五、早奈美ちゃんのお願い・1
文字数 1,953文字
昨夜の出来事は夢だったんじゃないかと、今朝目覚めてから一八時を過ぎた今に至るまで何度も何度も思った。きっともうしばらくは繰り返すだろう。
けれど、あの飄々とした都築君がずっと上の空で仕事をしているのを見るたび、残念ながらあれは現実だったのだと思い知らされる。
ふと気がつけば、店内にお客様は誰もいなくなっていた。もしかするとこのまま、ラストオーダーの時間が来るかもしれない。店の経営からすると決して喜ばしいことではないが、今のわたしにとっては少し、都合がいい。
「都築君、ちょっと」
しばらく動いていない入り口のドアをぼんやり見つめていた都築君は、わたしの声に気づくなり慌てた様子で顔をこちらへ向けた。
「わ、びっくりした。さぼってるわけじゃないですよ」
「そんなつもりで呼んだんじゃないよ……昨日のことなんだけど」
「昨日の……ああ、俺が見た夢の話ですかね」
都築君は冗談らしくない調子の声で、困ったように笑いながら言う。
「都築君とわたしが見た夢の話、かな」
「ノリがいいっすね、杜羽子さん。で、どういうお話でしょう」
「相談。みきさんのこと、ジュン君や早奈美ちゃんに話すべきだと思う?」
昨夜みきさんは、自分がオバケであることを二人に話しても構わないと言っていた。
特に早奈美ちゃんには話してほしい、自分のせいで私達が別れたと思っていたら申し訳ないから……と。
だけどそれは本当にいいことなのだろうか? ジュン君は勿論早奈美ちゃんだって、なんだそうだったんですか、で済ませられる話ではない気がする。無駄な重荷を背負わせることになるだけかもしれない。
「そうですねえ。俺達が決めていいなら、何も考えずにみきさんの言った通りにすればいいと思いますが」
「そんな」
都築君らしいとはいえあまりにもあっさりとした返答に、思わず非難がましい声を上げてしまう。
「いや……俺も昨夜から色々考えてはいるんですよ。でもこれ、たぶん俺達が決めるべきことじゃないなと思って」
なだめるように言われて、少し冷静になれた。
一理ある。わたし達は結局、部外者でしかないのだ。だからこそできることもある、とは思っていたけれど。
だとしても、みきさんの事情を伝えることの是非について考えたとき、優先されるべきはわたし達の意見より、ジュン君や早奈美ちゃんがそれを知りたいと思っているかどうか。そして、みきさんがそれを知ってほしいと思っているかどうかだ。
ジュン君や早奈美ちゃんの気持ちを知りようがない今においては、みきさんの意思を尊重するほかない。
……本当に、ないのだろうか。
「俺、ちょっと後悔してるんですよ。昨夜、みきさんを追わなかったこと」
都築君は苦笑いをしながら、わたしの目を見た。
「わたしも。どうしてあのとき、素直に言うことを聞いちゃったんだろう」
追わないで、と言ったみきさんの声があまりに寂しそうで、体が動かなくなった。
だけどわたし達は、無理を言ってでもみきさんを引き留めるべきだったんじゃないか。
やっぱり、もう一度ジュン君に会ってくれるようみきさんを説得するべきだったんじゃないか。
そして、伝えるべきかどうかは当事者同士きちんと気持ちを分かり合った上で決めてもらって、伝えるならばみきさん自身に伝えてもらうべきだったんじゃないか。
「そんなこと言っても、もう遅いのかな」
呟きながら、わたしはスマートフォンの画面を点灯させた。
「あの後、みきさんにまたメールしてみたの。返事は来ないけど」
「そんなことしてくれてたんですか。でも今のみきさんは物に触れないわけだから、返信をするには、誰かに」
と、話している最中にチャイムが聞こえた。お客様がいらっしゃったらしい。
時計を見ればラストオーダーの五分前。本日最後のお客様かもしれない。
猫背気味になっていた姿勢をしゃんと正した接客モードの都築君は、やや大股で店の入り口へと歩いていった。
そして全然、接客モードではない声で呟く。
「……さなみん?」
それに反応したわたしも、入り口に目を向ける。
そこにはチェックシャツにデニムのスカート姿の、早奈美ちゃんが立っていた。
「こんばんは!」
彼女はわたし達の姿を見るなり、声を張り上げる。
「あ、こんばんは」
その妙な明るさに若干気圧された様子を見せつつ、都築君は壁際のソファー席に早奈美ちゃんを案内した。
「ひとりでいらっしゃるなんて、珍しいっすね。ご注文、お決まりですか?」
「はい。……えっと」
メニューも見ないうちから大きく頷き、にもかかわらずためらったように黙り込む早奈美ちゃん。どうしたのだろう?
結局彼女は、三〇秒くらいかけてようやく口を開いた。
「このお店で、いちばん高いメニューをお願いします」
「……なんで?」
都築君が真顔で尋ねる。
けれど、あの飄々とした都築君がずっと上の空で仕事をしているのを見るたび、残念ながらあれは現実だったのだと思い知らされる。
ふと気がつけば、店内にお客様は誰もいなくなっていた。もしかするとこのまま、ラストオーダーの時間が来るかもしれない。店の経営からすると決して喜ばしいことではないが、今のわたしにとっては少し、都合がいい。
「都築君、ちょっと」
しばらく動いていない入り口のドアをぼんやり見つめていた都築君は、わたしの声に気づくなり慌てた様子で顔をこちらへ向けた。
「わ、びっくりした。さぼってるわけじゃないですよ」
「そんなつもりで呼んだんじゃないよ……昨日のことなんだけど」
「昨日の……ああ、俺が見た夢の話ですかね」
都築君は冗談らしくない調子の声で、困ったように笑いながら言う。
「都築君とわたしが見た夢の話、かな」
「ノリがいいっすね、杜羽子さん。で、どういうお話でしょう」
「相談。みきさんのこと、ジュン君や早奈美ちゃんに話すべきだと思う?」
昨夜みきさんは、自分がオバケであることを二人に話しても構わないと言っていた。
特に早奈美ちゃんには話してほしい、自分のせいで私達が別れたと思っていたら申し訳ないから……と。
だけどそれは本当にいいことなのだろうか? ジュン君は勿論早奈美ちゃんだって、なんだそうだったんですか、で済ませられる話ではない気がする。無駄な重荷を背負わせることになるだけかもしれない。
「そうですねえ。俺達が決めていいなら、何も考えずにみきさんの言った通りにすればいいと思いますが」
「そんな」
都築君らしいとはいえあまりにもあっさりとした返答に、思わず非難がましい声を上げてしまう。
「いや……俺も昨夜から色々考えてはいるんですよ。でもこれ、たぶん俺達が決めるべきことじゃないなと思って」
なだめるように言われて、少し冷静になれた。
一理ある。わたし達は結局、部外者でしかないのだ。だからこそできることもある、とは思っていたけれど。
だとしても、みきさんの事情を伝えることの是非について考えたとき、優先されるべきはわたし達の意見より、ジュン君や早奈美ちゃんがそれを知りたいと思っているかどうか。そして、みきさんがそれを知ってほしいと思っているかどうかだ。
ジュン君や早奈美ちゃんの気持ちを知りようがない今においては、みきさんの意思を尊重するほかない。
……本当に、ないのだろうか。
「俺、ちょっと後悔してるんですよ。昨夜、みきさんを追わなかったこと」
都築君は苦笑いをしながら、わたしの目を見た。
「わたしも。どうしてあのとき、素直に言うことを聞いちゃったんだろう」
追わないで、と言ったみきさんの声があまりに寂しそうで、体が動かなくなった。
だけどわたし達は、無理を言ってでもみきさんを引き留めるべきだったんじゃないか。
やっぱり、もう一度ジュン君に会ってくれるようみきさんを説得するべきだったんじゃないか。
そして、伝えるべきかどうかは当事者同士きちんと気持ちを分かり合った上で決めてもらって、伝えるならばみきさん自身に伝えてもらうべきだったんじゃないか。
「そんなこと言っても、もう遅いのかな」
呟きながら、わたしはスマートフォンの画面を点灯させた。
「あの後、みきさんにまたメールしてみたの。返事は来ないけど」
「そんなことしてくれてたんですか。でも今のみきさんは物に触れないわけだから、返信をするには、誰かに」
と、話している最中にチャイムが聞こえた。お客様がいらっしゃったらしい。
時計を見ればラストオーダーの五分前。本日最後のお客様かもしれない。
猫背気味になっていた姿勢をしゃんと正した接客モードの都築君は、やや大股で店の入り口へと歩いていった。
そして全然、接客モードではない声で呟く。
「……さなみん?」
それに反応したわたしも、入り口に目を向ける。
そこにはチェックシャツにデニムのスカート姿の、早奈美ちゃんが立っていた。
「こんばんは!」
彼女はわたし達の姿を見るなり、声を張り上げる。
「あ、こんばんは」
その妙な明るさに若干気圧された様子を見せつつ、都築君は壁際のソファー席に早奈美ちゃんを案内した。
「ひとりでいらっしゃるなんて、珍しいっすね。ご注文、お決まりですか?」
「はい。……えっと」
メニューも見ないうちから大きく頷き、にもかかわらずためらったように黙り込む早奈美ちゃん。どうしたのだろう?
結局彼女は、三〇秒くらいかけてようやく口を開いた。
「このお店で、いちばん高いメニューをお願いします」
「……なんで?」
都築君が真顔で尋ねる。