三、ジュン君のため息・2
文字数 3,676文字
都築君、今、何て?
思わず聞き返したくなったが、当事者でも何でもないわたしが余計なことを言うべき場面ではないと思って、口をつぐむ。
途端、静寂が訪れた。都築君は自分から話を振ったくせに黙り込んでしまい、早奈美ちゃんは目をいつもより少し大きく開いて二、三度瞬かせ、ジュン君はぼんやりと壁の抽象画あたりを眺めている。
「え?」
そんな一瞬の膠着状態は、早奈美ちゃんの喉から出たわずか一文字分の音に破られた。
「え、え? どうして。三日前はあんなに、仲良さそうにしてたのに」
「僕もそう思っていたんだけど……まあ、彼女には色々、思うところがあったみたいで」
ジュン君は早奈美ちゃんの疑問を、曖昧な説明で受け流そうとする。笑っているように見えたけれど、無理をしているのが一目で分かった。
でも、本当にどうして? 確かに三日前まで、二人はうまくいっているように見えたのに。
みきさんと食事をしたわたしだって、そう思う。あの人がジュン君の話をするときには、言葉と表情のひとつひとつから、愛情と親しみを感じ取れるような気がしたから。
少なくとも、すぐに別れたいと思っているようには全然、見えなかったのだ。
「あの後、何があったんですか? 失礼は承知ですけど、聞きたいです」
切り込んでいった都築君に、少しぎょっとする。けれど止めようとは思わなかった。
だって、わたしも聞きたい。都築君に汚れ役を押し付け、わたしは卑怯にもただ耳を傾ける。
ジュン君は一瞬迷う様子を見せてから、ゆっくりと口を開いた。
「特に、何かあったというわけでもなくて……あの日はお互い、ここを出てすぐに次の用事に向かったんだけど」
みきさんの次の用事というのは、わたしとの食事だろうか。自分の鼓動が大きくなりつつあるのを感じる。
「その日の夜中に突然、みきからメールが届いたんだ。別れてほしいって……理由は色々書かれていたけど、どれも抽象的な感じ。まとめると価値観の相違ってことになるのかな? とにかく、何かがきっかけになったわけではなくて、以前から僕とは気が合わない、別れたほうがいいと思っていたってことが、表現を変えて何度か書かれていた」
ジュン君は、これで話はひと段落したと言わんばかりに、手元の水を一口飲んだ。
その様子を見た都築君が、不満げに口を尖らせる。
「何それ、全然伝わってこないっすよ」
「ごめん。僕自身まだ状況が飲み込めていなくて……納得いかないから、電話を掛けたり会いたいってメールを送ったりもしたんだけど、全然反応がなくってさ」
都築君は申し訳なさそうにしているジュン君に対しても遠慮しないで、呆れたようにはあと息を吐いた。
「一方的な別れのメールを受け取って以来、連絡がつかないってわけですか。要はジュンさんですら、何があったかよく分かってないんですね」
「そう、混乱してる。別れを告げられるような兆候なんてなかった気がするし……正直、まだ納得できてない」
「まあ、振られる側なんてだいたいそんなもんな気もしますけど」
知った風なことを言う都築君だったが、記憶を辿る限り彼に恋人がいる、またはいたなどという話を聞いたことはない。別に構わないけれど。
「もういっそ、家まで会いに行っちゃうとか。いや、ますます嫌われちゃいますかね」
「それが、家には行ったことがないんだよね。お互い、家族と一緒に住んでいるし」
「そんなあ。じゃあ、共通の友人に仲介を……」
「いないんだ。大学も違うし、他のコミュニティに一緒に属したりもしていないし」
「ええ? それで一体どうやって知り合ったんですか」
「えっと、僕の一目惚れで……近所の本屋で何度か見かけて、思い切って話しかけてみた、というか」
ジュン君は笑っているとも悲しんでいるとも取れる、一言では言い表しにくい表情を浮かべながら話している。
そりゃあ、振られたばかりの彼女との馴れ初めを話す羽目になればそんな顔にもなるだろう。
にしても彼、全然奥手ではなかったようだ。
「ほー……いや、なんか、すみません。とにかくジュンさんは納得できていないわけですね?」
「そうだね、できればきちんと話がしたい。みきがどうしても嫌なら仕方がないとは思うけど」
「でも、おかしいですよねえ。明確な理由もなしに、突然なんて」
都築君は首をひねった。
わたしは、三日前のみきさんの言葉や仕草を、できるだけ多く思い出そうと頭を回転させる。
そしてやっぱり、わたしもおかしいと思う。でもタイミングがタイミングだ、もし考えられるとすれば……
「私の、せい?」
ずっと黙っていた早奈美ちゃんが久しぶりに発した声は、少し震えていた。
「え?」
早奈美ちゃんの一言に、ジュン君は目を丸くし、一拍置いてから慌てて否定する。
「違うよ、片江さんは関係ない。確かにタイミングは重なったけれど、たまたまだ。みき……彼女はそんなことでやきもちを焼くような子じゃない、と思う」
「でも……」
早奈美ちゃんは口ごもる。
一方わたしは、本当にそうなのかも、と少しだけ思っていたけれど、口に出せずにいた。
……三日前のみきさんの様子を思い出す。
やきもち、というのはたぶん違う。どちらかといえば、自分よりも早奈美ちゃんこそがジュン君にお似合いだと考えた……そういう理由の方が、ありそうな気がする。
だとしても唐突すぎるし、それこそ話し合いもしないなんておかしいと思うけれど。
「わたしも、早奈美ちゃんが気にする必要なんてないと思うよ」
みきさんと会ったこと自体、ここで伝えるべきかどうかわからなくて、そんな気休めにもならないことを言ってみる。
実際、早奈美ちゃんとのことがジュン君とみきさんの破局の理由のひとつではあったとしても、早奈美ちゃんが悪いことをしたわけではないのは確かなのだ。
ジュン君がこちらを見て小さく頭を下げる。わたしはそれを、ありがとう、の意だと解釈した。
「とにかく、これは僕の……僕とみきの問題だから、心配しないで。色々とごめんね。僕はひとまず、もう少し返信を待ってみるよ」
「うん。連絡、つくといいね」
早奈美ちゃんは笑顔を取り繕って、ジュン君を励ます。一体どんな気持ちなんだろうか。
「でもやっぱり私達、しばらくは会わないほうがいいのかな?」
そして恐る恐るといった口調で尋ねる。その姿が心なしか寂しそうで、胸が詰まった。
「……そう、だね。片江さんと会うこと自体がどうこうというより、僕の気持ちに余裕がないから、楽しく話したり相談に乗ってあげたりはできないかも」
「そ、そっか。じゃあまた、落ち着いたらお茶しようよ。たまには私がジュン君の悩みを聞くよ。私、助けてもらってばかりだから」
早奈美ちゃんは努めて明るく振る舞っているように見える。いつもより高い彼女の声が時々震えるのを、わたしはいたたまれない気持ちで聞いていた。
「そんなことはないけど……ありがとう」
ジュン君はそれに気づいているのかいないのか、噛み締めるようにお礼の言葉を紡いだ。最後に少しだけ付け加えて。
「だけど、もし危険な目に……いや、何かあったらすぐに連絡してね」
そう言いながら早奈美ちゃんに向けたまなざしは、ほんの少し前までのしょぼくれたジュン君の姿とは別人みたいな、力強さと優しさに満ちていた。
「……うん」
早奈美ちゃんはジュン君から視線を外して、少し悲しそうに頷く。
その後、ぎこちない様子の二人がいつも通りに帰っていくのを、わたしと都築君は揃って見送った。
いつも通りの道で二人の後ろ姿が見えなくなった途端、都築君が口を開く。
「杜羽子さん、お願いがあるんですが」
「どうしたの、改まって」
都築は真剣な表情で、まっすぐにわたしの目を見据えている。
「みきさんの連絡先、知ってますよね?」
わたしはすぐさま頼み事の内容を察して、うん、と短く答える。
「連絡してみてもらえませんか? 会えませんかって。ジュンさんじゃ駄目でも、杜羽子さんになら会ってくれるかもしれません」
「分かった。すぐにメールするね」
「お願いします」
片付けを都築君に任せ、わたしは急いでみきさんへのメールを打った。
果たして返信は来るだろうか。気になる男の子に初めてメールを送るときのような気持ちで、送信のアイコンをタップする。
「送ったよ」
「ありがとうございます!」
その返信は、拍子抜けするほどあっさり届いた。片付けを終えて都築君と一緒にオーナーの部屋まで鍵を届けに行き、少し話して、さあ帰ろうとした頃に。
ひとりで読むのは怖くて、都築君と同時に携帯の画面を覗き込む。
そこには、わたしとの待ち合わせを了承する文面があった。明日の夜に会いましょう、だけど淳は絶対に連れてこないで、と。
読み終えた都築君は、小さくガッツポーズを決める。
「よし、俺も行きます。ジュンさんじゃなければついて行ってもいいんですよね?」
そういう意味ではないんじゃないかとは思ったが、彼がいてくれれば心強いのは間違いない。
わたしは少し悩んで、結局都築君と一緒にみきさんの元へ向かうことにした。
思わず聞き返したくなったが、当事者でも何でもないわたしが余計なことを言うべき場面ではないと思って、口をつぐむ。
途端、静寂が訪れた。都築君は自分から話を振ったくせに黙り込んでしまい、早奈美ちゃんは目をいつもより少し大きく開いて二、三度瞬かせ、ジュン君はぼんやりと壁の抽象画あたりを眺めている。
「え?」
そんな一瞬の膠着状態は、早奈美ちゃんの喉から出たわずか一文字分の音に破られた。
「え、え? どうして。三日前はあんなに、仲良さそうにしてたのに」
「僕もそう思っていたんだけど……まあ、彼女には色々、思うところがあったみたいで」
ジュン君は早奈美ちゃんの疑問を、曖昧な説明で受け流そうとする。笑っているように見えたけれど、無理をしているのが一目で分かった。
でも、本当にどうして? 確かに三日前まで、二人はうまくいっているように見えたのに。
みきさんと食事をしたわたしだって、そう思う。あの人がジュン君の話をするときには、言葉と表情のひとつひとつから、愛情と親しみを感じ取れるような気がしたから。
少なくとも、すぐに別れたいと思っているようには全然、見えなかったのだ。
「あの後、何があったんですか? 失礼は承知ですけど、聞きたいです」
切り込んでいった都築君に、少しぎょっとする。けれど止めようとは思わなかった。
だって、わたしも聞きたい。都築君に汚れ役を押し付け、わたしは卑怯にもただ耳を傾ける。
ジュン君は一瞬迷う様子を見せてから、ゆっくりと口を開いた。
「特に、何かあったというわけでもなくて……あの日はお互い、ここを出てすぐに次の用事に向かったんだけど」
みきさんの次の用事というのは、わたしとの食事だろうか。自分の鼓動が大きくなりつつあるのを感じる。
「その日の夜中に突然、みきからメールが届いたんだ。別れてほしいって……理由は色々書かれていたけど、どれも抽象的な感じ。まとめると価値観の相違ってことになるのかな? とにかく、何かがきっかけになったわけではなくて、以前から僕とは気が合わない、別れたほうがいいと思っていたってことが、表現を変えて何度か書かれていた」
ジュン君は、これで話はひと段落したと言わんばかりに、手元の水を一口飲んだ。
その様子を見た都築君が、不満げに口を尖らせる。
「何それ、全然伝わってこないっすよ」
「ごめん。僕自身まだ状況が飲み込めていなくて……納得いかないから、電話を掛けたり会いたいってメールを送ったりもしたんだけど、全然反応がなくってさ」
都築君は申し訳なさそうにしているジュン君に対しても遠慮しないで、呆れたようにはあと息を吐いた。
「一方的な別れのメールを受け取って以来、連絡がつかないってわけですか。要はジュンさんですら、何があったかよく分かってないんですね」
「そう、混乱してる。別れを告げられるような兆候なんてなかった気がするし……正直、まだ納得できてない」
「まあ、振られる側なんてだいたいそんなもんな気もしますけど」
知った風なことを言う都築君だったが、記憶を辿る限り彼に恋人がいる、またはいたなどという話を聞いたことはない。別に構わないけれど。
「もういっそ、家まで会いに行っちゃうとか。いや、ますます嫌われちゃいますかね」
「それが、家には行ったことがないんだよね。お互い、家族と一緒に住んでいるし」
「そんなあ。じゃあ、共通の友人に仲介を……」
「いないんだ。大学も違うし、他のコミュニティに一緒に属したりもしていないし」
「ええ? それで一体どうやって知り合ったんですか」
「えっと、僕の一目惚れで……近所の本屋で何度か見かけて、思い切って話しかけてみた、というか」
ジュン君は笑っているとも悲しんでいるとも取れる、一言では言い表しにくい表情を浮かべながら話している。
そりゃあ、振られたばかりの彼女との馴れ初めを話す羽目になればそんな顔にもなるだろう。
にしても彼、全然奥手ではなかったようだ。
「ほー……いや、なんか、すみません。とにかくジュンさんは納得できていないわけですね?」
「そうだね、できればきちんと話がしたい。みきがどうしても嫌なら仕方がないとは思うけど」
「でも、おかしいですよねえ。明確な理由もなしに、突然なんて」
都築君は首をひねった。
わたしは、三日前のみきさんの言葉や仕草を、できるだけ多く思い出そうと頭を回転させる。
そしてやっぱり、わたしもおかしいと思う。でもタイミングがタイミングだ、もし考えられるとすれば……
「私の、せい?」
ずっと黙っていた早奈美ちゃんが久しぶりに発した声は、少し震えていた。
「え?」
早奈美ちゃんの一言に、ジュン君は目を丸くし、一拍置いてから慌てて否定する。
「違うよ、片江さんは関係ない。確かにタイミングは重なったけれど、たまたまだ。みき……彼女はそんなことでやきもちを焼くような子じゃない、と思う」
「でも……」
早奈美ちゃんは口ごもる。
一方わたしは、本当にそうなのかも、と少しだけ思っていたけれど、口に出せずにいた。
……三日前のみきさんの様子を思い出す。
やきもち、というのはたぶん違う。どちらかといえば、自分よりも早奈美ちゃんこそがジュン君にお似合いだと考えた……そういう理由の方が、ありそうな気がする。
だとしても唐突すぎるし、それこそ話し合いもしないなんておかしいと思うけれど。
「わたしも、早奈美ちゃんが気にする必要なんてないと思うよ」
みきさんと会ったこと自体、ここで伝えるべきかどうかわからなくて、そんな気休めにもならないことを言ってみる。
実際、早奈美ちゃんとのことがジュン君とみきさんの破局の理由のひとつではあったとしても、早奈美ちゃんが悪いことをしたわけではないのは確かなのだ。
ジュン君がこちらを見て小さく頭を下げる。わたしはそれを、ありがとう、の意だと解釈した。
「とにかく、これは僕の……僕とみきの問題だから、心配しないで。色々とごめんね。僕はひとまず、もう少し返信を待ってみるよ」
「うん。連絡、つくといいね」
早奈美ちゃんは笑顔を取り繕って、ジュン君を励ます。一体どんな気持ちなんだろうか。
「でもやっぱり私達、しばらくは会わないほうがいいのかな?」
そして恐る恐るといった口調で尋ねる。その姿が心なしか寂しそうで、胸が詰まった。
「……そう、だね。片江さんと会うこと自体がどうこうというより、僕の気持ちに余裕がないから、楽しく話したり相談に乗ってあげたりはできないかも」
「そ、そっか。じゃあまた、落ち着いたらお茶しようよ。たまには私がジュン君の悩みを聞くよ。私、助けてもらってばかりだから」
早奈美ちゃんは努めて明るく振る舞っているように見える。いつもより高い彼女の声が時々震えるのを、わたしはいたたまれない気持ちで聞いていた。
「そんなことはないけど……ありがとう」
ジュン君はそれに気づいているのかいないのか、噛み締めるようにお礼の言葉を紡いだ。最後に少しだけ付け加えて。
「だけど、もし危険な目に……いや、何かあったらすぐに連絡してね」
そう言いながら早奈美ちゃんに向けたまなざしは、ほんの少し前までのしょぼくれたジュン君の姿とは別人みたいな、力強さと優しさに満ちていた。
「……うん」
早奈美ちゃんはジュン君から視線を外して、少し悲しそうに頷く。
その後、ぎこちない様子の二人がいつも通りに帰っていくのを、わたしと都築君は揃って見送った。
いつも通りの道で二人の後ろ姿が見えなくなった途端、都築君が口を開く。
「杜羽子さん、お願いがあるんですが」
「どうしたの、改まって」
都築は真剣な表情で、まっすぐにわたしの目を見据えている。
「みきさんの連絡先、知ってますよね?」
わたしはすぐさま頼み事の内容を察して、うん、と短く答える。
「連絡してみてもらえませんか? 会えませんかって。ジュンさんじゃ駄目でも、杜羽子さんになら会ってくれるかもしれません」
「分かった。すぐにメールするね」
「お願いします」
片付けを都築君に任せ、わたしは急いでみきさんへのメールを打った。
果たして返信は来るだろうか。気になる男の子に初めてメールを送るときのような気持ちで、送信のアイコンをタップする。
「送ったよ」
「ありがとうございます!」
その返信は、拍子抜けするほどあっさり届いた。片付けを終えて都築君と一緒にオーナーの部屋まで鍵を届けに行き、少し話して、さあ帰ろうとした頃に。
ひとりで読むのは怖くて、都築君と同時に携帯の画面を覗き込む。
そこには、わたしとの待ち合わせを了承する文面があった。明日の夜に会いましょう、だけど淳は絶対に連れてこないで、と。
読み終えた都築君は、小さくガッツポーズを決める。
「よし、俺も行きます。ジュンさんじゃなければついて行ってもいいんですよね?」
そういう意味ではないんじゃないかとは思ったが、彼がいてくれれば心強いのは間違いない。
わたしは少し悩んで、結局都築君と一緒にみきさんの元へ向かうことにした。