15. 心の底と舞台裏

文字数 5,114文字

「リィリこそ籠りきりだと飽きないか? ()()()()()()()()()()()()()、散策にでも行こう」

 気を取り直すように労わってくれる言葉が、アマリリスの柔らかい部分に沈み込んできた。

(……あぁ、やっぱり)

 夏と共に契約は終わる。それはフロウにとって動かしがたいことなのだ。ついさっき、彼からの約束ならなんだって嬉しいと思っていたのに、もう単純に喜べない。
 けれど顔には出さずにすんだ。緩やかな諦念は、誰とも契約できなかった二年半で身に馴染んでいる。
 今は素直に厚意を受け止めていたかった。

「じゃあ『治癒の泉』が見たいわねぇ。図書館長さんが教えてくれたの」
「そんな泉、近くにあったか?」
「えぇ。地図も貰ったのよ」

 アマリリスは複雑な内心を呑み下して席を立った。書物机の上は教科書や、図書館の資料を書き写した紙でごちゃごちゃだ。お目当ての地図は十数冊ほど積み上がった本の下から(へり)を覗かせている。
 ぐらつく本の山を片手で押さえながら、そろそろと引っぱっていく。

「あ……!」

 横着なんてするものじゃない。
 半分ほど引き抜いたところで地図は急にすっぽ抜け、本が重い音を立てて崩れてきた。とっさに身体ごと引いたから大事はないけれど、一冊の角が右手の甲を引っ掻いて、赤い筋になっている。

「いたた……」
「大丈夫か?」
「えぇ、掠っただけ」

 ハンカチで手を押さえ、本を一冊拾い上げて――、アマリリスはふと、口にした。

「そういえば気になってることがあるの。……この傷、治してもらうことはできないかしらぁ」



 皮膚が浅く裂けただけの、怪我とも呼べない怪我。頼めば彼は請け負ってくれるだろうとアマリリスはどこかうぬぼれていた。
 しかし。

「治さない」

 にわかに声が硬さを帯びた。
 フロウは震え、後ずさるように椅子の背もたれにぺたんと寄る。それきり微動だにせずこちらを窺っている。
 空気が重い。半月も過ごした部屋が他人行儀に張りつめて、自分の居場所でなくなったようだ。

「あ、あの、ごめんなさい。調子に乗ったわ」
「リィリは悪くない、謝らないでくれ。ただ、治癒は、あまり」
「……ノアにも話したくなさそうだったものね。その、やっぱり、思い至らなくてごめんなさい」

 どんな理由だろうか、進んでしたいことではないのだろう。それに治癒術は習得が難しく、使い手の限られる希少なものだ。安易に頼むなんて軽率だった。
 差し出した手が行き場もなくうろついて、服の裾を掴む。

 ただ。息を詰めて動かないでいるフロウは、無神経に腹を立てたふうではない。

(……カザヤの反乱の話をしたときと似てるんだ。堪えているみたいな……それとも、()()()()……?)

 図書館の奥まった閲覧室で。彼は底知れぬ辛さを抱えているように見えた。追及を拒む意志があった。
 そしてこの瞬間も頑なな氷壁が、二人を隔てている。
 アマリリスはぐっと拳を固めて、フロウの椅子の前に膝をついた。彼の身体は置き物のように静かだ。

「ねぇ、あなたがされたくないこと、教えてほしいの。術のお手本とか、色々頼ったのも不愉快だった……?」

 けれど今回ばかりは、あの時のように尻込みする訳にはいかなかった。フロウの心を脅かしたのは他でもないアマリリスなのだ。彼の事情に踏み込む勇気はまだないけれど、こんな風に苦しめてしまうのは絶対駄目だ。

 もう残り一月半だからこそ。――最後まで穏やかに過ごすために。





「……その。怒ってはいない」

 とぷん、と揺れて、フロウは少しだけこちらに重心を動かした。
 囁きはあえかな弦の響きだった。聞き逃すまいと、アマリリスは息をひそめる。

「どんなことであれ……請われるのも、別に嫌いじゃない。結局オレは人恋しいんだろう」

 そうだ。精霊(フロウ)は己の意に反することはしないと、ついさっきも言っていた。山の見回りも、窓際でにょきりと並ぶ氷柱も、やむなく力を貸してくれた訳ではない、のか。

「人と、関わるのが好きなのね。私のことだって何度も助けてくれた。……フロウは親切だわぁ」
「親切? 違う」
「どうして?」

 応えはすぐに返らなかった。
 この姿の彼は、動かないでいると水面のように、情景をつぶさに映し込む。飴色の木とつややかな布で彩られた室内が、ミニチュアのように表面に浮かんでいる。
 逆光の影としてそこに落ちた自分の姿と相対(あいたい)して。澄んだ声が聞こえるまで、アマリリスもじっと待つ。



「……目の前で痛がっている奴を、治してやるのは、親切じゃない。オレが見ていて辛いからだ。むしろ……簡単に傷が治れば、それを繰り返せば、そいつは痛みに鈍くなっていく」

 等間隔で雫が落ちるように、フロウは低く呟いた。微かな微かな声が――しかし一滴ごと、二人の間の壁にヒビを入れていく。

 垣間見た向こうで、彼は独り、深い底をぼうと見ている。
 同じ視点に立つことは、アマリリスにはまだできない。けれど、そっと覗き込むことまでは許してくれたのだと思う。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……親切じゃないなら、フロウは優しいのよ。人の痛みに共感して治してあげるのも、その人のために治さないのも。そんなに心を砕けるのはすごいことだわ」
「どちらでも優しいなんて、おかしい。贔屓目で見すぎだ」
「そうかしらぁ。私はどちらも、嬉しかった」

 咎めるように言うフロウの前に右手の薄い傷を翳し、無事な左手で包み込む。
 ぴりぴりした疼痛が胸まで届いて、最奥を炙っている。

「リィリが嬉しくたって、」
「私ね、もう無精して本の下の紙を引っ張ったりしないわ。怪我したってどうせ治してもらえるなんて、絶対に思わない」

 力を都合よくあてにされることではなく、相手が負傷に無頓着になることが嫌だなんて、どうしてそんな献身的になれるのだろう。
 彼の前にあって、アマリリスはとんでもなく矮小だ。優柔不断も後ろ向きも、全部自分のためなのだから。

「……そうか」
「えぇ」
「なら。健やかでいてくれ、リィリ」

 こくりと頷き、まっさらに透き通るフロウに向かってアマリリスは微笑んだ。
 ちゃんとできたかはわからない。こみ上げる焦燥で、今にも叫び出しそうだった。

 ――もどかしい。彼を望むには何一つ足りていない、卑しい自分が。

(こんなの、星を掠め取ろうとする盗人だわぁ)

 どうしようもなく自覚する。
 言葉を交わすたび募っていく。
 幾度助けられたからでも、容姿が美しいからでも、特異な精霊だからでも、優れた力を持っているからでもなく――、


 フロウが好き。彼の心が欲しい。





 アマリリスと契約精霊を残して買い出しに行く、その数日前の夜。
 ノアは窓のないランドリールームで、木のコップに口を付けた。清涼感が鼻にスッと抜けていく。ブレンドを微調整して、術具でよく冷やせば、アマリリスに出せるレベルだろう。ハーブを淹れるのは実益を兼ねた趣味だった。

 前触れなく屋内側の引き戸が開いて、人影が滑り込んだ。作業台に置いた蝋燭の光が朧に揺らいでいる。

「お疲れ様です、ジェフリー」
「お疲れ様、ノア。で、なんでこんな息詰まる場所なの」
「気兼ねなく入れる部屋で、一番外れにあるからです。あなたの……何でしたっけ、索敵の術が使えたら、もう少し気を抜けたのですが」
「辛辣ー。アレ土の上じゃないと無理だから」

 簡素な丸椅子に待ち人が腰掛けたので、もう一つのコップを手渡してやる。

「ありがとう……すっっっぱ!?」

 香り付けのライムはもう少し減らすべきか。ノアは神妙に頷いた。



 石鹸の匂いに隠れてこそこそ顔を突き合わせると、悪巧みでもしている気分になる。ジェフリーもいやに芝居掛かった仕草で口を開いた。

「今日は二体駆除してきた。自警団でも一体やったって。いづれも山中で、現れた原因は依然不明」
「精霊の方は」
「ここまで観察した限り、おおむね善良だし、話も通じるよ。お嬢様にもよく懐いてる。……一つ提案がある。本邸から追加の護衛が来るまで、フロウも戦力に数えたい」

 かつかつと硬い音が響く。ノアは発生源を見やって、細く息を吐いた。――我知らず、台を爪で叩いていた。
 ストランジ家の護衛として町に協力する際に散々連れ回しているのだから、もう実質的に戦力の内だ。なのに改めて許可を求める意味は、つまり。

「お嬢様と約束した、同席の制限を取っ払ってほしい。僕が離れる時こそ傍にいてもらうべきだ。君だって、せめてお嬢様が町に行けるようにしたいって言ってたよね。それも護衛役が二人いたほうがやりやすい」
「……賛成しかねます」
「あのねえ。精霊に性欲なんてないよ。男女の交わりで子を残す訳でも、厳密には生き物でもない。なまじ人の時の顔がいいから、警戒するんだろうけどさ」

 呆れ声のジェフリーを、憮然として睨む。印象で決めつけているような言い草は心外だった。あれには前科があるのだ。
 まさにその事情を伏せている以上、ノアの主張が理解されなくとも仕方ないのだが。

「結ばれ得ぬ相手を慕うのは、なおさら酷でしょう」
「はは、過保護じゃん。ノアって確かお嬢様に借りがあるんだっけ?」
「見え透いた煽りは止めなさい。……そうまでして認めさせたい目的でもあるのですか? 護衛の遂行以外に?」

 質問を被せて返すと、ジェフリーは行儀悪く作業台に肘をつき、下から値踏みするようにニヤリと笑った。

「二人が信頼関係を築いて、今後も契約が続いたら良いと思ってるよ。強い精霊と《精霊契約(リンケージ)》を結ぶのは魔術師にとってアドバンテージだ。恋心にさえ折り合いがつけば、お嬢様の為になる」



 瞬間、心がちりちりと警戒を発した。
 ――思考が一歩遅れてついてくる。こいつ、『魔術師の価値観』を持ち出して、魔術師でないノアを煙に巻こうとしている。苛立ち混じりに切り返そうとしたとき、ジェフリーは計ったように言葉を重ねた。

「あ! 魔物の出現にフロウが関わってないかも懸念してるでしょ? その可能性は低いからね」
「……根拠は」
「魔物と精霊は互いに反目するんだよ。相手が弱ければ容赦なく攻撃するし、強ければ逃げ出す。彼は逃げられる側であって、引き寄せることはない」
「そんなに強いのですか」
「強いね。僕と相棒を合わせたより」

 仮にも別荘の警備を任された立場で言うことか。
 しかも額面通りに客人を有用アピールしているだけではなく、あれはジェフリーには止められないと仄めかしているのだ。暗に、ノアが言い渡した決め事に実効性はないのだと。
 ノアは舌打ちを堪えるのに大変な労力を要した。実に不愉快だ。



(分かってはいるのです。力量や危険性について、ジェフリーの見解は私より正確なはず。現状、使えるものは何でも使うべき)

 話す間、余裕ぶってころころ表情を変えながら、沈んだ真鍮の目だけは慎重にノアを窺っていた。食えない男だ。飄々とした顔の下の思惑も、結局晒していない。
 だが――ノアがアマリリスに格別の思い入れを抱くように、ジェフリーはアマリリスの父であるストランジ家当主に恩義があるのだと、聞いたことがある。

(こんな態度でも、役目を蔑ろにすることはない、か。あの精霊を警戒する理由は夜這いの件以外にもあるのですけれど……、ここで食い下がるより、直接アマリリス様にお伝えした方が良いですね)

 懐に入れた一枚の紙を、そっと指先で確かめる。

「……譲歩しましょう。ただし最低限、密室で二人きりにはならないこと。不必要に人の姿をとるのは今後も禁止です」
「了解りょーかい。フロウには僕から念押ししておく」

 ぱちりと片目を閉じて、話が決まるやいなやジェフリーは席を立った。脇を通り抜けざま、ノアの前にことんと空のコップを置いていく。いつの間に飲み干したのだろう。

「ごちそうさま。滅茶苦茶すっぱいけど、美味しかった。お嬢様にも出してあげなよ」
「そのつもりです。酸味は抑えますが」
「お嬢様も子供じゃないんだ。このくらい嗜めるでしょ」

 どうしてもノアを過保護と揶揄いたいらしい。

「滅茶苦茶すっぱいのでしたっけ? あなたはお嬢様よりも随分子供舌のようで」
「辛辣ー」

 ひとしきりけらけら笑って、ジェフリーは扉の向こうに消えていく。
 最後までこともなげな顔が、やはり腹立たしかった。







【精霊契約】
精霊契約(リンケージ)》は魔術師から持ち掛け、精霊が応じる形で成立します。関係は対等で、どちらからでも容易に契約解消できます。
頻繁に契約精霊を変える魔術師も、同じ精霊との契約を生涯保つ魔術師もおり、付き合い方は様々です。前者はドライにも思えますが、契約者と契約精霊は気性が似ることが多いため、精霊側も大抵さっぱりしたものです。

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