第38話  第九章「王子さまとお姫さま」(1)

文字数 1,334文字

 その日のことは憶えている。
 校外学習で、自然科学博物館に行く三日前のことだった。
 水筒にオレンジのカルピスを入れていこう。げんじょの大好物だ、きっとうらやましがるに違いない。見せびらかすように目の前で飲んでやろう。
 そうだな、どうしてもと言うんなら、一杯くらいはめぐんでやろうかな、と思った。
 家に帰り、「家族役」の従者にお願いして買ってきてもらおうとした。
 だが、それを言うより先に、本国への帰還命令を告げられた。
 自分の後見人であったGが、反逆の嫌疑がかけられたそうだ。
 あからさまな陰謀、すでにGは国外に逃亡し、その庇護下にあった自分もこれ以上よその国で自由にさせるわけにはいかなくなった。
 期日は二日後、変更は受け付けない。
 そもそも、自分に言う権利などない。
 奈落の底に突き落とされたような気持ちになった。
 次の日、学校に行った。
 警備上の理由で、誰にもお別れを言うことも許されなかった。
 いつものように、変わらない笑顔を作って教室の扉を開ける。
 一番最初に、げんじょの顔が目に入った。
 その途端、心の中で、なにかが弾けるように感情がわきあがった。
 怒りだったのだろうか、憎しみだったのだろうか、悲しみだったのだろうか。
 獣のような叫び声をあげて、飛び掛って、押し倒して、馬乗りになって、殴り続けた。
 何発も、何発も、何発も、拳が痛くなるくらい。
 なんでそんなことをしたんだろう。
 今でもわからない。
 泣き叫びながら、ただひたすら殴っていた。


 ほほと足、打ちつけられた体中の痛みが、かろうじてソアラにこれが現実だということを教えてくれていた。
 そうでなければ、これは壊れてしまった自分が見た幻想だと思ってしまったことだろう。
「・・・・・・げんじょ・・・なんで?」
 どれのことを言っているんだろうか?
 どうしてここがわかったのか? なぜNoSの技をお前が使えるのか?
 聞きたいことは山ほどある、だが、そのどれでもない。
 戦闘不能になったファランクスを後に、元譲が戻ってくる。
 ゆっくり、自分に近づいてくる。


 殴られながら、元譲は思った。
 最初は痛み、次に何をするという怒りの感情、そして、なんでこんなことされなきゃいけないんだという疑問。
 だが、それら全てを塗り替える変化に気づいた。
 泣きながら殴り続けるそあらの顔が、まるで「助けて」と叫んでいるように見えた。
 誰から? 何から? なにを? どうやって?
 まったく何もわからなかったし、なにをどうすることもできなかった。
 自分はまだ子供で、無力で、なにもできなかったから。
 ずっとコイツはウソツキだと思っていた。
 上手に振舞って、自分以外のすべてを欺く、いけすかないヤツだと思っていた。
 だけど、そんなコイツが、なりふり構わず泣き叫んで、必死で手を伸ばしているように見えた。
 だけど、手は届かず、握り返す力もなかった。
 だから、元譲は求めた。
 「誰よりも強い力」でもない「欲するものを得る力」でもない。
 ただ、その手を握り返す力が欲しかった。
 ただそれだけだった。
 たったそれだけの、シンプルな願いだった。
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