。
 さっさとこの気持ちを乗り越えたいのに、心が勝手に彼の新たな一面を探しては、美点(チャームポイント)に読み替えてしまう。

「じゃ、じゃあノア。これから飲み物は、彼の分も用意をお願い」
「かしこまりました」
「それから……ノアとジェフリーの都合がつくなら、あとで念のためその川を見に行きましょ」

 フロウと契約したのは下心ではない。一人の精霊としての彼を知り、信頼を築きたかったから。
 一緒に出掛けるのも、言葉通り念のためだ。断じて浮かれたピクニック気分なんかではない、はず。

 アマリリスはとにかく恋に疎かった。想い人との接し方どころか、自分の気持ちまでが手からするりと逃れ、どうにも持て余してしまう。





 カザヤ周辺の林は広葉樹が多い。空いっぱいに枝を広げ青々と茂る葉は夏の盛りをいかにも謳歌していた。
 昼過ぎの一番暑い時間を避けて屋敷を出てから、ちょっと歩いてきただけで既に汗ばんでいる。

 屋敷近くの川は、丈の低い草が茂った岸から、すとんと落ちるように深くなる。端でアマリリスの膝上くらい、真ん中はもっと。
 すいすい流れていく水面にフロウの上半分だけが丸く浮いて、ひと所に留まっている。その身体はやはり水と同質なのか、浸かった下半分は境目が見えない。川の一部が不自然に盛り上がっているようでもあった。

 ここに棲んでいるらしい『清流の魚』がときたま跳ね上がって、フロウをつついては水中に帰っていく。河川の精は移り気なのが多い。

「水の中、気持ちいい?」
「落ち着く。リィリは入らなくていいのか」

 アマリリスは川ぎりぎりまでせり出した樹の、太くねじれた根に厚手の布を敷いて腰掛けている。木陰と水気の涼しさに、ばてていた身体が少し落ち着く。

「折角だから、足だけ浸けちゃおうかしら……」

 そっと靴を脱ぐ。虫除けの長靴下は足首から先が開いていて、素足の爪先で水に触れたら、冷たさが肌を這い上がってきた。
 少し離れた木陰に控えているノア達に、はしたないと咎められることはなかった。流れと戯れるようにゆらゆらかき回せば、汗がにわかに引いていく。
 すぅ、はぁ、深呼吸をする。冷感に押されて、こもった熱が肺から逃げ出すようだった。

「あぁ、ひんやりだわぁ。契約しているうちに水術もちゃんと練習しようかな……水が出せたらいつでも浴び放題だものねぇ。でも借りた本も読みたいし、春期の復習もしないとだし」
「目まぐるしいな」
「最優先はあなたとお話しすることよ! そうだわ、今日はひとつだけ教えてくれない?」

 ぷかぷか上下する水の半球に促されて、アマリリスは最初の質問を口にした。
 ――それは十年前から、ずっと訊きたかったこと。

「あなたの名前。私が勝手に付けた呼び名じゃなくて、本当の名前が知りたいわぁ」

 ほとんどの精霊は言葉を話さず、固有の名前も持たないが、《精霊契約(リンケージ)》など人間との関わりの中で名を得ることがある。
 人と変わらない見た目の彼には、アマリリスと会う以前から名前があったのでは。そう思っていたのだけれど。

「…………」

 フロウはじっと黙りこんでしまった。



 この姿でも人の姿でも、だんだん感情を読み取れるようになってきた――なんて己を過信していた。いざ無言になられると、思案しているだけなのか気まずいのか、あるいは怒っているのか、全然分からない。

(そうだわ、フロウは人に封じられたって言ってた。人間に対して不愉快な記憶しかなかったら……)

 考えが至って、さっと血の気が引く。

「あ、あのぅ、話したくないならいいの、ごめんなさい」
「いや、どう言ったら良いか考えていただけだ。……名はインフレンス、」

 彼の声音に翳りや苛立ちがないことに、アマリリスは心底ほっとした。
 ――いんふれんす。
 気が抜けたまま、耳に入った音を、言葉を習いたての幼児のように復唱する。珍しい名前――というか、何かの単語みたい。

「意味は『境界を冒すもの』。ただ……この名は()()()()だ。それよりお前がくれたのがいい」
「フロウ?」
「ああ」

 折角教えてくれた名前は、まだしっくりこない。記憶の中の彼はずっと『フロウ』だった。本名を訊いておきながら馴染まないのはきっと――十年の間、無意識のうちに思い出を反復してきたから。
 大切な宝石を取り出しては、手のひらの上で転がすようにして。

「……ありがとう。気に入ってくれて嬉しいわぁ」

 フロウと呼んでくれと言う彼ももしかしたら、あの数日を、懐かしく思う時があったのだろうか。
 アマリリスは彼の本名を新しい宝物として思い出の横に並べ、少し気恥ずかしく微笑んだ。



「名前といえば、お前のことはアマリリスと呼んだ方がいいか?」
「うぅん、どちらでも。懐かしいな、小さい頃は自分のことをリィリって言ってたのよねぇ」

 自分を指して『私』と言うのを覚える前、『アマリリス』も発音が難しくて、そう自称していた。一般的な愛称と違い、舌足らずな幼児語――例えば犬を『わんわん』と呼ぶニュアンスに近い。
 だから両親は使わないし、ノア達もそれに倣っている。親しみを込めて呼ぶのは幼馴染みのキャスリンぐらい。

「なら今まで通りにする。リィリはリィリのイメージだ」

 しかし彼が発すると、幼稚な印象は全くなかった。弦を二度弾いたクリアな響きが、鼓膜をととん、と震わせる。
 耳の奥がくすぐったくて、思わず吐息が零れた。

「ふふ。ストランジ領主が長女、アマリリスよ。今後ともよろしくね」

 改まった名乗りは本名を教えてくれたフロウに合わせただけで、深い意図はなかったのだが――、

 瞬間、川面がぴんと張り詰めた。

 うなじがそわそわする。とても微細な、魔力のこわばり。
 それはほんのわずかのことだった。現にジェフリーも反応せず木陰に佇んでいる。アマリリスが口を開きかけた時にはもう、違和感は川下に浚われていく。

「領主というのは、この辺りの領主か? ここがストランジ領?」
「え? えぇ……ストランジ子爵家の領地よ」
「……リィリ。契約した時、オレのしたいことにも協力すると言っていたよな」

 真剣な口調に圧されて、こくりと頷く。
 家名に言及した直後の念押しだ。無茶な要求をされるとは思わないが、一抹の不安がよぎった。領主の娘といってもそのうち嫁いでいく凡才の身、アマリリス本人に大した権力や財力はない。

 だから。

「頼む。()()()()()()()()()()()()()()

 ぎゅっと身構えていたところに、あまりに意外なことを言われたもので。アマリリスは首を何度も縦に振った。
 頭がかたかた揺れる、赤ちゃん用の人形みたいだった。







【精霊の性格】
同じ場所にいる同じ種類の精霊でも性格はそれぞれ違いますが、若干の傾向があります。
一時的なもの、動くものの精霊は活発で、恒常的なもの、留まるものの精霊は落ち着いていることが多いです。
ただしほとんどの精霊は『個』の意識が薄いため、性格といっても、人間のように複雑ではありません。

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