5. 分水嶺

文字数 4,622文字

 夏の夜は逃げ切らぬ熱気をはらみ、樹々や草の複雑な匂いを閉じ込めている。生ぬるい風がそれをかき混ぜて、アマリリスの立つバルコニーまで押し寄せてきた。
 白く大きな満月が東寄りの空に堂々と座す。
 月の方角と高さを確かめて、アマリリスは学園の訓練着のベルトをぎゅっと締めた。訓練着は、持っている衣服の中では寝間着以外の唯一のズボンで、丈夫な上衣と揃いになっている。文字通り戦闘訓練や野外活動の授業で着るものだ。アマリリスが受けた戦闘の授業なんて、一番簡単な『護身術』だけだが。

 部屋の鍵は内側から掛けてある。朝までに戻れば、問題ない、はず。

 長袖の服はじっとり蒸すが、夜の林を歩くには肌を覆った方がいい。
 右手には短杖(ロッド)。他の持ち物は、ランタンを模した手のひらサイズの灯りと、獣除けの鈴――これらは少しの魔力を注ぐだけで使える術具だ。それから肩掛けのバッグ、水筒、ハンカチ三枚と大判の布一枚。カザヤの図書館長が『治癒の泉』の場所を示すためにくれた近辺の地図。
 およそ貴族らしくない装備で、大雑把に一括りにした髪を風に流している。

(《浮遊(フロート)》だけで降りられるかなぁ……)

 アマリリスの部屋は三階にある。学園の屋上に比べたら大した高さではないのに、細かい意匠の彫り込まれた木の手すりの下の庭は、月の光で半端に照らされて断崖絶壁のように遠く見えた。

 《浮遊(フロート)》は名前どおり物を浮かす魔術で、使い手によって支えられる重さに差がある。アマリリスの力量では自分自身を浮かべることはできず、落ちる速度を緩めるので精一杯だろう。
 使える魔力も多くはない。魔力の消費と恐怖心を天秤にかけて、逡巡ののちに詠唱した。

「……《緩衝(アンチインパクト)》」

 短杖(ロッド)の先から白い魔力光が広がって、全身を包む。光はすぐに消えたけれど、アマリリスは壁に並んだ窓をこわごわ窺った。『いけないことをしている』不安は、世界の全てを敵に回すようで、もしかしたら飛び降りることそのものより恐ろしい。

(どうか誰も気付きませんように)

 魔力光は夜闇に目立つ。満月の明るさに、紛れてくれたら良いのだけど。
 早口で《浮遊(フロート)》も唱えて、アマリリスは手すりを乗り越えた。





 恋って何だろう。
 貴族にとっては、駆け引きの一環。
 もしくは学生の間で囁かれる、刹那の甘酸っぱさ。フルーツをたくさん漬けたアイスティーのようにカラフルで、飲み干されては消えていくもの。
 なんて印象も、軽々しく語られうる部分を抜き出しただけだ。
 人目に触れぬ残りの形は――アマリリスの場合、安堵であり、貪欲である。



 十年前。アマリリスが五歳の時、ちょうどこの近辺で魔物の群れの襲撃に遭った。
 普段は魔物なんてほとんど出ない地域だが、後で聞いたところでは、近年まれに見る大発生だったらしい。

 横転した馬車。逃げろと叫ぶ声。打ち付けるほどの雨が降り、夜の林は果てしなく暗かった。
 あてなく走ったアマリリスが身を隠したのは、藪に隠れて口を開いた、岩壁の小さな洞。至るところにできた擦り傷が痛み、夏だというのに雨に体温を奪われた手足がかじかむ。壁に身体を打ちつけながら、暗闇の中を手探りで進んでいく。

 そうして踏み出した一歩が空を切って、がくんと身体が落ちる感覚を最後に――記憶は一度途切れている。



 次に感じたのは底知れぬ温かさ。
 何かが身体を包み、触れたところから微熱が融け込んできて、誕生日の朝みたいにふわりと目を醒ました。

 狭い洞の中、アマリリスは見知らぬ青年に抱き込まれていた。彼の身体を下にして、硬い地面に触れることなく。
 身じろぎに気付いたのだろう、差し込む陽光のなかゆっくりと開いた目は、湖面のきらめきを湛えていた。アマリリスごと身体を起こした青年の指先が髪を撫で、静かな表情の代わりに気遣いを伝える。

 青年は何も言わなかったが、この人が寒さから掬い上げてくれたのだと直感した。
 身体は安心しきっているのに胸の内がもどかしい。目の前の相手を求めてやまない。
 幼心に刻まれたその衝動が、アマリリスの初恋だった。

 無事救助されたあと、アマリリスの珍しく強い主張により青年は客人として別荘に滞在した。恋にのぼせた少女は客間に入り浸り、言葉を話さない彼にあれこれ話し掛けた。手を引いて庭を連れ回し、花を摘んでは贈った。
 瞳の色が母の持つうつろい石(フローライト)のペンダントに似ているからと、勝手に『フロウ』と呼び名も付けた。

 ちょっとした行き違いがあって、彼は半ば追われるように屋敷を去ったのだけれど――彼を庇えなかったことを、今でも悔しく思っている。



 ――最後の日。あの夜明けに聞いた言葉にはどんな意味があるのだろう。訊きたいことがいっぱいある。話したいことも。
 悩んで、悩んで、アマリリスは屋敷を抜け出すことを決めた。十年ごしの頼みを果たすために。

「っと、とと……」

 踵から、とたん、と足の裏が地面に着く。少しふらついたが、《緩衝(アンチインパクト)》のおかげで痛みはない。訓練用の丈夫なブーツでしっかり土を踏みしめる。
 窓の幾つかには灯りが見えるけれど、どれもしんと静まっている。
 安堵の息をついて、アマリリスは足早に庭を横切った。





 林には、日中たっぷり炙られた土と植物の匂いが、バルコニーで嗅いだのよりずっと濃く凝っている。
 無謀な飛び降りに成功したことで、アマリリスは背徳に酔いつつあった。必ず辿り着ける――なんて根拠のない万能感。つんのめったり樹精の群れにうっかり突っ込んだりしながら、樹々の間を急ぎ足で行く。
 かつての記憶と地図、そして魔物に襲われた位置から子供の足で届くこと。ある程度範囲を絞れるとはいえ、危険極まりないと理性が囁く。けれど熱に浮かされて恐怖は麻痺していた。

 そして月が三十度も回ったころ。
 短杖(ロッド)で藪を払った先に、その洞は確かに姿を現したのだ。



 十年ぶりに見た洞は記憶より随分小さかった。高さは大人の頭よりあるものの、幅は二人並んで歩くのがギリギリくらい。
 無意識に息を呑み、それが期待か緊張か分からないまま足を踏み入れた。

 術具の光は炎のように揺らめかないが、アマリリスの腕が動くたびに岩壁の陰影は形を変えていく。視界の端で影がちらつくと、反射的に肩が跳ねてしまう。
 ブーツの底についた土が岩の地面と擦れてじゃりじゃりという。外の虫の声はほとんど入ってこず、自分が引き起こす音だけが大きい。少しくねった洞内を灯り頼りで進むと、すぐ奥についた。
 最奥の地面にはぽっかりと穴が開いていた。ちょうど一人掛けのソファを放り込めるくらいの、小さい穴だ。

『あの洞の、泉の前の門を破ってくれ』

 泉とは、これのことだろうか。底を照らしてみても濡れた跡すらなく、完全に枯れているけれど。

(だとしたら、門って何かしらぁ。壁にある……この変なもの?)

 灯りを巡らすと、穴より手前の岩壁に、金属と白い陶器でできた人工物が埋まっている。アマリリスは顔を近づけて、正体を確かめようとした。

「……えっ。これ……、術具?」

 ――その造りは精緻で、魔術陣に似た紋様が刻まれている。
 呆然と発した独り言が、洞の中にわんわん反響していった。



 術具は、ちょうど対称になるように両手の壁に二つ。そのうち一つは陶器の部分が割れ、大きく欠けている。
 ピンと勘づくものがあり、《浮遊(フロート)》で灯りを浮かせる。既に見つけた二つから、それぞれ壁沿いの上部に、もう一つづつ。頭の真上にも一つ。同じ術具があった。五つ一揃いで何らかの術を形作っているのだ。
 道の途中にある『門』ならば、きっと『閉じる』ためのもの――結界術のたぐい。

(《解呪(ディスペル)》なんて高度なことはできないから……破るには、術具を壊すしかない、のよね)

 いつからここにあるのだろう、少なくとも十年物の術具を、そっとつつく。つるりとした印象に反して冷たくない。
 気温が高いからだ。意識すると急に喉が渇いて、アマリリスは水筒から水を一口含んだ。

 頬を伝って顎からぽたりと落ちた汗は、暑さゆえ――だけだろうか。万能感を押しのけ、にわかに現実味が戻りつつあった。



 術具の一つは既に欠けている。だからといって他も安易に壊していいのか。ちくりと刺さった後ろめたさの出処は、図書館長が教えてくれた伝承だった。
 こんなところに無意味に術具が置かれるはずがない。『治癒の泉』のように、地元の人が大事にしている場所なのかもと、想像してしまった。あるいは重要な何かを封じたり、守ったりしているとか。
 領主の娘だからといって、領内で好き勝手していいわけではない。

(地図だけじゃなくて、借りた本も持ってきておけば。なんて、今更だなぁ)

 癖みたいに染み付いた溜息を一つ。
 どうにも、上手くいかない。ブレンダが言っていたように、結果が出てからウダウダ後悔してもどうにもならないのだけれど。
 あぁ、でも、努力を尽くして――ない頭を振り絞っても()()した時のことは、あの子も言っていなかったっけ。

 ――冷や水。自分自身の思考に、ぎくりとした。

(……っ、違う! まだ結果は出てない、失敗なんて決まってないわぁ! ……洞の場所は確認できたから、一旦帰って門のことを調べる?)

 アマリリスは頬をぴしゃりと叩いて、ネガティブに傾いた心を引き戻す。

 けれど、読書や調査に時間を掛けて大丈夫だろうか。
 強行軍でここに来たのだって、日が経つことでフロウと再会できる可能性を失いたくなかったから。次も首尾よく家を抜け出せるとは限らない。悪ければ今回の外出がバレて、監視がついてしまうかも。
 考えれば考えるほど、一度戻るのは悪手に思える。



 狭い岩壁が圧し掛かるように迫って、息遣いがやたらと大きく響く。
 弱い灯りの中、足元に黒々とした一線を感じた。ちょうどこの結界のように、行くと戻るを隔てている。

(確実にやるなら、今しかないんだわ)

 ようやくアマリリスはその結論を認めた。
 帰って調べ物をするにしても、リスクなしで決断を先送りにできるわけではない。彼が去ってしまうとか屋敷に軟禁されるとか、なし崩しに機会を失う可能性を、受け入れるということ。

 正解どころか判断材料すら分からない。なのに今ここで、決めないとならない。

 ――それならば。

『たのむ、リィリ』

 あの澄んだ声をもう一度脳裏に響かせて、短杖(ロッド)を頭上に向ける。

(私は……あなたを信じたい)

 想いを吐き出すように詠唱する(謳う)

 アマリリスは縋ったのだ。
 かつて助けてくれた人が、悪事を望むはずがないという期待に。
 誰かを傷つけることを、幼い少女に託しはしないという勝算に。
 つまりは己の恋心(盲目)に。

 一拍。
 息を吸って、踏み越える。


「……《衝撃(インパクト)》ッ!!」


 白光が真っ直ぐに天井を穿つ。金属と陶器、それに削れた岩の破片が眼前にぱらぱらと落ちてきた。

 花弁や星屑は降り注がない。
 息詰まる洞の中、意味を失った成れの果てだけがアマリリスを祝う。くすんだそれらは灯りに輝くこともせず、舞台のような華やかさなんて程遠い。

 しかし後で思えばこの瞬間が――冴えない少女の分水嶺だったのだ。







【術具】
特定の魔術を内蔵する物品全般を術具と呼びます。
小さなアクセサリーから、建物サイズの大規模なものまで様々です。
大まかに、魔術師が自身の魔力を込めることで発動するタイプと、魔晶を嵌め込んでスイッチやキーワードで発動するタイプがあります。後者は魔術師でなくても使えます。
術具は総じて高価です。

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