19. 繰り手
文字数 4,565文字
「リィリ?」
隣で黙々と坂を下っていた青年が急に立ち止まった。声は石材に釘を落としたささやかな響きだ。あらぬ方向を凝視する水色が、紅い雲の輝きに泡と揺らめいている。
「兄 ちゃん、どうかしたかい」
「知った気配がある。……山にいるわけがないのに」
ゴードンは青年の様子を覗き込んでふむと唸った。丹念に研磨した木像のごとき額の下で、眉が僅かに歪んでいる。あり得ないと否定しているが、本当はすぐにでも直感の示す先に駆けつけたいのだ。
魔術師は只人にない特有の感覚を持つという。ゴードンも所属する自警団に近頃魔術師が協力してくれている、と人づてに聞いていたが、先ほど身をもってその敏さを知った。彼が気配を感じるのなら確かだろう。
「ここまでありがとうよ、あとは自分で帰れる。兄 ちゃんはそっちを見に行ってやんな」
「……そうする。町までの道は瘴気が薄い、魔物はいないだろう。ただ暗いから、くれぐれも用心してくれ」
迷う素振りは一瞬で、青年はゴードンに念を押すと足早に小道を逸れた。
「魔物に遅れをとるとは思わんが、あんたこそ気を付けて」
ちらと頷きを寄越してから、黒い後ろ頭は迷いなく藪を掻き分けていく。あの方角は幅広の川が横切っているはずだが――青年には障害にならないのかもしれない。杖の一振りで三体もの魔物を屠った鮮やかさを思えば、大抵のことはどうにかしてしまえそうだった。
本業が狩人であるゴードンは急な入り用で山に踏み込んだ。近頃は身を守るため複数人行動が推奨されているにも関わらず、単身でだ。自警団で魔物を討伐した経験が慢心になっていた。
それで意気揚々と獲物を担いだ帰り、敵に囲まれたところを青年に救出されたのである。
「しかし……あの魔物どもは気味が悪かった。狼みてえのが三匹、普通なら喰われちまってたろうに」
ウィアードウルフとかいう、俊敏で、獰猛なやつだ。だが今日はゴードンを逃がさないよう威嚇するばかりで、直接危害を加えてはこなかった。そのおかげで助けが間に合い、生きていられるのだが。
あれではまるで、作戦通りに動く人間のようだ。
「……どうか無事戻ってくれよ」
目を細めて樹々の隙間を透かし見る。青年の姿はもう影もなかった。
◆
うっそりと目を開ける。どうしても上がりきらない瞼を擦ろうとして、アマリリスはもぞもぞ身じろぎした。
したつもりが――腕がぴくりとも動かない。脚も、首も。全身との繋がりが希薄で、自分自身に現実感がない。
(身体、へん……?)
疑問はかぎ針となって、ぼんやり沈んでいた意識を速やかに吊り上げていく。
「ぁ…………っ!」
記憶は一息に甦った。最後に見たのは、黄昏に透ける無数の毒蛾。アマリリスはたっぷりと麻痺毒を吸わされ気絶してしまったのだ。
辺りは薄闇で、少し離れた場所には尋ね人の少女が切り株に凭れている。ぐしゃぐしゃに乱れた茶色の三つ編みが前に垂れ、顔はじっと伏せられたまま。その体内に瘴気が蟠っているのを感じた。――息はしている、だろうか。駆け寄って確かめることもできなくて気ばかりが焦る。
視線だけを巡らすと、どうやら未だカザヤの山中ではあるようだ。密集した樹々が乱暴に伐り倒され、ささくれだった断面を晒してごろごろ横たわっている。遠くには高く切り立った崖。地元の者達が足を踏み入れない窪地を、犯人は隠れ場所にしていたらしい。
周囲のあちこちに布の掛かった箱が点在し、すぐ前方には馬車でも入りそうな巨大なのが一つある。
「……ああ。お目覚めですか、アマリリス嬢」
「!!」
前触れなく。
背後から棒読みで名を呼ばれて、アマリリスは自由にならない身体を震わせた。
ざり。ざり。土を踏む音がすぐ傍を回り込む。
その足取りから瘴気混じりの魔力が滲み出ては粘液みたいに尾を引いていく。
悠然と全貌を現した男は仕立ての良い黒服にマントを羽織っている。顔だけがぼうと白く浮かび、こちらを見下ろしていた。
男は大仰な所作で腕を組み、巨大な箱に寄り掛かった。かしゃん、と小さな金属音。
既に陽は沈んだ後だ。雲漂う新月の夜、世界に精彩はなく、暗い灰色の輪郭が延々と連なっていく。その陰鬱を寄せ集めて人型にしたような雰囲気だった。
相手が黙ったままでいるので、アマリリスはわななく唇を慎重に動かした。意識に身体がついてこないのがもどかしい。
「目的、は、なに。私と、この子、を……どうする、つもり」
男の顔立ちは声と同じく奇妙に平坦だ。個性といえそうなのは仮面めいた無表情のみ。だがアマリリスの弱々しい言葉にじぃっと聞き入ると、仮面は剥がれ落ちた。両の口の端が僅かに上向いたのだ。
台本通りの揶揄とは違う、初めて見せた生の感情。たったそれだけのことにアマリリスは気圧 された。
「先ほども申し上げたが、そちらの子は親元に帰しましょう。人質を用いた交渉には信頼が必要なのだ。従えば無事に戻ると、そう信 じ て いなければ成り立たない。彼女には前例となっていただく」
「わ、たしは……次の人質、なのね」
「まさか君自身に価値があるとでも思っていたのか?」
くつくつ、と男は喉を鳴らす。
張りのある果実を爪で割り裂いたら、内から無数の小虫が溢れ出す――そんな真夜中の悪夢に似た、怖気の走る薄笑い。
そこに明らかな侮蔑の色を差して、ぬらりとした腕が背後の箱から布を捲り上げた。
強かに全身を打ち付けられた。
そう錯覚するほど、分厚く濃い瘴気が壁となって押し寄せてきた。魔力知覚の鋭さが災いし、頭の中にがんがんと警鐘が鳴り響く。
布の下には鉄の縦棒が並び、奥に獰猛な金が二つ光る。箱ではなく、檻。巨大な檻をしてなお窮屈そうに閉じ込められた獣がしゅうしゅうと瘴気の息を吐いている。
(嘘でしょぅ!? こんな魔物……!)
頭部と前肢だけ見れば獅子だが、背や尾には得体の知れない形が蠢く。この姿は騎士の華々しい功績として語られる上級の魔物、マンティコアではなかったろうか。アマリリスはほとんど現実逃避みたいに伝記の挿絵を思い起こしていた。
「さて。アマリリス嬢は意外と骨があるようだから、杖を持てぬようにしておかないと。……ああご安心を、胴と頭は無事に残しますので」
そして男は平然と檻の前面を開け放ったのだ。
魔物は気怠そうに歩み出て、頭を垂れる。その様は年少の王族に傅 く屈強な戦士で、男もまた陰気ながら、ただの犯罪者には見えない奇妙な風格があった。
「っ、ぁ……あなたは……、な に 」
男は甘い物を頬張った子供のように笑みを深め、そして瞬時に表情を消す。
ゆるやかに両腕を広げ、舞台役者の滑らかさで、一礼。
「ご挨拶が遅くなりましたな。私はユイン・リーヴァン。かつてのリーヴァン子爵家が末裔 と言えばお分かりか」
「……この地の、もとの、領主」
「そう。ストランジ男爵家の策略により一族郎党刑死したリーヴァン家だよ」
つまりこれは復讐、なのだ。
先祖がリーヴァンを陥れたなんて聞いたこともない。でも実際がどうあれ、相手が心底信じているなら今この場では同じこと。
身代金や政争のためと言われた方がまだマシだった。欲を求める者より、恨みで動く者の方が残虐に決まっている。その調理台にアマリリスはのうのうと乗ってしまった。
ユインが片手を挙げると、瘴気が先にぶわりと圧し掛かり、魔物が一歩踏み出す。
このままでは宣言通り魔物に嬲られる。何よりアマリリスを餌として、家族や家従が復讐者の悪意に晒される。ことによっては領民さえも。それが酷くおそろしい。
身体はまだ少しも動かない。声が出せても杖を握ることができない。もはや抵抗の余地はなかった。
――ア マ リ リ ス に は 。
「どう、やって、魔物を……?」
「不勉強だな。素材として、兵器として、魔物を利用する研究は存在する」
「魔力や、瘴気を隠せる、のは」
「さてね。 悪足掻きもほどほどにしていただこう。何をしたとて、先延ばしにはならんよ。それとも助けでも待っているのか?」
「……!」
ひゅっと喉が鳴る。図星だった。
目を覚ました時から、遠くに細雨のような清らかな力を感じていた。それがかなりの速さでこちらに向かってくることも。だから心折れずに、時間稼ぎの真似事なんてできたのだが――、
「君に懐いている……あの魔物紛いの堕 精 霊 なら役に立つまいよ。あれは自分が矢面に立つことを極端に嫌う。そのために知己が犠牲になろうとね」
ユインの声に再び鮮やかな嘲弄が漏れ出でる。それは耳から突き込んで、アマリリスの心の中を乱暴に引っ掻き回していった。
「あなたに、フロウの、何が分かると、いうの」
「君よりは詳しいはずだ。例えばこの地でリーヴァンに楯突いた民草共を裏で扇動していたことなど、お嬢様は知らぬだろう」
「あ、の人は……そんなこと、しないわぁ!」
脳裏が真っ白に煮え立つ。アマリリスは力の入らない身体で、力の限り声を張り上げていた。
◆
――呼応するように。ふっ、と、夜が鈍色に沈んだ。
アマリリスの周囲をまぁるく避けて、暗いとばりが覆い尽くしている。透かし見ることはできないが、崖下の窪地全体、あるいはもっと広い範囲が全て呑み込まれているのが分 か っ た 。
こんな唐突な事態にも、ついさっきまでこちらを嘲っていたユインは何も言わない。それどころか、虫や小動物が草を揺らすのすら聞こえない。
ひやりと密な、無音の世界。
アマリリスはこの静寂を知っている。
立ち込めた無彩色は、白日の下なら新雪のごとく仄光っただろう。
一帯を満たしているのは霧だ。いつぞやの朝に屋敷を閉ざした普通の霧とは違って、そのものが深い魔力を帯びている。とろりと水底に手招く気配にぼぅっと惚けてしまいそうになる。
そんな悠長にしていられるくらい、復讐者や魔物の脅威はもう感じなかった。
「フロウ……?」
確信をもって呼び掛ければ、涼やかな姿が暗幕をすり抜けて現れた。
図書館の小部屋よりずっとささやかな空間に二人。薄青の視線が正面から絡み合い、それからアマリリスの頭から爪先までを滑っていく。
彼の目がはっきりと見開かれた。
「リィ、リ」
呼ぶ声は、呆然としてか細い。手酷い裏切りにあったかのように――。
助かったという安堵が、萎れて消えていく。ありがとうを伝えようとしていた口は、音を発することなく閉じてしまう。
ように、ではなく、正しく裏切りだった。護衛から離れ山中にあり、毒と傷でボロボロの身体を晒すのは。アマリリスは健やかでいると約束したのだから。
彼はきっと、自分の存在が油断を生んだのだと、自責に駆られているだろう。怪我をした本人より傷付き苦しんでいるのだろう。
取り繕う余地のない状況に、胸と右手首がきゅっと締め付けられた。
(私、……どうしたら良かったのかな)
フロウは地べたにいるアマリリスに合わせ膝をつく。裁きを乞う罪人の面持ちで。
目を伏せたまま、滑らかな指先がアマリリスの首元にそっと触れた。
◆
◆
◆
【精霊と魔物と属性】
精霊も魔物も、必ず一つ以上の属性を持ちます。
《精霊契約 》を行う場合、相手の精霊が持つ全ての属性に適性がないと、応じてくれることはありません。逆に、火と水に適性のある魔術師が、火の単属性の精霊と契約することは可能です。
三属性以上の精霊は非常に希少です。
隣で黙々と坂を下っていた青年が急に立ち止まった。声は石材に釘を落としたささやかな響きだ。あらぬ方向を凝視する水色が、紅い雲の輝きに泡と揺らめいている。
「
「知った気配がある。……山にいるわけがないのに」
ゴードンは青年の様子を覗き込んでふむと唸った。丹念に研磨した木像のごとき額の下で、眉が僅かに歪んでいる。あり得ないと否定しているが、本当はすぐにでも直感の示す先に駆けつけたいのだ。
魔術師は只人にない特有の感覚を持つという。ゴードンも所属する自警団に近頃魔術師が協力してくれている、と人づてに聞いていたが、先ほど身をもってその敏さを知った。彼が気配を感じるのなら確かだろう。
「ここまでありがとうよ、あとは自分で帰れる。
「……そうする。町までの道は瘴気が薄い、魔物はいないだろう。ただ暗いから、くれぐれも用心してくれ」
迷う素振りは一瞬で、青年はゴードンに念を押すと足早に小道を逸れた。
「魔物に遅れをとるとは思わんが、あんたこそ気を付けて」
ちらと頷きを寄越してから、黒い後ろ頭は迷いなく藪を掻き分けていく。あの方角は幅広の川が横切っているはずだが――青年には障害にならないのかもしれない。杖の一振りで三体もの魔物を屠った鮮やかさを思えば、大抵のことはどうにかしてしまえそうだった。
本業が狩人であるゴードンは急な入り用で山に踏み込んだ。近頃は身を守るため複数人行動が推奨されているにも関わらず、単身でだ。自警団で魔物を討伐した経験が慢心になっていた。
それで意気揚々と獲物を担いだ帰り、敵に囲まれたところを青年に救出されたのである。
「しかし……あの魔物どもは気味が悪かった。狼みてえのが三匹、普通なら喰われちまってたろうに」
ウィアードウルフとかいう、俊敏で、獰猛なやつだ。だが今日はゴードンを逃がさないよう威嚇するばかりで、直接危害を加えてはこなかった。そのおかげで助けが間に合い、生きていられるのだが。
あれではまるで、作戦通りに動く人間のようだ。
「……どうか無事戻ってくれよ」
目を細めて樹々の隙間を透かし見る。青年の姿はもう影もなかった。
◆
うっそりと目を開ける。どうしても上がりきらない瞼を擦ろうとして、アマリリスはもぞもぞ身じろぎした。
したつもりが――腕がぴくりとも動かない。脚も、首も。全身との繋がりが希薄で、自分自身に現実感がない。
(身体、へん……?)
疑問はかぎ針となって、ぼんやり沈んでいた意識を速やかに吊り上げていく。
「ぁ…………っ!」
記憶は一息に甦った。最後に見たのは、黄昏に透ける無数の毒蛾。アマリリスはたっぷりと麻痺毒を吸わされ気絶してしまったのだ。
辺りは薄闇で、少し離れた場所には尋ね人の少女が切り株に凭れている。ぐしゃぐしゃに乱れた茶色の三つ編みが前に垂れ、顔はじっと伏せられたまま。その体内に瘴気が蟠っているのを感じた。――息はしている、だろうか。駆け寄って確かめることもできなくて気ばかりが焦る。
視線だけを巡らすと、どうやら未だカザヤの山中ではあるようだ。密集した樹々が乱暴に伐り倒され、ささくれだった断面を晒してごろごろ横たわっている。遠くには高く切り立った崖。地元の者達が足を踏み入れない窪地を、犯人は隠れ場所にしていたらしい。
周囲のあちこちに布の掛かった箱が点在し、すぐ前方には馬車でも入りそうな巨大なのが一つある。
「……ああ。お目覚めですか、アマリリス嬢」
「!!」
前触れなく。
背後から棒読みで名を呼ばれて、アマリリスは自由にならない身体を震わせた。
ざり。ざり。土を踏む音がすぐ傍を回り込む。
その足取りから瘴気混じりの魔力が滲み出ては粘液みたいに尾を引いていく。
悠然と全貌を現した男は仕立ての良い黒服にマントを羽織っている。顔だけがぼうと白く浮かび、こちらを見下ろしていた。
男は大仰な所作で腕を組み、巨大な箱に寄り掛かった。かしゃん、と小さな金属音。
既に陽は沈んだ後だ。雲漂う新月の夜、世界に精彩はなく、暗い灰色の輪郭が延々と連なっていく。その陰鬱を寄せ集めて人型にしたような雰囲気だった。
相手が黙ったままでいるので、アマリリスはわななく唇を慎重に動かした。意識に身体がついてこないのがもどかしい。
「目的、は、なに。私と、この子、を……どうする、つもり」
男の顔立ちは声と同じく奇妙に平坦だ。個性といえそうなのは仮面めいた無表情のみ。だがアマリリスの弱々しい言葉にじぃっと聞き入ると、仮面は剥がれ落ちた。両の口の端が僅かに上向いたのだ。
台本通りの揶揄とは違う、初めて見せた生の感情。たったそれだけのことにアマリリスは
「先ほども申し上げたが、そちらの子は親元に帰しましょう。人質を用いた交渉には信頼が必要なのだ。従えば無事に戻ると、そう
「わ、たしは……次の人質、なのね」
「まさか君自身に価値があるとでも思っていたのか?」
くつくつ、と男は喉を鳴らす。
張りのある果実を爪で割り裂いたら、内から無数の小虫が溢れ出す――そんな真夜中の悪夢に似た、怖気の走る薄笑い。
そこに明らかな侮蔑の色を差して、ぬらりとした腕が背後の箱から布を捲り上げた。
強かに全身を打ち付けられた。
そう錯覚するほど、分厚く濃い瘴気が壁となって押し寄せてきた。魔力知覚の鋭さが災いし、頭の中にがんがんと警鐘が鳴り響く。
布の下には鉄の縦棒が並び、奥に獰猛な金が二つ光る。箱ではなく、檻。巨大な檻をしてなお窮屈そうに閉じ込められた獣がしゅうしゅうと瘴気の息を吐いている。
(嘘でしょぅ!? こんな魔物……!)
頭部と前肢だけ見れば獅子だが、背や尾には得体の知れない形が蠢く。この姿は騎士の華々しい功績として語られる上級の魔物、マンティコアではなかったろうか。アマリリスはほとんど現実逃避みたいに伝記の挿絵を思い起こしていた。
「さて。アマリリス嬢は意外と骨があるようだから、杖を持てぬようにしておかないと。……ああご安心を、胴と頭は無事に残しますので」
そして男は平然と檻の前面を開け放ったのだ。
魔物は気怠そうに歩み出て、頭を垂れる。その様は年少の王族に
「っ、ぁ……あなたは……、
男は甘い物を頬張った子供のように笑みを深め、そして瞬時に表情を消す。
ゆるやかに両腕を広げ、舞台役者の滑らかさで、一礼。
「ご挨拶が遅くなりましたな。私はユイン・リーヴァン。かつてのリーヴァン子爵家が
「……この地の、もとの、領主」
「そう。ストランジ男爵家の策略により一族郎党刑死したリーヴァン家だよ」
つまりこれは復讐、なのだ。
先祖がリーヴァンを陥れたなんて聞いたこともない。でも実際がどうあれ、相手が心底信じているなら今この場では同じこと。
身代金や政争のためと言われた方がまだマシだった。欲を求める者より、恨みで動く者の方が残虐に決まっている。その調理台にアマリリスはのうのうと乗ってしまった。
ユインが片手を挙げると、瘴気が先にぶわりと圧し掛かり、魔物が一歩踏み出す。
このままでは宣言通り魔物に嬲られる。何よりアマリリスを餌として、家族や家従が復讐者の悪意に晒される。ことによっては領民さえも。それが酷くおそろしい。
身体はまだ少しも動かない。声が出せても杖を握ることができない。もはや抵抗の余地はなかった。
――
「どう、やって、魔物を……?」
「不勉強だな。素材として、兵器として、魔物を利用する研究は存在する」
「魔力や、瘴気を隠せる、のは」
「さてね。 悪足掻きもほどほどにしていただこう。何をしたとて、先延ばしにはならんよ。それとも助けでも待っているのか?」
「……!」
ひゅっと喉が鳴る。図星だった。
目を覚ました時から、遠くに細雨のような清らかな力を感じていた。それがかなりの速さでこちらに向かってくることも。だから心折れずに、時間稼ぎの真似事なんてできたのだが――、
「君に懐いている……あの魔物紛いの
ユインの声に再び鮮やかな嘲弄が漏れ出でる。それは耳から突き込んで、アマリリスの心の中を乱暴に引っ掻き回していった。
「あなたに、フロウの、何が分かると、いうの」
「君よりは詳しいはずだ。例えばこの地でリーヴァンに楯突いた民草共を裏で扇動していたことなど、お嬢様は知らぬだろう」
「あ、の人は……そんなこと、しないわぁ!」
脳裏が真っ白に煮え立つ。アマリリスは力の入らない身体で、力の限り声を張り上げていた。
◆
――呼応するように。ふっ、と、夜が鈍色に沈んだ。
アマリリスの周囲をまぁるく避けて、暗いとばりが覆い尽くしている。透かし見ることはできないが、崖下の窪地全体、あるいはもっと広い範囲が全て呑み込まれているのが
こんな唐突な事態にも、ついさっきまでこちらを嘲っていたユインは何も言わない。それどころか、虫や小動物が草を揺らすのすら聞こえない。
ひやりと密な、無音の世界。
アマリリスはこの静寂を知っている。
立ち込めた無彩色は、白日の下なら新雪のごとく仄光っただろう。
一帯を満たしているのは霧だ。いつぞやの朝に屋敷を閉ざした普通の霧とは違って、そのものが深い魔力を帯びている。とろりと水底に手招く気配にぼぅっと惚けてしまいそうになる。
そんな悠長にしていられるくらい、復讐者や魔物の脅威はもう感じなかった。
「フロウ……?」
確信をもって呼び掛ければ、涼やかな姿が暗幕をすり抜けて現れた。
図書館の小部屋よりずっとささやかな空間に二人。薄青の視線が正面から絡み合い、それからアマリリスの頭から爪先までを滑っていく。
彼の目がはっきりと見開かれた。
「リィ、リ」
呼ぶ声は、呆然としてか細い。手酷い裏切りにあったかのように――。
助かったという安堵が、萎れて消えていく。ありがとうを伝えようとしていた口は、音を発することなく閉じてしまう。
ように、ではなく、正しく裏切りだった。護衛から離れ山中にあり、毒と傷でボロボロの身体を晒すのは。アマリリスは健やかでいると約束したのだから。
彼はきっと、自分の存在が油断を生んだのだと、自責に駆られているだろう。怪我をした本人より傷付き苦しんでいるのだろう。
取り繕う余地のない状況に、胸と右手首がきゅっと締め付けられた。
(私、……どうしたら良かったのかな)
フロウは地べたにいるアマリリスに合わせ膝をつく。裁きを乞う罪人の面持ちで。
目を伏せたまま、滑らかな指先がアマリリスの首元にそっと触れた。
◆
◆
◆
【精霊と魔物と属性】
精霊も魔物も、必ず一つ以上の属性を持ちます。
《
三属性以上の精霊は非常に希少です。