三、ジュン君のため息・1

文字数 2,473文字

 わたしがみきさんと食事をした日、あるいは早奈美ちゃんがデート中のジュン君とみきさんを目撃してしまった日の、三日後のこと。

 いつも通りの時間に「喫茶カンヴァス」を訪れたものの、いつもよりタイピング速度が遅くて作業があまり捗っていない様子のジュン君と、いつもより少しだけ遅く来た早奈美ちゃんは、いつも通りに店内で挨拶を交わしていた。
 わたしと都築君が固唾をのんでその様子を見守っていることなど、知る由もない。

「片江さん、あれからどう? あいつはもう見ていない?」
「うん。あいつもだし、オバケ自体、全然見ていないよ」
「そう、よかった」

 そのはずなのに、二人ともどこかぎこちない気がする。早奈美ちゃんはともかく、ジュン君はどうしたのだろう? ……もしかして、みきさんに何か言われたのだろうか。

 不思議に思っていると、隣の都築君がわたしだけに聞こえるような声で囁いた。
「ジュンさん、どうしたんでしょうね? 今日は元気がないように見えるんですけど」
「確かに。課題もあんまり進んでいない感じだったもんね」
 言われてみればそうかもしれないと思い、ジュン君の様子を注意深く観察してみる。
 すると、早奈美ちゃんの方が口を開いた。

「私、三日前もこのお店に来たの。いつもより早い時間に……あの日ジュン君もここにいたよね?」
 わたしは自分の耳を疑う。それ、言ってしまって大丈夫?
 思わず都築君の肩を叩くと、落ち着いてください、とたしなめられてしまった。

「本当に? それなら声を掛けてくれればよかったのに」
 ジュン君は素直に驚いた様子だ。そのあっさりとした反応からは、やはり早奈美ちゃんへの恋愛感情など感じとれない。
「あ……いや、でも、友達と一緒だったから」
 対する早奈美ちゃんの声は、消え入りそうに小さかった。
 何だか、いたたまれない。わたしと都築君はこの場を去ったほうがいいんじゃないかとすら思えた。あの日わたしは、二人を見守ることをみきさんに約束したというのに。

「ああ、いや。友達というか、彼女……」
 それに返すジュン君の声まで妙に尻すぼみで、しかも一瞬意味がわからなくて、わたしは小さく首をひねる。
 そして恐らく、理解する。
 ……早奈美ちゃんが言う「友達と一緒だったから」というのは、早奈美ちゃん自身が友達と一緒にいたから、他の知り合いに声を掛けるのはためらわれたという意味だろう。なのにジュン君は、早奈美ちゃんがみきさんに対して遠慮したのだと、しかもみきさんのことを自分の彼女ではなく、友達だと思っていると勘違いした。
 それで図らずも、早奈美ちゃんに決定的な一言を放ったのだ。

 ジュン君の言葉を聞いた早奈美ちゃんはきょとんとして、そのまま黙り込んでしまった。
 ジュン君の方はというと、まだ今のやり取りが何を意味するかを理解していない様子で、不思議そうに早奈美ちゃんを見つめている。

「そ、そうなんだ」
 しばらくすると、早奈美ちゃんは急にうたた寝から目覚めたときのようにびくりとして、小さな口を開いた。
「彼女さんだったんだ。綺麗な人だったよね、それにしっかりしてそうだったし……ジュン君と、すっごくお似合い」
 それから両手のひらを合わせ、ジュン君に配慮してか、勘違いを正すこともせずにみきさんを褒める。その妙に明るい仕草が、取り繕っているようにしか思えなくて、穏やかな気持ちでは見ていられない。
「ありがとう」
 対するジュン君の態度は、何故かそっけなかった。何かこらえているようにも見える。

「そっかあ、彼女さんがいたんだ、知らなかった。私、お邪魔じゃなかった? あんまりジュン君に親切にしてもらうと、彼女さんが気にしちゃったりとか、するかな」
 早奈美ちゃんはジュン君の顔色を窺いながら、上ずった声で話す。いつになく饒舌に、絞り出すように。
「初めて私の悩みを分かってくれる人ができて嬉しかったから、できればこれからもずっと、ジュン君にはお友達でいてほしいんだけど……それってあんまり、よくないのかなあ?」
 問いかける言葉とは裏腹に、彼女の目はほとんどジュン君を見ていなくて、答えなど求めてはいないように感じられた。

 だけど、本当にジュン君が黙ってしまったのは、いただけない。
 彼も流石に、早奈美ちゃんの気持ちを察したはずだ。どうしたの? 何か、言うことはない?

 思わず口を挟みかけて、都築君に肘で小突かれた。いつからか、自分の姿勢がかなり前のめりになっていたことに気づく。
「杜羽子さん。やっぱり今日のジュンさん、何かおかしいですよ」
 都築君の冷静な声に、わたしは少し落ち着きを取り戻す。 
 するとジュン君がようやく口を開いた。

「それが……いや、色々考えさせてしまって、ごめん。僕も片江さんとは友達でいたいし、君がもし今後、オバケのせいで危険な目に遭うことがあるとしたら、助けたいと思ってる。そこは絶対に、遠慮なんてしないでほしい」

 ジュン君の台詞はひどくゆっくりで、少し震えていた。今にも泣き出してしまいそうだ。
 確かに、何かおかしい。泣きたいのは早奈美ちゃんのはずなのに。
 早奈美ちゃんに感情移入してしまっているということだろうか。ついさっきまで、彼女の気持ちに全く気づいていない様子だったジュン君が?

 ジュン君はじっと机を見つめてしまっていて、早奈美ちゃんは何も答えられずにいる。
 このまましばらくこの状態が続くのかと思い始めたところで、都築君が突然、前へと進み出た。
「あの、すみません。空気読めないこと言ってもいいですかね」

 彼は二人の席のすぐ近くで立ち止まると、わざわざそう断りを入れる。一体、この状況で何を言うつもりなんだろう。
 少しためらいがあるのか、都築君は一度小さく息を吐いてから、恐る恐るといった様子でジュン君に尋ねた。
「ジュンさん、もしかして……みきさんと別れました?」

 まさか。何てこと言うの、都築君。
 わたしがそんな横槍を入れるよりも早く、ジュン君は黙って頷く。

「よく分かったね」

 そしてため息を、先ほどの都築君よりずっと深い息を吐いたのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み