六、少女と青年とオバケ・3

文字数 2,979文字

「私はオバケで戸籍もないから、生活に色々不自由があるのよ」と、みきさんが随分控えめな、遠慮しているような声で続ける。「当たり前だけど、その……結婚もできない」

「生活については僕にも協力できることがあると思うから、これまで亜紀さんに頼ってきたことを分担させてほしいと思ってる。結婚については……ごめん。まだそこまでは考えられていなかった」
「あ、いや。そんなつもりじゃ」
「けどそれは、同年代の他のカップルだってだいたいそうだと思うんだ」

 ジュン君は真っ黒な瞳を真っすぐにみきさんへと向けていて、みきさんもおずおずといった様子で彼を見つめ返す。

「勿論、君の言うように問題はこれから色々出てくるんだと思う。予想できないことも沢山。だけどそれだって、他の人達と変わらないよ。人と人が付き合っていて、何もかもがうまくいくなんてことは元々ないんだから」
「でもその数はきっと、普通のカップルより多くなるわ」
「それは仕方ないだろうね」

 ふう、と息を吐く音がした。ジュン君が一度深呼吸をしたようだ。緊張を紛らわせているのかもしれない。

「もし、君の言ったことが全部言い訳で、実際のところは単に僕のことが嫌いになっただけなら……もう一度、きっぱり振ってほしい。そうしたら今度こそちゃんと諦める」

 瞬きもせず自分を見つめる彼に対して、みきさんは戸惑ったように目を二、三度瞬かせる。

「だけどもしそうじゃないなら……どうか、僕の付き合いをやり直してくれないか。僕はまだ、君が好きだ」

 その言葉を聞いたみきさんは、唇をぐっと噛んだ。
 こんな風に考えること自体失礼なのかもしれないけれど――生きている人の仕草と全然、変わらない。


「嫌いになんかなるわけない。私だって……」
 恐らくは「あなたが」と言いかけた彼女の声は、最後まで聞き取れなかった。

「だけど私、あなたにまで迷惑をかけたくないの。妹にも」
「頼られることを迷惑だとは思わないよ。もし本当にそう思うことがあったらちゃんと伝えるし……多少の苦労をしてでも、君と一緒にいられる方が僕はいい」
「そこまでしてもらっても……いつか突然、私は消えてしまうかもしれない。どうしてこんな風にこの世に留まれているのか、自分でも分からないのよ」
「なら、それまでできるだけ一緒にいよう。そのときまで僕が生きているとも限らないけどね。何が起こるか分からないのは僕だって同じだし」
「縁起でもないこと言わないでよ」

 みきさんは軽く口を尖らせて、一度表情を緩めてから俯いた。

「私の何が、そんなに好きなの?」
「分からない。何が、って言えるものは特にないのかもしれない。だから、君の何が嘘でも……何がなくなっても、僕は君のことが好きなままだと思う」


「……俺達、お邪魔ですかね」
「だから言ったじゃん」

 また都築君が呟いて、今度こそわたしは声に出して突っ込まざるを得なかった。
 ……いや、そうでもないか。二人ともどう見たって、お互いのことしか気にしてないし。
 背景だ、わたし達。布団やテーブルとおんなじ。


「そんなの、今だけよ。長く付き合っているうちに私のことを嫌いになったり、他に好きな人ができたりするかも」
「確かに、あり得なくはないよね。逆に君が僕のことを嫌いになってしまう可能性だってある。そのときはきっちり話し合って、何なら喧嘩して……それでも駄目だったら、今度こそ別れればいい」
「当たり前のこと言わないでよ。それじゃ普通のカップルと同じじゃない」
「そうだね」
 ジュン君はゆっくりと頷く。その微笑んでいるとしかいえない表情には、緊張など全然感じられなかった。
「僕はそうなりたい。君の特殊な事情や、それに関わる負い目は全部忘れて、思い出さざるを得ないときにだけ一緒に乗り越えることにして……普通に、僕ともう一度付き合ってほしいんだ。鬼塚実希さん」


 ジュン君からみきさんへ――改めての、交際の申し込み。
 しばらくの間みきさんは何も答えられずにいて、ジュン君はジュン君で言いたいことをすべて言ってしまったからか、困った様子でみきさんを見守っていた。
 勿論わたしや都築君が何かを言えるはずもなくて、気まずいんだか何だか分からない沈黙が場を支配する。


「あの……」

 それを打ち破ったのは、早奈美ちゃんの決して大きくはない声だった。
 不意を突かれた様子のみきさんとジュン君の視線が、立て続けにわたし達傍観組のスペースへと注がれる。

「お邪魔しちゃってごめんなさい。ちょっとだけいいですか? 話したいことがあるみたいで」と、注目を集めた早奈美ちゃんは右手首だけを動かして、隣の少女を指し示した。「……亜紀ちゃんが」

「え、あたし?」
「うん。あるでしょ?」

 急に話を振られた亜紀ちゃんは明らかに困惑していたけれど、早奈美ちゃんの言葉を否定することはなかった。目を丸くしながら早奈美ちゃんを見て、小さな拳を握った彼女の……恐らくは無言のエールを受け取るなり、みきさんに向き直る。

「お姉ちゃんさ、さっき淳さんに『あなたにまで迷惑をかけたくない』って言ったよね。もしかして今、あたしに迷惑がかかってると思ってるの?」
「ええ。こうなってからずっと、亜紀には甘えっぱなしだもの。私が姉なのに」
「正直、最初は負担に思うこともあったよ。あたしにできることは何でもやってあげなきゃ、って気負ってたし」

 みきさんが申し訳なさそうに、元々きりりとしていた眉を下げる。
 それを見た亜紀ちゃんは大きく首を左右に振って、場にそぐわないくらいに明るい声を上げた。

「でも今は、二人暮らしがすっごく楽しい。こんなこと言うと不謹慎かもしれないけど、お姉ちゃんと歳が近くなるなんてあり得ないことが起きて、昔よりずっと楽しく話ができるようになった気がするの」
「そう言ってくれて嬉しいし、私も亜紀と暮らしていて凄く楽しいけど……この部屋はどうしたって、二人で暮らすには狭いでしょう?」
「それはそう! でもまあ今のところは何とかやっていけてるし……その他の大変なことは、さっき言ってたみたいに淳さんにも助けてもらえたら嬉しいなー、なんて」

 亜紀ちゃんは座ったまま、大袈裟な上目遣いでジュン君をちらりと見る。彼が笑い声を漏らすなり彼女も笑い返して、戸惑っている様子のみきさんへとその笑顔を向けた。

「お姉ちゃんは今のところ、淳さんといるのが幸せなんだよね。だったらそうすればいいじゃん? あたしだってその方が嬉しいんだよ。あたしがお姉ちゃんとまた会えて、こうして一緒に暮らせてるのは……お姉ちゃんとあの人が出会えたおかげなんだから」

 都築君ほど目の良くないわたしには、はっきりと判別できない。けれど亜紀ちゃんが言葉を重ねたび、みきさんのアンバーがかった瞳の縁が、少しずつ揺らいでいくように――潤みつつあるように、見えた。

「あ、でも、嫌になったら別れちゃえばいいからね! それは二人の問題だから、あたしのことなんて気にしないで。でも良かったら相談してよね、愚痴ぐらいいくらでも聞くからさ」
「……ありがとう」

 その言葉を発した瞬間ぽろりと、みきさんの目から滴がこぼれ落ちた。

「うん、そうする。そうしたい。……私と、これから先も一緒にいて。淳」

 そうして、数日前に抱いたわたしの何気ない疑問がようやく解消される。
 ――オバケも涙を、流すらしい。
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