18. 初戦
文字数 3,301文字
瘴気は鼓膜に泥が落ちかかるように粘っこく、頭上を覆う赤には目眩がした。
アマリリスを閉じ込めているスープの大鍋はどろりと煮詰まって、底に引きずり込もうと悲観を囁いてくる。奥歯を食いしばると耳障りなそれが少し遠ざかった。
木立に潜んで敵を伺う。彼我の距離は弓の射程くらい。魔力知覚を得てからの練習で魔術のコントロールは良くなってきたが、この遠さ、しかも樹々を挟んで命中させるのはまだ無理だ。
構うことなく、アマリリスはぐるぐるに鼻と口元を覆った布地の下で、小さく呪文を呟いた。『魔物は魔力に敏感である』――ストレイピードのように相手から寄ってくるだろう。運良くこちらは風上、接近されるまで毒は受けにくい。
(……気付いたみたい。大丈夫、予定通り。もう怖くなんか、ないんだからぁ……!)
前方上空に浮いていた瘴気の源が脈打ち、意思を感じさせる動きで向かってくる。影に染まった葉の重なりの上を透明な身体が通過して、暮れゆく紅を陽炎のように歪めた。
アマリリスは太い幹に背を預けている。杖の端を握った右腕の肘は脇腹に引き付け、左手で中ほどを支える。慎重に狙い撃つための構え方。魔力が杖に流れ、杖先から延びるように細く尖った針状に形をなし、ふわりと白光を帯びていく。
この術は《衝撃 》に比べて鋭く、速い。不規則に動く敵を捉えるのに、手持ちの魔術で一番適している。ただそのぶん細く収束しているから正確に撃ち出さないといけない。
敵の緩慢でふらついた飛び方がもどかしかった。こうしている間にも雲の向こうで陽は沈んでいく。
(まだ。あとちょっと待つのよ。私が毒で動けなくなるまで、あいつは直接襲ってこない)
そういう習性なのだ。魔物にしては力も強靭さも持たないから、犠牲者を麻痺させてから生きたままじわじわ食らう。
やがて透明な蛾、エンフラッターはアマリリスの真上に至り、ゆら、ゆら、と梢を掠めながら歪な円を描き始めた。その軌道から毒が降りかかるのを瘴気のもやとして感じる。けれど舞台の紙吹雪がゆっくり落ちるように、鱗粉はすぐ地上には届かない。
ごく。ごくり。喉が渇いて何度も唾を飲んだ。呪文はとうに唱え終わっている。気が逸って今にも術を解放したくなる。
けれど標的を追って杖をぶれさせてはいけない。そういう撃ち方では当 た ら な い 。護身術の先生が言っていた、急時こそしかるべき一瞬を待つのだと。
忌わしい透明がひらめく。呼吸がひどく引き延ばされていく。迷いそうになる杖を、左手でじっと押さえつける。
杖先から直線上に敵が重なる瞬間まで――、
(…………今ッ!)
――《穿撃 》。力が爆ぜ、一矢に放たれた。
腕に響く反動と、ぱす、という軽い音がほぼ同時。
当たった。
不可視の敵からガラスが砕けるように瘴気が散って、空を舞う動きが引き攣った。羽のどこかを貫いたのだ。
(運良く胴体に命中したら最高だったけど……流石に上手くはいかないわね。でも外さなかっただけ上出来だわぁ!)
アマリリスはあらかじめ決めていた通り早口で次撃を唱える。
執拗に生命を狙う魔物の性 か、エンフラッターは逃げ去ろうとはしない。
羽に比べて小さな胴体を、細く直線的な《穿撃 》で抜くのはやはり難しい。しかし羽を傷付け、敵がぎこちない動きになっている今なら、もっと大振りな術でも当たるはず。
無心の詠唱。一音節ごとに集中が研ぎ澄まされていくのが分かる。
紡ぐ言葉に導かれ、意識がふっと遊離した。
五感、それに魔力知覚の全てが樹々を俯瞰しているようだ。
アマリリスの中の何かが切り替わり、あるべきように呪文がすらすら流れ出す。自分自身と舌先に乗った魔術がダイレクトに繋がっている。
構えを変え、精一杯上へと掲げた杖先から、滑らかに魔力が溢れゆく。
編み上げたのは《衝撃 》や《穿撃 》と同じ、護身用に習った攻撃術。魔力をシンプルな威力に変換して撃ち出す、力相術基本三式の最後の一つ。
「断撃 》!」
淡い白の尾を引いて、無形の刃が迸る。それは敵へと違わず到達して――耳障りな音とともに、真っ二つに断ち飛ばした。
◆
行き過ぎた忘我の代償はすぐに跳ね返ってきた。
「っは、倒したっ、……はぁ……っ」
高みにいた感覚がそのまま吸い上げられるみたいに、気が遠くなる。まるで素の力量より背伸びした報いのようだった。
アマリリスはふらつきながらも、なんとかその場を離れた。身を隠していた一帯には毒の瘴気が降り注いでいる。魔物は遺骸を残さないが、倒す前に撒かれたものは消えてくれないらしい。
(いけない……結構吸っちゃったわぁ。手足が痺れてきた)
傍の大岩に両手をつき、深呼吸する。しかし肺にこびりついた瘴気は吐き出されることなく、むしろ胸部からじわじわと身体中に拡がっていく。それをはっきり知覚しながらどうにもできない。自分の体内のことなのに。
敵は倒せたが、敗北も同じだった。作戦通りに事は運んだ――にも関わらず、アマリリスは毒に冒され足止めをくっている。
エンフラッターが自ら振り撒いたのに加え、撃ち抜いた羽から予想外に激しく鱗粉が飛び散ったせいだ。そんな可能性まで考えが及んでいなかった。つまり戦法の段階から穴のある、実戦知らずの机上の空論だったのだ。
――鱗粉に麻痺毒あり。毒に致死性はなく持続時間も短いが、身動きが取れなくなる。
持続時間が『短い』とはどのくらいだろう。焦る心とは裏腹に痺れが強まって、アマリリスはついに岩を抱いてへたり込んでしまった。
(駄目、行かなきゃ。あと少しなのに……っ)
もう胴を揺することもほとんどできない。せめて仰向けになろうと身体を傾けても、指一本ぐらい動いたあと力が抜けて元の体勢に戻ってしまう。
そうやって甲斐なくもがくのに必死で、アマリリスは周囲のことに気を払っていなかった。
突然――アマリリスの前方からずるりと影が差す。
同時に、異質な魔力が現 れ た 。
饐えた気配が夏を裂き、膚を撫でていく。疫病の兆しを含む北風のように。
「こんなところでご休憩とは。薄情なことだ」
掛けられたのは作り物じみた平坦な口調だった。忘れもしない、図書館で接触してきた男の声。その響きに纏わる悪寒は毒よりも冷たく、アマリリスの心臓を締め上げる。
いつしか目まで朦朧と霞んでいた。視線をかろうじて声の方に向けると、黒い衣服に包まれた脚だけが見える。
「あの子、は……」
「元気だとも。刻限までには辿り着けなかったが、大目に見て解放して差し上げよう」
なら良かったなんて安心できる訳がない。無感情な男からは、招待状を通して感じたのよりずっと深い悪意が滲んでいる。
こうして近くに来られると不自然な魔力の正体も分かった。人間が持つはずのない瘴気が、魔力と混ざり合うように存在している。人が瘴気を発する原因なんて想像もできないが、間違いなく魔物の出現とも関係しているだろう。
「君はもっと愚鈍かと思っていたが、想像以上に良くやったよ。まさか一人で魔物を倒してしまうとはね」
あらゆる点が異質だ。瘴気混じりの魔力も、それを自在に隠せるらしいことも。
アマリリスを小馬鹿にした――普通の人なら嘲笑と共に発するような台詞を、素人演者が脚本を読み上げるように淡々と口にすることも。
こいつは何一つ、まともでない。
「だが、こ れ で 筋書き通り」
ばさりと大きな布を翻す音がして、男の背後から無数の瘴気の塊が現れる。
ぞっとする間もなかった。
透明な蛾の群れが押し寄せてくる。狭い視野すら埋め尽くす淀みの中で――アマリリスは痺れに沈められて、意識を失った。
◆
◆
◆
【魔物の分類】
討伐や研究のため、魔物は様々な観点で分類されています。主な分類法は以下です。
属性:火水地風の四種類です。複数持つ魔物もいます。
型 :獣型、虫型など、外見および生態から見た分類です。
級 :上級、中級、下級の三段階です。
級 は討伐難度を起源としますが、後に知能など他の観点を取り入れたため、しばしば分類が紛糾します。
このため純粋な討伐難度として「危険度」、遭遇可能性として「希少度」なども使われます。
アマリリスを閉じ込めているスープの大鍋はどろりと煮詰まって、底に引きずり込もうと悲観を囁いてくる。奥歯を食いしばると耳障りなそれが少し遠ざかった。
木立に潜んで敵を伺う。彼我の距離は弓の射程くらい。魔力知覚を得てからの練習で魔術のコントロールは良くなってきたが、この遠さ、しかも樹々を挟んで命中させるのはまだ無理だ。
構うことなく、アマリリスはぐるぐるに鼻と口元を覆った布地の下で、小さく呪文を呟いた。『魔物は魔力に敏感である』――ストレイピードのように相手から寄ってくるだろう。運良くこちらは風上、接近されるまで毒は受けにくい。
(……気付いたみたい。大丈夫、予定通り。もう怖くなんか、ないんだからぁ……!)
前方上空に浮いていた瘴気の源が脈打ち、意思を感じさせる動きで向かってくる。影に染まった葉の重なりの上を透明な身体が通過して、暮れゆく紅を陽炎のように歪めた。
アマリリスは太い幹に背を預けている。杖の端を握った右腕の肘は脇腹に引き付け、左手で中ほどを支える。慎重に狙い撃つための構え方。魔力が杖に流れ、杖先から延びるように細く尖った針状に形をなし、ふわりと白光を帯びていく。
この術は《
敵の緩慢でふらついた飛び方がもどかしかった。こうしている間にも雲の向こうで陽は沈んでいく。
(まだ。あとちょっと待つのよ。私が毒で動けなくなるまで、あいつは直接襲ってこない)
そういう習性なのだ。魔物にしては力も強靭さも持たないから、犠牲者を麻痺させてから生きたままじわじわ食らう。
やがて透明な蛾、エンフラッターはアマリリスの真上に至り、ゆら、ゆら、と梢を掠めながら歪な円を描き始めた。その軌道から毒が降りかかるのを瘴気のもやとして感じる。けれど舞台の紙吹雪がゆっくり落ちるように、鱗粉はすぐ地上には届かない。
ごく。ごくり。喉が渇いて何度も唾を飲んだ。呪文はとうに唱え終わっている。気が逸って今にも術を解放したくなる。
けれど標的を追って杖をぶれさせてはいけない。そういう撃ち方では
忌わしい透明がひらめく。呼吸がひどく引き延ばされていく。迷いそうになる杖を、左手でじっと押さえつける。
杖先から直線上に敵が重なる瞬間まで――、
(…………今ッ!)
――《
腕に響く反動と、ぱす、という軽い音がほぼ同時。
当たった。
不可視の敵からガラスが砕けるように瘴気が散って、空を舞う動きが引き攣った。羽のどこかを貫いたのだ。
(運良く胴体に命中したら最高だったけど……流石に上手くはいかないわね。でも外さなかっただけ上出来だわぁ!)
アマリリスはあらかじめ決めていた通り早口で次撃を唱える。
執拗に生命を狙う魔物の
羽に比べて小さな胴体を、細く直線的な《
無心の詠唱。一音節ごとに集中が研ぎ澄まされていくのが分かる。
紡ぐ言葉に導かれ、意識がふっと遊離した。
五感、それに魔力知覚の全てが樹々を俯瞰しているようだ。
アマリリスの中の何かが切り替わり、あるべきように呪文がすらすら流れ出す。自分自身と舌先に乗った魔術がダイレクトに繋がっている。
構えを変え、精一杯上へと掲げた杖先から、滑らかに魔力が溢れゆく。
編み上げたのは《
「
引き裂け
……っ、《淡い白の尾を引いて、無形の刃が迸る。それは敵へと違わず到達して――耳障りな音とともに、真っ二つに断ち飛ばした。
◆
行き過ぎた忘我の代償はすぐに跳ね返ってきた。
「っは、倒したっ、……はぁ……っ」
高みにいた感覚がそのまま吸い上げられるみたいに、気が遠くなる。まるで素の力量より背伸びした報いのようだった。
アマリリスはふらつきながらも、なんとかその場を離れた。身を隠していた一帯には毒の瘴気が降り注いでいる。魔物は遺骸を残さないが、倒す前に撒かれたものは消えてくれないらしい。
(いけない……結構吸っちゃったわぁ。手足が痺れてきた)
傍の大岩に両手をつき、深呼吸する。しかし肺にこびりついた瘴気は吐き出されることなく、むしろ胸部からじわじわと身体中に拡がっていく。それをはっきり知覚しながらどうにもできない。自分の体内のことなのに。
敵は倒せたが、敗北も同じだった。作戦通りに事は運んだ――にも関わらず、アマリリスは毒に冒され足止めをくっている。
エンフラッターが自ら振り撒いたのに加え、撃ち抜いた羽から予想外に激しく鱗粉が飛び散ったせいだ。そんな可能性まで考えが及んでいなかった。つまり戦法の段階から穴のある、実戦知らずの机上の空論だったのだ。
――鱗粉に麻痺毒あり。毒に致死性はなく持続時間も短いが、身動きが取れなくなる。
持続時間が『短い』とはどのくらいだろう。焦る心とは裏腹に痺れが強まって、アマリリスはついに岩を抱いてへたり込んでしまった。
(駄目、行かなきゃ。あと少しなのに……っ)
もう胴を揺することもほとんどできない。せめて仰向けになろうと身体を傾けても、指一本ぐらい動いたあと力が抜けて元の体勢に戻ってしまう。
そうやって甲斐なくもがくのに必死で、アマリリスは周囲のことに気を払っていなかった。
突然――アマリリスの前方からずるりと影が差す。
同時に、異質な魔力が
饐えた気配が夏を裂き、膚を撫でていく。疫病の兆しを含む北風のように。
「こんなところでご休憩とは。薄情なことだ」
掛けられたのは作り物じみた平坦な口調だった。忘れもしない、図書館で接触してきた男の声。その響きに纏わる悪寒は毒よりも冷たく、アマリリスの心臓を締め上げる。
いつしか目まで朦朧と霞んでいた。視線をかろうじて声の方に向けると、黒い衣服に包まれた脚だけが見える。
「あの子、は……」
「元気だとも。刻限までには辿り着けなかったが、大目に見て解放して差し上げよう」
なら良かったなんて安心できる訳がない。無感情な男からは、招待状を通して感じたのよりずっと深い悪意が滲んでいる。
こうして近くに来られると不自然な魔力の正体も分かった。人間が持つはずのない瘴気が、魔力と混ざり合うように存在している。人が瘴気を発する原因なんて想像もできないが、間違いなく魔物の出現とも関係しているだろう。
「君はもっと愚鈍かと思っていたが、想像以上に良くやったよ。まさか一人で魔物を倒してしまうとはね」
あらゆる点が異質だ。瘴気混じりの魔力も、それを自在に隠せるらしいことも。
アマリリスを小馬鹿にした――普通の人なら嘲笑と共に発するような台詞を、素人演者が脚本を読み上げるように淡々と口にすることも。
こいつは何一つ、まともでない。
「だが、
ばさりと大きな布を翻す音がして、男の背後から無数の瘴気の塊が現れる。
ぞっとする間もなかった。
透明な蛾の群れが押し寄せてくる。狭い視野すら埋め尽くす淀みの中で――アマリリスは痺れに沈められて、意識を失った。
◆
◆
◆
【魔物の分類】
討伐や研究のため、魔物は様々な観点で分類されています。主な分類法は以下です。
属性:火水地風の四種類です。複数持つ魔物もいます。
このため純粋な討伐難度として「危険度」、遭遇可能性として「希少度」なども使われます。