二、店員とお客様・1

文字数 2,810文字

 それから三日に一度くらいのペースで、片江さんは営業終了後の「喫茶カンヴァス」を訪れるようになった。
 親御さんが心配しないかと思ったけれど、まあ部活か塾の帰りに自習でもしていることになっているのだろう、とわたしは勝手に推測した。
 ジュン君はジュン君で、片江さんが来ない日にも変わらず通ってくれていて、お金は大丈夫なのだろうかと別の意味で心配になった。
 話を聞く限り彼は実家から大学に通っているようなので、食事代や家賃の心配はなく、家では大学の課題に取り組みづらい環境なのだろうと、また勝手な推測をしてみる。

 とにかく、ジュン君と片江さんは少しずつ仲を深めていった。はじめは苦労話ばかりしていた片江さんも笑顔でいる時間が増えて、ほとんど無関係なわたしまで嬉しくなる。
 ひょっとして二人、いい雰囲気なんじゃない? もしかしてあのまま、くっついてしまったりして。……と、友人ととりとめのない噂話に興じているときのような浮ついた感覚を思い出す。
 入ったばかりの大学を早々に休学し、カンヴァスと下宿の往復しかしない日々を送るようになって以来、すっかり忘れてしまっていた気持ちだ。

「ジュンさんとさなみんが出会って、まあまあ経ちますけど……特に何も起きませんね」
 わたしの気持ちに水を差すように、都築君がぼそりと言う。
 今日は二人の待ち合わせの日だ。いつものようにジュン君が先に来て、ノートパソコンを開いていた。都築君はちょうど、その席へコーヒーを運んだところのようだ。
 (だいたいうすあじ)ではない、ちゃんと美味しいアメリカンコーヒーを。

「そう? もしかしたらもう起きているのかもよ」
 わたしの返事に、都築君はええ? と訝しげな声を上げる。
「杜羽子さん。もしかして、俺がいないうちに何か事件があったんですか? なんで教えてくれないんですか」
「いや、何もないよ。でもなんだかあの二人、いい雰囲気じゃない? だからもう、何かが始まっちゃってるのかもよ、って……そういう意味で」
「ああ、なんだそういう……」

 わたしがしどろもどろになりながら答えると、都築君は全然興味のなさそうな顔で、「さなみんが来るまでまだ時間がありますし、調理場の手伝いでもしてきますね」と、言い終わりもしないうちに立ち去ってしまった。

 ホールにひとり残されたわたしは、重要な戦局を任された気持ちで、お客様の小さな不便も見逃すまいと店内を見渡す。けれど、みんなそれぞれに作業やお喋りに没頭していて、わたしの介入する余地はなさそうに見えた。

 月並みだけれど、今この瞬間にこのお店を訪れているという奇跡をこれだけの人数が共有できるくらいに、世の中にはたくさんの人がいて、無数の人生があるのだ。
 なのに、自分ひとりではひとつの人生しか体験できない――そう思うと、他人のそれを覗いてみたいという都築君の気持ちも、少しわかってしまう気がした。

「いつも、すみません。お邪魔じゃないですか?」
 営業時間終了のきっちり五分後に来た片江さんは、花柄のワンピースにジャケットを羽織っていた。もしかすると、彼女なりに張り切ってみたのかもしれない。
「いえいえ。むしろ、わたし達の方がお邪魔じゃない?」
 嫌われはしないかと内心はらはらしながら、馴れ馴れしい口を聞いてみる。
 片江さんは、そんな、と言って照れたように笑った。見る限り、気分を害した様子はない。
「片江さんって、高校生だよね。何年生?」
「二年生です」
 とすると、都築君と同級生だ。年下には思えない都築君と違って、彼女は凄く年下のような感じがするのだけれど。

「店員さんは? よかったら、お名前も教えてください」
「わたしの?」
「はい。杜羽子さんと呼ばれているのは知ってるんですけど、直接聞いたことはなかったから」
 片江さんはまっすぐにこちらを見つめる。あまりしっかりとは整えられていない眉や、白目に比して面積の大きい真っ黒な瞳が、素朴でなんとも可愛らしい。
「わたし、稲見(いなみ)杜羽子。よろしくね。大学一回生だよ」
「大学生かあ。いいなあ」
 片江さんの声は、雑なお世辞には聞こえなかった。いいって何が、と思いはしたけれど、自分が高校生の頃は大学生への漠然とした憧れのようなものがあったから、きっとそういうものなのだろう。実は休学中なの、とは言い出せなかった。

「ジュン君も大学生なんです。二回生の」
「そうなんだ」
 わたしは、見た目通りだなあと思いつつ頷く。
 ……あ、いいなあってもしかして、ジュン君と同じだから? そんなふうに邪推もしつつ。
「じゃあ、三歳差なのかな。片江さんと」
「え? そ、そうですね」
 片江さんが動揺したような気がして、わたしは確信を持つ。
 やっぱり、始まっちゃってるんじゃない? 少なくともこの子の方は。

「片江早奈美さん、だよね。早奈美ちゃんって呼んでもいいかな?」
 この初々しい女の子にはその呼び方がしっくり来る気がして、わたしはまたも馴れ馴れしい態度を取った。これでは都築君に文句など言えないなと思いつつ。
 すると片江さん改め早奈美ちゃんは、いいですよ、とだけ言ってまた照れたように笑った。

「あ、さなみんだ。おーい」
 閉店準備を進めていた都築君がこちらに駆け寄ってくる。彼は彼で、当然のように馴れ馴れしかった。
「店長が、先にお会計だけ済ませておくようにって。ということでお願いします」
 店長はおそらく、金額の計算と最低限の片付けだけを済ませたら帰るつもりなのだろう。それで最後にわたし達が戸締まりをして、店舗の二階に住むオーナーのところへ鍵を持っていく。いつもの流れだ。
 早奈美ちゃんは、慣れた様子でオレンジジュースの代金を支払った。それを受け取った都築君が風のように去っていき、わたしと彼女がその場に残される。

 ……調子に乗って少し喋りすぎたかなと、ふと我に返る。彼女は何のためにオレンジジュース代を払ってここまで来ている? 当然、わたしのような店員と話すためじゃない。早く送り届けてあげなくちゃ。

 そう思ってすっかり人の居なくなった店内に目をやると、いつからかこちらに目をやっていたらしいジュン君と視線が合った。それに気づいてか、早奈美ちゃんがわたしにぺこりと頭を下げる。行っておいで、と心の中で手を振るのと同時に、カウンターから都築君がひょっこり顔を出した。手伝いそっちのけで様子を見に戻ってきたらしい。

「あの、こんばんは!」
 早奈美ちゃんはジュン君の席へと小走りで向かい、遠慮がちに椅子を引くと、
「この間は、ありがとう。ちゃんとお礼もできなくて……」
 と、心なしか顔を紅潮させつつ言った。
 それを見ていたわたしと都築君は、三メートルくらいの距離を空けながらもお互い顔を見合わせて、同時に「ん?」と声を上げる。

 この間って、何の話? 都築君の目がそう言っているように見えた。
 というかそれはそのまま、わたしの疑問だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み