一、少女と青年・1
文字数 3,018文字
その翌日、ジュン君はいつも通り「喫茶カンヴァス」にやって来たけれど、片江さんは姿を現さなかった。
時折カップをぐらつかせつつ、作業に没頭するジュン君の様子を人知れず見守っていたわたしは、少し拍子抜けした気持ちで家路についたのだった。
さらにその翌日もジュン君はいつも通りに現れ、いつも通りにキーボードを叩き始めた。
時刻は夕方の四時を過ぎた頃。その少し前に来ていた学校帰りの都築君は、着替えを終えるなりジュン君の姿を見つけ、当然のような顔をしてわたしの仕事を取り上げる。
そしてわたしの代わりに、カンヴァスの名物メニュー「店長の特製コーヒー(だいたいうすあじ)」をジュン君のテーブルまで運んでいくと、大胆にも彼に話しかけてしまった。
「昨日は来ませんでしたねえ、あの女の子」
「え? もしかして店員さん、一昨日の話を聞いていたんですか。恥ずかしいなあ」
ジュン君は照れ隠しのように笑って、コーヒーカップに口をつけると、「本当に薄いんですね、これ」と呟いた。
それはそうだろう。ものぐさな上コーヒーにこだわりのないカンヴァスの雇われ店長が一瞬で淹れた「店長の特製コーヒー(だいたいうすあじ)」は、コーヒーというよりもむしろコーヒーの香りがついた色水だ。
時折ちょうどいい濃さをしていることもあるがゆえの(だいたいうすあじ)なのだが、それは店長が淹れていることを途中で忘れてしまったときか、豆の分量を間違えてしまったときの偶然あるいは奇跡の産物らしい。
そんなふざけたメニューながらも一部には熱烈な支持者がいて、何故かというとお代が極端に安いのである。一杯八〇円。八〇円で喫茶店の一席を好きなだけ使えるのだから、お金がない学生や何かの事情でカンヴァスに通い詰めざるを得ないお客様に人気があるようだ。
そのため、これを注文するお客様がいたら訳ありだと思えという教訓や、店長はこの店を困っている人達の受け皿とするためにわざと不味い、いや美味しくはないコーヒーを淹れ続けていて、本当のところは喫茶店の店長たるにふさわしい匠の腕を隠し持っているのだという噂があるとかないとか。
……それはさておき、都築君とジュン君の会話は続く。
「オバケ云々のあたりも聞こえてました? 信じてもらえないと思いますけど、誓ってナンパじゃないんですよ」
「聞こえてました聞こえてました。触れるんですって? 凄いっすね。どういう現象なんですか」
都築君のあまりにも軽い反応に驚いたのか、ジュン君が元々丸い目をさらに丸くした。
こうして見ると、彼は黒目が大きくてなかなか可愛らしい、もとい親しみやすい顔立ちをしている。
服装も、際立ってお洒落なものではないけれど、しっかりと手入れされていそうなシャツを体型に合わせたサイズ感で着ていて……決して際立ったハンサムでも長身でもないけれど、老若男女問わず親しみと好印象を持たれる男の子という感じ。
「店員さん、信じてくれるんですか」
「ええ。俺の周りにそういう人はいないんですけど、この店、色んなお客さんがいらっしゃるんで。そのうちオバケ絡みの人が来ても不思議じゃないなと思ってました」
都築君はあっさりとそんな台詞を吐いたが、妙な噂が立ってしまってはこの店の一大事だ。
はらはらしながら二人の様子を見守っていたところ、ジュン君が笑いを堪えながら「オバケ絡みって」と小声で言った。その反応がどちらかと言えば好意的に見えたので、わたしは少し安堵する。
「みんながみんな、店員さんみたいにあっさり受け入れてくれるなら助かるんですけどね。でも普通はなかなか信じてもらえないし、信じてもらえたとなると今度は気味悪がられちゃうことが多くて。まあ、信じてもらえなくたって気味悪がられるのには変わりないんですが……僕はもう、中学生くらいで色々諦めちゃって、それからは長い付き合いの友人以外には隠しながら生活しています」
ジュン君はそこで、口の中が渇いたのか(だいたいうすあじ)をごくごくと飲んだ。まだそこまで冷めてはいない頃だと思うので、彼は猫舌ではないのだろう。
躊躇なく飲み干せてしまうのは、(だいたいうすあじ)の数少ない美点のひとつだ。
「片江さんでしたっけ。あの子も同じように苦労しているなら、相談に乗ってあげるくらいは僕にもできるかなと思って。お節介かもしれないけど」
「へえ。いい人っすね、ジュンさん。友達多いでしょ?」
「そんなこともないですけど……というか、名前も聞こえていたんですね」
ジュン君は椅子の後ろに掛けたリュックからペンケースらしきものを取り出し、手元にあった紙ナプキンに何やら文字を書くと、都築君にそれを見せた。わたしも遠くから覗いてみる。
「こんな漢字で、御厨淳といいます。改めてよろしく」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。俺、アルバイトの都築誠介です。こう見えて高二なんで、タメでいいっすよ。ジュンさんは大学生ですか?」
「高校生なの? なかなかしっかりしてるというか、堂々としてるね。うん、僕は今大学二回生」
都築君は持ち前のフットワークの軽さで、すいすいとジュン君との距離を詰めていく。それに対応できるジュン君もなかなかのものだ。
少し人見知りの気があるわたしは、その様子を羨ましい気持ちで見つめていた。
すると都築君の顔が突然こちらを向いて、反射的に肩をびくりと震わせる。
「あっちにいる杜羽子さんも、大学生っすよ。おんなじ大学だったりして」
都築君は少し声のボリュームを上げて、わたしのことをジュン君に紹介した。
それがどうにも巻き込む気満々ですという風に聞こえて、わたしは苦笑しながらジュン君に会釈をする。
「こんな字。珍しいでしょ?」
都築君はいつのまにか拝借していたジュン君のボールペンを使って、わたしの名前をカンヴァスの紙ナプキンに書いていた。文字までは見えなかったが、おそらく間違いない。
ジュン君は「本当だね」とだけ言ってこちらを見、申し訳なさそうに眉をハの字に下げる。
「勝手に噂しちゃって、すみません」
その様子に、わたしのほうも申し訳なくなってしまう。
「いえいえそんな、お気になさらず。あ、杜羽子さんの方もタメでいいっすよ」
ついでに、距離があるから仕方ないとはいえ、わたしが何か言う前に勝手な返答をしてくれた都築君にも、もう少し申し訳なさそうにしてほしいと密かに思った。
そろそろ持ち場に戻りなさいという思いも込め、じと目で彼の横顔を見つめていると、涼やかなドアチャイムの音が耳に入る。
お客様のご来店だ。都築君を呼び寄せる口実にできそうだったが、その考えに至る前にわたしは店の入り口向けて足を踏み出してしまっていた。しまった、これでは自分で案内せざるを得ない。
さて、わたしの視線の先に現れたのは、見覚えのある女の子だった。今日は制服ではなく、グレーのパーカーにひざ丈のチェックスカートという格好だったけれど。
一瞬だけ彼女から視線を外すと、都築君とジュン君が揃って顔を見合わせているのが見えた。
二人ともばっちり、このお客様の姿を視界にとらえていたらしい。
ああ、今この子を遠くの席へ案内したら、きっと内心で非難を浴びるのだろうなあ。いや都築君なら、直接文句を言うかジュン君に席を移動させるくらいのことはしそう。
だからわたしは大人しくその女の子、片江さんをジュン君の隣の席へと案内したのだった。
時折カップをぐらつかせつつ、作業に没頭するジュン君の様子を人知れず見守っていたわたしは、少し拍子抜けした気持ちで家路についたのだった。
さらにその翌日もジュン君はいつも通りに現れ、いつも通りにキーボードを叩き始めた。
時刻は夕方の四時を過ぎた頃。その少し前に来ていた学校帰りの都築君は、着替えを終えるなりジュン君の姿を見つけ、当然のような顔をしてわたしの仕事を取り上げる。
そしてわたしの代わりに、カンヴァスの名物メニュー「店長の特製コーヒー(だいたいうすあじ)」をジュン君のテーブルまで運んでいくと、大胆にも彼に話しかけてしまった。
「昨日は来ませんでしたねえ、あの女の子」
「え? もしかして店員さん、一昨日の話を聞いていたんですか。恥ずかしいなあ」
ジュン君は照れ隠しのように笑って、コーヒーカップに口をつけると、「本当に薄いんですね、これ」と呟いた。
それはそうだろう。ものぐさな上コーヒーにこだわりのないカンヴァスの雇われ店長が一瞬で淹れた「店長の特製コーヒー(だいたいうすあじ)」は、コーヒーというよりもむしろコーヒーの香りがついた色水だ。
時折ちょうどいい濃さをしていることもあるがゆえの(だいたいうすあじ)なのだが、それは店長が淹れていることを途中で忘れてしまったときか、豆の分量を間違えてしまったときの偶然あるいは奇跡の産物らしい。
そんなふざけたメニューながらも一部には熱烈な支持者がいて、何故かというとお代が極端に安いのである。一杯八〇円。八〇円で喫茶店の一席を好きなだけ使えるのだから、お金がない学生や何かの事情でカンヴァスに通い詰めざるを得ないお客様に人気があるようだ。
そのため、これを注文するお客様がいたら訳ありだと思えという教訓や、店長はこの店を困っている人達の受け皿とするためにわざと不味い、いや美味しくはないコーヒーを淹れ続けていて、本当のところは喫茶店の店長たるにふさわしい匠の腕を隠し持っているのだという噂があるとかないとか。
……それはさておき、都築君とジュン君の会話は続く。
「オバケ云々のあたりも聞こえてました? 信じてもらえないと思いますけど、誓ってナンパじゃないんですよ」
「聞こえてました聞こえてました。触れるんですって? 凄いっすね。どういう現象なんですか」
都築君のあまりにも軽い反応に驚いたのか、ジュン君が元々丸い目をさらに丸くした。
こうして見ると、彼は黒目が大きくてなかなか可愛らしい、もとい親しみやすい顔立ちをしている。
服装も、際立ってお洒落なものではないけれど、しっかりと手入れされていそうなシャツを体型に合わせたサイズ感で着ていて……決して際立ったハンサムでも長身でもないけれど、老若男女問わず親しみと好印象を持たれる男の子という感じ。
「店員さん、信じてくれるんですか」
「ええ。俺の周りにそういう人はいないんですけど、この店、色んなお客さんがいらっしゃるんで。そのうちオバケ絡みの人が来ても不思議じゃないなと思ってました」
都築君はあっさりとそんな台詞を吐いたが、妙な噂が立ってしまってはこの店の一大事だ。
はらはらしながら二人の様子を見守っていたところ、ジュン君が笑いを堪えながら「オバケ絡みって」と小声で言った。その反応がどちらかと言えば好意的に見えたので、わたしは少し安堵する。
「みんながみんな、店員さんみたいにあっさり受け入れてくれるなら助かるんですけどね。でも普通はなかなか信じてもらえないし、信じてもらえたとなると今度は気味悪がられちゃうことが多くて。まあ、信じてもらえなくたって気味悪がられるのには変わりないんですが……僕はもう、中学生くらいで色々諦めちゃって、それからは長い付き合いの友人以外には隠しながら生活しています」
ジュン君はそこで、口の中が渇いたのか(だいたいうすあじ)をごくごくと飲んだ。まだそこまで冷めてはいない頃だと思うので、彼は猫舌ではないのだろう。
躊躇なく飲み干せてしまうのは、(だいたいうすあじ)の数少ない美点のひとつだ。
「片江さんでしたっけ。あの子も同じように苦労しているなら、相談に乗ってあげるくらいは僕にもできるかなと思って。お節介かもしれないけど」
「へえ。いい人っすね、ジュンさん。友達多いでしょ?」
「そんなこともないですけど……というか、名前も聞こえていたんですね」
ジュン君は椅子の後ろに掛けたリュックからペンケースらしきものを取り出し、手元にあった紙ナプキンに何やら文字を書くと、都築君にそれを見せた。わたしも遠くから覗いてみる。
「こんな漢字で、御厨淳といいます。改めてよろしく」
「こちらこそ、いつもありがとうございます。俺、アルバイトの都築誠介です。こう見えて高二なんで、タメでいいっすよ。ジュンさんは大学生ですか?」
「高校生なの? なかなかしっかりしてるというか、堂々としてるね。うん、僕は今大学二回生」
都築君は持ち前のフットワークの軽さで、すいすいとジュン君との距離を詰めていく。それに対応できるジュン君もなかなかのものだ。
少し人見知りの気があるわたしは、その様子を羨ましい気持ちで見つめていた。
すると都築君の顔が突然こちらを向いて、反射的に肩をびくりと震わせる。
「あっちにいる杜羽子さんも、大学生っすよ。おんなじ大学だったりして」
都築君は少し声のボリュームを上げて、わたしのことをジュン君に紹介した。
それがどうにも巻き込む気満々ですという風に聞こえて、わたしは苦笑しながらジュン君に会釈をする。
「こんな字。珍しいでしょ?」
都築君はいつのまにか拝借していたジュン君のボールペンを使って、わたしの名前をカンヴァスの紙ナプキンに書いていた。文字までは見えなかったが、おそらく間違いない。
ジュン君は「本当だね」とだけ言ってこちらを見、申し訳なさそうに眉をハの字に下げる。
「勝手に噂しちゃって、すみません」
その様子に、わたしのほうも申し訳なくなってしまう。
「いえいえそんな、お気になさらず。あ、杜羽子さんの方もタメでいいっすよ」
ついでに、距離があるから仕方ないとはいえ、わたしが何か言う前に勝手な返答をしてくれた都築君にも、もう少し申し訳なさそうにしてほしいと密かに思った。
そろそろ持ち場に戻りなさいという思いも込め、じと目で彼の横顔を見つめていると、涼やかなドアチャイムの音が耳に入る。
お客様のご来店だ。都築君を呼び寄せる口実にできそうだったが、その考えに至る前にわたしは店の入り口向けて足を踏み出してしまっていた。しまった、これでは自分で案内せざるを得ない。
さて、わたしの視線の先に現れたのは、見覚えのある女の子だった。今日は制服ではなく、グレーのパーカーにひざ丈のチェックスカートという格好だったけれど。
一瞬だけ彼女から視線を外すと、都築君とジュン君が揃って顔を見合わせているのが見えた。
二人ともばっちり、このお客様の姿を視界にとらえていたらしい。
ああ、今この子を遠くの席へ案内したら、きっと内心で非難を浴びるのだろうなあ。いや都築君なら、直接文句を言うかジュン君に席を移動させるくらいのことはしそう。
だからわたしは大人しくその女の子、片江さんをジュン君の隣の席へと案内したのだった。