一、少女と青年・2

文字数 3,008文字

 わたしが誘導した席に腰掛けようとした片江さんは、一旦椅子の背もたれに掛けた手をそっと離した。
 それからジュン君のいるテーブルを指して、おずおずと言う。
「あの、こっちの席でも大丈夫ですか?」
「勿論です!」
 ……彼女の顔はどう見てもこちらを向いていたけれど、わたしが口を開く前に都築君が元気よく返事をして、ジュン君の向かいの席の椅子をすっと引いてしまった。声に反して丁寧な動作で、ほとんど音も立てずに。
 片江さんは一瞬躊躇して、ジュン君の顔をちらりと見、控えめに頭を下げてから椅子に座る。

「ご注文が決まりましたら、お声掛けください」
 都築君は手早く冷水をグラスに注いで差し出すと、まるで自分が案内してきたかのような態度でそう告げて、颯爽とテーブルを離れた。妙に楽しそうな営業スマイルが少し鼻につく。

「ちょっと」
「来ましたねえ、さなみん」
「さなみん?」
「彼女、お友達に早奈美って呼ばれてませんでした?」
「はあ。呼ばれていたような気もするけど」
 わたしの拗ね気味な声を、都築君はさらりと聞き流す。
 ……にしても、さなみんって。

「えっと、片江さんだよね? 一昨日ぶり。急に話しかけて、怪しい奴だと思われたんじゃないかと心配してたけど、本当に来てくれて嬉しいよ」
「正直、ちょっと思ってますよ。でも私の方こそ変な奴だと思われたんじゃないか、それでからかわれたんじゃないかとも思って、むしろそっちの方が心配でした」
 そうこうしているうちに、ジュン君と片江さんが会話を始めていた。どちらも少し、いや結構ぎこちない。

「御厨さん、でしたっけ。オバケに触れるって、本当なんですか?」
「そう。一昨日も言ったように、見えるし、触れる。小さい頃からずっとね。どうしてなのかはよく分からないんだけど」
「じゃあ、今私の後ろにいるのを追い払えたりとか、できたりします?」

 片江さんの発言に、わたしと都築君は顔を見合わせる。わたしがうそ、と呟くのと、都築君がほう、という声とも息ともつかない音を漏らすのがほとんど同時だった。
 そしてこれまた同時に、二人してジュン君と片江さんのほうへ向き直る。

 見れば、ジュン君は不思議そうに片江さんの肩のあたりを見つめていて、片江さんは緊張の面持ちでその姿を凝視していた。

「……君の後ろには、誰もいないと思うけど」
 しばらくして、ジュン君が口を開く。その言葉に、片江さんの表情がほころんだ。
「よかった。本当っぽい」
 彼女は急に子どもっぽい笑顔を浮かべ、「喫茶カンヴァス」の名前が箔押しされたメニューを手に取る。
「試したの?」
 それにつられてか、ジュン君も笑う。たしなめるような響きはなく、ただ可笑しそうに。

「なんだ、ちょっと期待しちゃいましたよ。いないんだ」
 と、隣から都築君の残念そうな声が聞こえた。……彼はどうも、オバケにいてほしかったらしい。
 わたしの方は、いないと知って心の底からほっとしたのだけれど。

 安堵しがてら店内をぼんやりと眺めてみて、あることに気付く。
「あれ、都築君。あちらのお客様、いつ案内したっけ?」
 店の奥の方、お手洗いのすぐ近くの席に、案内した覚えのないお客様が座っている。三〇代半ばくらいで中肉中背の、分厚いトレーナーを着た男性だ。

「本当だ。少なくとも俺は案内していませんよ。俺がジュンさんと話している間にいらっしゃったんですかね」
 わたしの視線の先を見た都築君は、声をひそめつつ言った。
 ということは、あのお客様は誰にも案内されずにすっと入ってきてしまったというわけだ。

「杜羽子さんも案内してないんですよね? しまったなあ。いつからいたんだろ。とりあえず、急いで水とおしぼりを持っていきますね」
 都築君の背中に、ありがと、とお礼を言って、わたしは視線をジュン君と片江さんの席に戻す。

「触れる、というか触れてしまうっていうのも結構大変なんだけど、見えるだけっていうのもそれはそれでつらいよね。対抗手段が何もなくて」
「うん。今のところ何もされたことはないんですけど、いつか危ないことになるかもしれないと思うと……たまに、私が見えているのに気づいて、やたらと近づいてきたり、睨みつけたりしてくるのもいて」
「嫌だね、それは。女の子だと余計、標的になりやすそうだし……わざと近づいたりされて嫌な気持ちになったら、肩をぽんと叩いてみるだけでも、驚いて逃げちゃうやつが多いんだけどね」
「そういうものなんですか? でもそりゃあ、生きてる人間から触られたらびっくりしますよね。向こうは慣れてないだろうし」
「そうだねえ。檻の中の動物に噛まれるようなものなんだろうね」
「そんな言い方。いいなあ、噛みつけて。私なんて見たくもないのに檻の外を見せられて、逆にじろじろ見られて、それで終わりって感じですよ」
「逆に、こっちから触れるということは向こうからも触れるということだから、少し怖いこともあるけどね」
「ああ、それは困りますね。何も考えずに歩いていたら、道でぶつかったりとかもします?」
「たまにあるよ、そういうこと。オバケってなかなか自分からは避けてくれないから……しかも、僕が気をつけるだけで済むならまだいいんだけど、もっと困ることがあって」
「もっと困ること?」
「僕と一緒にいると、普段オバケが見えない人でも見たり触ったりできてしまうことがあるんだよね。もしかしたら逆で、僕がいると……オバケの方が、見えたり触れたりするようになってしまうのかも」

 なんて現実感のない会話なんだろう、と思いながらしばらく二人の話を立ち聞きしていたわたしは、そこで思わず気の抜けた声を上げる。
 ドラマの世界の出来事をぼんやりと眺めていたつもりが、突然あなたもこの世界の住人なのですよと告げられたような気分だ。しかもそこで二人は、急に声をひそめて話し始めてしまった。
 いつの間にかわたしの隣へ戻っていた都築君が、少年らしく目を輝かせている。

「すみません」
 するとタイミングよく、ジュン君がこちらを向いて声を発した。目が合った気がして、わたしは都築君を置いて早歩きで彼の元へと向かう。
 そういえば、片江さんの注文をまだ聞いていなかった。恐らく用件はそれだろう。それだよね?

「ご注文、お伺いします」
 わたしはずっと二人の会話に聞き耳を立てていたことへの後ろめたさを感じつつ、他のお客さんに接するのと同じように問いかける。
「オレンジジュースをひとつ」
 ジュン君が片江さんに代わって注文を告げ、「あの、杜羽子さん。ちょっといいかな」と小声で言った。
 その様子にただならぬものを感じたわたしは、思わず姿勢を正す。
「さっき、都築君があっちのお客さんに水を運んでいたよね」
 ジュン君の確認に、わたしは黙って頷いた。わたし達が二人の様子を見ていたのと同じように、わたし達の様子も二人には見られていたわけだ。深淵を覗くときにはなんとやら。

 それはさておき、ジュン君は続ける。
「あの人、杜羽子さんにも見えてる?」
「……そりゃ、見えてますけど」
 口の端がひきつるのを感じながら、少し投げやりに返事をした。やめてください、お客様。その言い方じゃ、まるであのお客様が――

「あの人、オバケですよ」

 横から片江さんが、何故だか申し訳そうな声で、けれどはっきりと言い切る。
 自分の喉の奥が、ひっと変な音を立てたのが分かった。
 ……正直、ちょっと予想してはいたけれど。
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