五、早奈美ちゃんのお願い・8

文字数 3,430文字

 早奈美ちゃんは少しの間、黙り込んでしまった。
 何か声を掛けるべきか、でも亜紀ちゃんに聞こえてしまってはまずいし……と迷いながら、俯き加減な彼女の表情を見る。

「切るよ」
 そのうち、亜紀ちゃんの方が話を打ち切ろうとする。短く冷淡にも思える言葉だったけれど、どこか……申し訳なさそうにも、聞こえた。

「待って、亜紀ちゃん」
「待つって? 何か言いたいこと、あるの?」
「えっと」
 早奈美ちゃんは、またすぐに黙ってしまった。それが今にも泣き出しそうな様子に見えて、わたしは無意識のうちに鞄からハンカチを取り出す。けれどそれは必要なかった。

「……取らないでよって何?」

 早奈美ちゃんの小さな口から出た言葉に、わたしのみならず都築君までもがぽかんと口を開ける。
 銀色の刺繍に彩られた真っ赤なハンカチが、わたしの右手で小さく揺れた。

「亜紀ちゃんはどういう立場で、どんなつもりで私にああ言ったの?」
「え? あれは」
 亜紀ちゃんは口ごもった。彼女にとっても意外な一言だったのだろう。

「いや、ごめん。立場は聞かなくても良かったね。カンヴァスの店員さん達がみきさんから聞いたことは、私も全部教えてもらったから。七年前、火事の中で起きたことも」
「そんなことまで知ってたの? ……そう、そうだよ。あの日、ぼんやりお手洗いに行っていたあたしを探すために、両親はお姉ちゃんのそばを離れた。それでお姉ちゃんは……」

 亜紀ちゃんの声が震えるのが、決して音質が良いとはいえないスマートフォンのスピーカー越しにも分かった。

「あたしね、お姉ちゃんは自分のせいで死んだようなものだってずっと思ってたの。あたしがもっとしっかりしていれば、きっと両親のどっちかはお姉ちゃんと一緒に避難していた……あたしが泣き虫でわがままで、妹なのをいいことに甘えてばっかりいる子どもじゃなかったら」

 早奈美ちゃんは口を挟まず、ただスピーカーからの声に耳を傾けている。

「その罪悪感はずっと消えなくて、守られてばかりの自分が嫌で…一日でも早く、ひとりで生きていけるようになりたかった。だから両親を説得して、高校からひとり暮らしを始めたの。そこで早奈美と出会った」

 ……亜紀ちゃんはもしかしたら、泣いているのかもしれなかった。

「亜紀ちゃんが私に声を掛けてくれたのは、みきさんのことがあったから?」
「そう。お姉ちゃんがあたしの後ろにいる、なんて本気で思っていたわけじゃないけどね。ただ、オバケの存在を信じてみたかったの。お姉ちゃんもどこかで案外楽しくやっているのかもしれないと思うと、ちょっと気が楽になれたから」

 亜紀ちゃんの声に少しずつ、嗚咽が混じり始める。

「そうしたらしばらくして、お姉ちゃんがあたしの部屋に来てくれたの。あたし、夢を見ているんだと思った。泣きながらいっぱい謝ったら、お姉ちゃんは……何も怒ってない、自分が死んだのは亜紀のせいじゃないって言ってくれた」
「それから、みきさんと暮らしているの? 今も一緒に」
「うん。今はちょっと、外に出てもらってるけどね」

 わたしは息をのんで、都築君とこっそり目配せし合う。
 ――みきさんはやはり、妹の亜紀ちゃんと一緒に暮らしていたのだ。

「オバケの身には不自由なことが多いから、それからお姉ちゃんはたくさんあたしを頼ってくれるようになった。住む場所のことも連絡手段のことも、恋愛相談なんかも。あたし、それが凄く嬉しかったんだ。淳さんと出会って、生きていた頃よりもずっと奔放で幸せそうなお姉ちゃんを見るのもね」

 亜紀ちゃんの話は泣き声混じりで、聞き取りづらいところも多かった。
 けれど早奈美ちゃんはそれを聞き返すこともせず、噛み締めるように頷きながら聞いている。

「……亜紀ちゃんは、みきさんのことが大好きなんだね」
「そうだよ。だからあたし、お姉ちゃんの望みは何でも叶えてあげたいし、傷付くところは見たくないの。悪いけど、このままそっとしておいて」

 つまり、彼女はジュン君をみきさんに会わせたくはない――そういうことなのだろう。
 みきさんのことが大好き。きっと本当には違いないけれど、それ以上に彼女はまだ、姉の死に対する負い目を感じているように思えた。

「早奈美には酷いことしたね……わざと、淳さんとお姉ちゃんが一緒にいるところを見せつけたりなんかして。そのことは本当にごめん。お姉ちゃんのことを言い訳にしたって、許されないのは分かってる」

「ううん。私のことは、いいよ」
 小さくため息をついてから、早奈美ちゃんがひどく穏やかな声でそう言った。

「私のことはいいの。だって私、あんまり関係ないからさ」
「関係、ない? ……どういうこと?」

 早奈美ちゃんの突き放したような言い方に、亜紀ちゃんが怪訝そうに尋ねる。
 同時に、わたしの頭にも疑問符が浮かんだ。

「みきさんも亜紀ちゃんもさ、難しく考えすぎなんだよ。でも実際のところ、今ある問題はみきさんとジュン君……あの二人だけのもので、私は関係ない。亜紀ちゃん、みきさんと別れた後のジュン君の様子なんて見たことないでしょ?」
「そりゃ、ないけど」
「もし見てたら、一目で分かったと思うよ。ジュン君はね、初めから私のことなんか全然見てなかった。みきさんのことしか……悔しいぐらい。取らないでも何も、元々取れっこないんだよ」
「そんなの、早奈美の思い込みじゃん。ネガティブになってるだけ……」

 そこで突然都築君が手を伸ばし、早奈美ちゃんからスマートフォンを引ったくった。唖然とするわたしを尻目に、彼は妙に明るい声を響かせる。

「あ、どうもどうも。亜紀さんですか?」
「へ? 誰?」
「都築です」
「だから、誰なんですか?」
「『喫茶カンヴァス』の店員です。実は今、早奈美さんはうちの店から電話をされていまして……悪いなあと思いつつ立ち聞きしてたんですけど、何やらただならぬ雰囲気になってきたんで飛び込んだ次第です」
「え。それは……なんか、ごめんなさい」
「いえいえ、こちらこそすみません。で、ジュンさんの話なんですけどね」

 都築君は小さく咳払いをする。

「早奈美さんの言う通りだと思いますよ。あの人うちの常連なんで、俺は結構前から見知ってたんですが……みきさんに振られた翌日のジュンさんの落ち込みようは、俺の目から見てもなかなかのものでした。一目で何かあったって分かるくらい。よっぽどみきさんのことが好きだったんでしょうね」
「そうなんですか。だけど……あなた、関係ない人じゃないですか」
「そうですね。でもそれを言うならあなたも関係ないし、本人が認めるように早奈美さんだってそうです。……あの日のジュンさんは早奈美さんの話も上の空で全然聞いてなくて、ちょっと酷かったんですよ。元々そういう男ってわけじゃなくて優しい人なはずなのに。たぶんですけど」

 都築君が合図をするように視線を送って、その先の早奈美ちゃんが慌てた様子で姿勢を正した。

「本当にジュンさんは、みきさんのことしか見ていないんだと思いますよ。きっとね、オバケだと知ったところで、即座に彼女を拒否するような真似はしない……はいここで早奈美さんに代わりまーす」

 ぱっとスマートフォンを手渡された早奈美ちゃんは、慌てた様子で「亜紀ちゃん!」と叫んだ。

「早奈美、何今の」
「えっと。とにかく、亜紀ちゃんはみきさんのことが好きなんだよね。幸せでいてほしいんだよね」
「う、うん」
「私はね、ジュン君のことが好き。幸せでいてほしいと思ってる!」

 早奈美ちゃんの突然の告白に、わたしはつい都築君の方を見る。けれど彼と目が合うことはなかった。

「ジュン君が好きなのはみきさんで、彼はきっとまだ、みきさんともう一度会いたいと思ってる。だから私はただ、その望みを叶えてあげたい」
「そんなことしたらきっと、淳さんが傷つくよ。お姉ちゃんだって……」
「それは分からないよ。分かってるのは、ジュン君はみきさんが好きで、みきさんはジュン君が好きで、わたしはジュン君が好きで、亜紀ちゃんはみきさんが好きで……今のままだと誰も幸せじゃないってことぐらい」
「かもしれないけど、あたし達には何もできないじゃん」
「そう、そうなんだよ。二人の問題を解決することは、部外者の私達にはできないの」

 早奈美ちゃんは一度スマートフォンを置いて、大きく息を吐いた。

「だから、ね、お願い……」

 そして、今度はゆっくりと吸い込む。


「ジュン君を、もう一度だけみきさんに会わせてあげて!」
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