一、少女と青年・3

文字数 3,866文字

「でも、怖がらないで。何かされるなんてことはないと思うから」
 わたしの反応を見たジュン君は、一瞬慌てた様子を見せたものの、すぐさまなだめるようにそう言った。きっとこうした状況に慣れているのだろう。

「ただ少し心配なのは……注文を受けたら、無銭飲食になってしまうかもってことかな。なんせオバケだから、支払い能力はなさそうだし」
「支払い能力って」
 ジュン君の心配が意外なところにあったおかげで、ばくばく鳴っていた心臓の動きが少し落ち着いた気がする。
「待って。支払い以前に、オバケって飲み食いできるの?」
「分からないけど、できないとは言い切れないなあ。人と状況にもよるのかも」
 何でもないことのように話すジュン君だが、色々と納得しかねているわたしは、ううん、と小さく唸ってみる。
 それから、わざと大きな声で今更ながらに注文を復唱して、そそくさと都築君の隣へ戻った。

「今、ジュンさんと何の話をしてたんです?」
「驚かないで聞いてね」
 戻るなり声を掛けてきた都築君に、わたしはこれ幸いとばかりに先ほどの話を伝えた。
 それより急いで伝えるべきは片江さんの注文なのだが、随分会話が盛り上がっている様子だしまだ大丈夫だろう、と心の中で勝手な言い訳をする。
 わたしからオバケらしきお客様のことを聞かされた都築君は、思いの外控えめな驚き方をして「そりゃまずい」とだけ口走った。
「まずい、って?」
「無銭飲食になるのを分かってて注文を通したなら、それは俺達の責任だから俺達がこっそり代金を払わなくちゃいけなくなるじゃないですか。かといって、オバケになってまでこの店に来てくれたお客さんの注文を通さないわけにもいかないし」
「そう、かな……?」
 その考えには賛同しかねる、というより少しついていけなかった。
「幸いにも、注文はまだ取っていません。俺に任せてください」

 言い終わりもせず、都築君は例の、あるいは霊のお客様の元へ行ってしまった。
 その様子に気づいたらしいジュン君と片江さんが、心配そうな眼差しを揃って都築君に向ける。
 わたしも恐らくは同じような表情をしながら、都築君がお客様に話しかけるのを見守っていたが、少し距離があるためによく聞こえない。
 相手の方も一言二言、話しているように見えた。一見して普通のお客様だ。もしかしてジュン君と片江さんにからかわれたのかな、などと思っていると、話を終えたらしい都築君がこちらを見るなりぐっと親指を立てた。

「どうしたの、嬉しそうに」
「あのお客さんのご注文を、店長の特製コーヒー(だいたいうすあじ)にすることに成功しました」
 戻ってきた都築君に問うと、彼は誇らしげに語り始めた。そして小さなガッツポーズを形作る。
「これで、無銭飲食になったとしても被害は八〇円で済みます。それくらいなら、俺がポケットマネーからこっそりレジに入れておけば万事解決です」
 都築君は制服のスラックスから薄手の小銭入れを取り出す。文字通りのポケットマネーだ。革製のスリムなもので、高校生の所持品にしてはなかなか洒落ていた。

「……ということは都築君、オバケかもしれないお客様相手にメニューをプレゼンしていたの?」
 わたしは呆れつつも、ちょっとした安心感を覚える。
「もし本当にそうなったら、わたしが払うよ。ほとんど都築君と同じ立場なのに、何もしていないし」
「いえいえ、ここは俺に払わせてくださいよ」
 まるで食事デートの会計時の会話に聞こえて、苦笑いが漏れた。
 都築君は上機嫌だし、八〇円くらいなら負担にもならないだろう。今度差し入れのお菓子でもあげることにして、ここは払ってもらおうかな。
 そう考えつつ、調理場にいる店長へ注文を伝えるよう都築君に促す。同時に片江さんの注文も伝えておいた。

 ……そうだ、片江さん。今はどんな様子だろうか。

「悩みを分かってもらえる人と出会えて、なんだか嬉しい。私、片江早奈美っていいます。これからもときどきここへ来ていいですか?」
「もちろん。ここなら気楽に話せるしね」

 片江さんはすっかり緊張が取れた様子で楽しそうに話していて、ジュン君はずっと優しげに微笑んでいる。あれ、あの二人、ちょっといい感じじゃない?

「あ、だけどあんまり声が大きいと、近くの席の人が気になってしまうかもしれないね」
「そっか……隣の席でずっとおかしな話をしていたら、迷惑ですかね。そういう話、苦手な人もいるだろうし」

「オレンジジュースです。こちらでご注文はお揃いでしょうか?」と、そこで都築君が現れ、妙にかしこまった声と仕草でオレンジジュースを差し出す。
「片江早奈美さんですよね。俺、店員の都築といいます。よろしく」
 急に絡まれた片江さんは、一瞬きょとんとしてから軽く頭を下げた。
「周りが気になるようなら、営業時間外に来てもらっても構いませんよ? 閉店後、一時間程度なら。特別です」
「えっ、わざわざお店を開けておいてくれるってことですか? どうしてそんな……」

 片江さんの口調は驚いているようだったが、身構えているようにも見える。茶髪で一見軽薄そうな都築君からの申し出だ、今度こそ新手のナンパかと思ったのかもしれない。

「いやあ、突然すみません。実は俺、こっそりお二人の会話に聞き耳立ててまして……この店、訳ありのお客さんに手厚いんで。ジュンさんは常連さんでもあるし、サービスです。ね?」
 急に話を振られたジュン君は、
「そう言ってくれるのはありがたいけど、他のお店の人に迷惑じゃないの?」と、遠慮するように言った。
「大丈夫ですよ。閉店準備はお二人がいる間に始めちゃいますし、終われば店長と調理場のスタッフは気にせず帰るんで」
 都築君はちらりとわたしの顔を見る。
「で、最後に俺か杜羽子さんがちょちょっと席を片付けて、戸締りをすればいいわけですから、他の者に迷惑は掛かりません。オーナーにも話を通しておきますからご心配なく」
 都築君につられてか、ジュン君と片江さんもこちらに目を向けてきた。その視線に耐えかねて、わたしはつい頷いてしまう。

「……じゃあ、もしお店を開けていてほしかったら、都築君にあらかじめ連絡しておけばいいのかな。でも、本当にいいの?」
「はい、そんな感じで。あ、俺か杜羽子さんが近くでずっと聞き耳を立てることになると思いますけど、いいですか?」

 何を勝手に話を進めているんだ、と少し思ったが、実際、普段店に顔を出さない「喫茶カンヴァス」のオーナーは、こういう状況に寛容だ。
 相手の同意が第一ではあるけれど、訳ありなお客様の事情への積極的な介入を推奨している節すらある。そのための急なシフト交代に目くじらを立てたりはしないし、何ならオーナー自身が穴埋め要員になってくれる。
 オーナーがそんな調子だから、わたしは都築君の趣味に積極的な口出しができないのだ。

「もちろん、僕は構わないよ。片江さんは?」
「え? ……はい。私も、誰もいないお店で話せるならそのほうがありがたいです。御厨さんといるところ、同級生に見られて勘違いされちゃっても困るし。でもやっぱり、迷惑じゃないですか?」
「それならよかったっす。迷惑になんてなりませんよ。俺も杜羽子さんもオーナーも、他人の訳あり話が大好きなんで」

 満面の笑みでこちらを向いた都築君に思わず、一緒にしないでよと言いかけて、彼の右手のトレイに店長の特製コーヒー(だいたいうすあじ)がずっと置かれたままであることに気づいた。
 仮に注文したお客様がオバケだとしても、店員としてあるまじき行いだ。早く持っていきなさいという指示のつもりで、わたしは少し険しい表情を作りながら、件のお客様の席へ視線を送る。すると都築君が首を横に振った。

「……あちらのお客様なら、とっくにお帰りですよ。俺が厨房から戻ったときには、既に」

 思わず、息をのむ。
 つい先程まで人がいたはずのテーブルには、今や手付かずのおしぼりと、少し嵩の減った冷水のグラスだけが残っていた。
 ……足音や扉の音、ましてやドアチャイムの音など聞いた覚えがないのに。

「無銭飲食が気に掛かったのかな? 真面目だなあ。こっちはもう割り切っていたから、別によかったのに。そもそも、注文を通しちゃった時点で手遅れだってのに」
 都築君は少し残念そうな顔をして、トレイの上のカップを眺めた。それから、「これいらないんだよなあ、俺。杜羽子さん、飲んでみます?」と言ってトレイをこちらに突き出してくる。
 わたしはぶんぶん手を振って、いらない、という意思表示をした。その色水が美味しくないことは、わたしもよく知っているのだ。

「じゃあ、ジュンさん。どうです、もう一杯?」
「僕も遠慮させて」
 ジュン君は苦笑いしながら、(だいたいうすあじ)をまだ半分くらい残している手元のカップを手に取ってみせた。心なしか、そのジュン君の(だいたいうすあじ)のほうが、行き場をなくした(だいたいうすあじ)よりも濃いブラウンを帯びているような気がする。

「じゃあ、早奈美さん」
 都築君が片江さんに声を掛けた瞬間、ジュン君が遮るように二人の間で手を振った。
 片江さんは何が何やら分からない様子だったが、ジュン君に調子を合わせたのか、
「私もいいです」とあっさり断ってしまった。

 それを聞いた都築君はわざとらしくため息をついて天井を仰ぎ、誰からも必要とされなかった哀れな(だいたいうすあじ)を、仕方ない俺が責任を取ります、とばかりにこくりと飲んだ。

 そして「熱さだけはちょうどいいな」と、何の感慨もなさそうに呟く。
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