17. 見えない道標

文字数 3,619文字

 アマリリスを突き動かした衝動は、良心や義憤、ましてや領主一族としての責任感などではなかった。
 そういう気高い感情とは真逆の、浅はかで愚かな――。



 乗り越えるところだった窓枠が煙のように消えて、身体ごとガクンと落ちる。
 足元が、柔らかい。アマリリスは体勢を立て直し損ない、そのまま()()()に倒れこんだ。
 土と樹皮の青苦さが鼻を刺し、湿気が肌に絡みつく。なにより《精霊契約(リンケージ)》由来の魔力知覚がひっきりなしに異常を知らせてくる。

「一体何が……ここは、どこ?」

 見回せば、目に入るのは雑然と生えた樹々と起伏のある斜面ばかり。図書館とは程遠い屋外にアマリリスはいた。
 息をするだけで肺を汚していく気配はおそらく瘴気。――であればカザヤの山その場所なのだろうけれど、詳しい位置は分からない。

「転移、したの? そんな高度な術者がいるなんて……。それに直前まで魔力を感じなかったわぁ」

 魔術師にとって魔力とは常に身体から零れ出るものだ。生まれもっての才覚と鍛練により魔力を隠せる人もいるらしいけれど、相当難しいと聞いたことがある。契約により精霊と同等になっている知覚をかい潜れるものだろうか。
 今も周囲に人間(無属性)の魔力はない。
 恐る恐る立ち上がると、服の端からぽろりと紙片が落ちた。クリーム色の上質なカードはパーティーの招待状を模していた。



 ――ご友人は手厚くおもてなししているよ。
 ――会いたいのなら日没までにおいでになるとよい。

 ――貴女が辿り着くことを心待ちにしている。緑深き宴席にて。





 そうしてアマリリスは瘴気の濁ったスープの中を、肉の切れ端みたいに彷徨っている。どんよりとした雲が時間の感覚を奪う。いつの間にか山は橙を帯びつつあった。

(どこにいるの……? どうやって探したらいい?)

 意気込みは刻々と傾き、焦燥感だけが空回りしていた。捜索と言えば聞こえはいいが、手掛かりもなく闇雲に歩いているだけだ。
 目指すべきはどこなのか。この道行きに意味はあるのか。誘拐犯の意図はなんなのか。読書家の子を攫ったのはアマリリスをおびき出すためだろう。ではアマリリスに用事があるのかと思えば、謎掛けみたいな手紙一つで山中に放置されている。
 答えの出ない疑問が頭の中をぐるぐる巡って、それらを見ないふりで足を引き摺っていく。

「っわ、……とっ、と」

 のたくる根に蹴つまづいて、とっさに近くの幹にしがみついた。老人の皴のように表情豊かなでこぼこの表皮が、手のひらの擦り傷を苛立たしげに刺激する。
 まず野山を歩き回っていい格好ではなかった。早々に片方のヒールが折れた時点でもう片方も自分で折ってしまったが、それでもデザインに重きを置いた華奢な靴は足の指を苛んだ。ノアがゆるく内巻きにしてくれた髪も、ふんわりしたドレスの裾も、ほうぼうに引っ掛け酷いことになっている。むき出しの腕や脚の惨状は言うまでもない。

 急に心細さが溢れて、樹に額を寄せた。立ち止まると途端に怖気が這い上がってきた。

「あの子、無事かしらぁ……」

 告げられた刻限は夕。それまでに見つけ出すことができなかったら――もしくは、もう既に。犯人が約束を守る保証はないのだ。
 本当は、こういう時は脅しに耳を貸さず、身を守ることを優先すべきだった。そう幼少から教育されてきた。
 でも、じゃあ、あの子はどうなるのだろう。標的であるアマリリスと偶然話していたなんて、ふざけた理由で人質にされてしまったのに。

 罪のない少女が自分のとばっちりで害されるなんて、まっすぐ立っていられないくらいおそろしい。魔物に襲われるよりも前に、恐怖に潰されて死んでしまいそうだ。
 アマリリスは無力だ。頼るべき護衛からも、自ら離れてしまった。
 (しるべ)なき世界で一人。けれど――、

 弾かれたように顔を上げる。
 遠く、遠くに、きらきらした冷たさが瞬いている。



 厚い雲の合間、(くだ)りゆく太陽とは逆のほう。泣き出したい気持ちで、アマリリスは樹影の彼方を見つめた。

「フロウ……」

 瘴気を裂く鋭い水の気配は、二度、三度と閃く。彼はあの先で魔物と対峙している。
 敵に向けて振るわれた魔力は刺々しく攻撃的で――なお美しい。自ら砕けながら命に落ちかかる氷柱(つらら)の苛烈。まるで穏やかさとは真逆なのに、容赦のない清冽さは思考をすぅっと鎮めていく。

 ぎゅっと握った拳を、胸に当てた。
 ――不思議だ。
 傍にいないのに、フロウの存在を感じるだけで心に奮い立つものがある。勇気と呼ぶには個人的すぎる小さな感情は、ひとりでに結実したのではなく、彼に与えられたのでもない。アマリリスと、今ここにはいないフロウの、狭間から生じたのだ。

(……ちゃんと考えて、アマリリス。場所も書かずに来いなんておかしいんだわぁ。私を疲弊させるため? 何かの時間稼ぎ? それとも……()()()()()()()()()()?)

 あの悪意に満ちた招待状もどきに、暗号や仕掛けがないかは何度も確認した。場所が指示されているとしたら別の形であるはず。
 図書館長が『治癒の泉』について教えてくれた時のことをふと思い出す。広い野山に看板を立てる、あるいは刷られた地図に印を書き入れる。道標となりうるのは、本来そこに存在しなかったものだ。

 ――例えば、ずっと神経を圧迫していた不快感。

 はっと息を呑んでアマリリスは目を閉じた。
 契約により広大に拓けた知覚の、隅から隅までゆっくりと意識を滑らせていく。先ほどフロウを感じた方角は瘴気がひときわ密だ。まるで()()みたいに。
 そのちょうど真逆の方向に、

「……あった」

 わずかにぽつんと他より濃い場所がある。
 ぞわぞわ蠢く瘴気の中、その点だけがじっと静止している。魔物が一体孤立しているだけと思うには、あまりにわざとらしい。

 頭上と手元のカードを交互に睨む。目指す方向は、滴る血の赤で今まさに雲が染まっていく。
 今から向かっても日没には――いや、間に合わせるんだ。
 痛む身体を叱咤して、アマリリスは再び歩き出した。





 (しるべ)である一点にあと少しで辿り着く。そんな地点でアマリリスは険しく宙を睨んだ。

(……あれ、魔物よねぇ)

 目的地の手前の上空に、別の瘴気がふらふらと漂っている。
 捨てられていく生ごみから漏れ出すような澱んだ気配は風属性の瘴気だろう。折り重なる枝葉に遮られて見えないが、発生源は確かにそこにいる。

(不規則に飛ぶ風属性の魔物、さっきの冊子に載ってたわぁ。迂回するのが確実だけど)

 辺りは暗く、陽が落ちきってしまうのに一刻の猶予もない。それに目指す点は魔物のほんの先で、回り込んだところで最後は近寄ることになる。結局見つかってしまえば時間の無駄だ。

 ――エンフラッター。風属性、虫型。
 ――透明に近い、巨大な蛾。肉食昆虫の顎を持つ。鱗粉に麻痺毒あり。毒に致死性はなく持続時間も短いが、身動きが取れなくなる。

 焦りは記憶の引き出しの滑りを悪くする。読んだばかりの記述を、アマリリスは必死に手繰り寄せた。
 視認の困難さ、上空から一方的に毒を撒き散らしてくること。これらの特性から、ストレイピードなどより脆弱であるにも関わらず、危険度が高いと書かれていた。裏を返せば、魔力知覚を備え飛び道具代わりの術を持つ魔術師であれば、討伐は難しくないとも。

「でも、私にできるの……?」

 アマリリスは無意識に喉元をさすった。



 全力で放った一撃が、容易く避けられたのを憶えている。
 喉すれすれに迫った魔物の顎の、尖った先が開いて閉じようとする、かすかな風圧が皮膚に残っている。
 あの夜そうだったように、力のない者が戦いを選ぶなんて自殺行為だ。差し迫った危機ほど力のある者に任せるべきなのだ。なんとか下山してジェフリーを呼ぶか、先ほどの感覚を頼りにフロウと合流するか。

 だがそれでは日没に間に合わない。

(……怖い)

 胸の奥がぞわぞわと疼いた。見殺しにするなんて、魔物よりも()()()()()
 ――そしてそれ以上に、抗うべきだと心が叫んでいる。

 これは勇気ではない。良心や義憤、ましてや責任感ではない。しかし敵の脅しに屈した瞬間の浅はかで愚かな衝動でも、もはやなかった。
 強く、稀有で、他人(ひと)の痛みにどこまでも繊細な、契約精霊への意地だ。
 たとえ我が身可愛さに少女を切り捨てたって、フロウはアマリリスを責めないだろう。けれどアマリリス自身が、二度と彼の透明な視線の前に立てはしない。

「っ、……できるわぁ!」

 右手を目の高さにかざす。焦点が合わないほどの間近で、青い契約紋が手首を飾っている。
 アマリリスは力を込めて、ドレスの裾を裂いた。







【魔力と瘴気】
自然に満ちる魔力は火水地風どれかに属しますが、生物の持つ魔力は基本的に無属性です。狭義には後者のみを魔力と呼ぶこともあります。
人が属性術を使う場合、無属性の魔力を別の属性に変換して用います。
負の魔力と称される瘴気も四属性のどれかに分類され、同属性の魔力と瘴気は相殺します。

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