四、みきさんの事情・2

文字数 2,965文字

 みきさんはどこか諦めたような顔で、ぽつりぽつりと語り始める。

「彼女、とてもいい子そうだったわね。それに純粋そうで、可愛らしい……守りたくなってしまうような、好意を素直に受け取ってくれそうな女の子。世話焼きで優しい男の子とは、きっと相性がいいと思うわ」
「あなたの想像ですけどね、それ。実は結構ひねくれた性格してるかもしれませんよ? まあ俺も、そんなことないだろうとは思いますけど」
 都築君の言い草に、みきさんは口元だけで小さく笑った。

「それに、あの子と淳は見ている世界が同じなのよね。これがいちばん大きいわ。生きている人間なのにオバケが見える、触れる……このことで淳はずっと悩んでいた。その特殊な事情を共有できる子に、やっと出会えたのよ」
 みきさんの目は、どこか寂しそうだった。
 いつの間にか彼女の台詞の主語は早奈美ちゃんではなく、ジュン君になっている。

「私の住む世界は、淳、それにあの子のいる世界とは違うのよ」

 彼女はそこで言葉を切った。

 どうやら彼女にとっての結論は、とっくに出てしまっているらしい。それがどうにも一方的な決めつけに近いのが気にはなったが。

 きっと彼女は、自分だけではそのことに気づけない。
 もしかしたら案外、第三者であるわたしや都築君にこそ、何かできることがあるのかもしれない。何の権利も資格もなくたって。

「そうなのかもしれませんけど……でも、恋人同士だからって、何もかも理解し合わなきゃいけないわけではないですよね。たとえオバケのことを理解し合える人をジュン君が欲していたとしても、その相手が恋人である必要があるかどうかは、ジュン君にしか分かりません。ジュン君にとってはそんなの二の次で、みきさんがそばにいてくれることがいちばん大切なのかもしれないじゃないですか」

 こちらを見て、みきさんは意外そうな顔をした。急にわたしが話し始めたことに驚いたのかもしれない。

 差し出がましいことをしてしまっただろうかと思い、わたしが引き下がりかけていると、あとは自分が引き継ぎますとばかりに、都築君が「そうですよ」と同意してくれた。

「だいたい、他の子と付き合ったほうがジュンさんにとって幸せ? さっきも言いましたけど、ジュンさん滅茶苦茶凹んでましたよ。一目で何かあったって分かるくらいに。ジュンさんにとっての幸せって、あなたといることなんじゃないんですかね」
「仮にそうだとしても、そんなの今だけよ。これから先はどうだか分からないわ」
「……それに、あなたの方はどうなんですか? ジュンさんじゃなくて、みきさんの気持ちの方は。自分も、他の人と付き合った方が幸せだと思うんですか?」
 都築君の問いに、みきさんは目を見開いて、唇を噛む。

「いいえ」

 それから少しして、はっきりとした声でそう断言したのだった。
 ずっと何かを隠しているような、煮え切らない口調だった彼女が。

「あんないい人、他にいないもの。あなた達よりも、早奈美ちゃんよりも私の方がずっとよく知ってる……私にとっては、淳といるのがいちばんの幸せに決まってるわよ」
 そこには強い意志と確かな熱、あるいは愛情が感じられて、わたしは思わずのけぞりそうになる。

「だったら、どうして? それならなおさら、別れる意味が分かりません。今のところあなたは幸せで、ジュンさんもたぶんそうでしょ。じゃあそれでよくないですか」
 つられてか、都築君の言葉も熱を帯びてきた。わたしも負けじとそれに続く。

「そうですよ。確かに早奈美ちゃんはいい子だとわたしも思います。だけどそもそも、みきさんと早奈美ちゃんを比べるっていうのが間違ってますよ。ジュン君はみきさんが好きで、みきさんも結局、ジュン君のことが好きなんですよね? それだけじゃないですか。仮に早奈美ちゃんがジュン君を好きだとしても、それとこれとは関係ないですよね」

 早奈美ちゃんに対する罪悪感に胸をざくざくと刺されながらも、わたしは畳みかけた。
「せめて、ジュン君ともう一度、会って話してみましょうよ。そこでお互いの気持ちを確認しあって、それでも合わないと感じたなら、あなたの考えが正しいと思ったなら、今度こそきっちり別れればいいじゃないですか。しっかり話し合ってから」

「それは嫌」

 即答だった。

 みきさんは何故か、笑っていた。今までの大人びた、落ち着いた印象とは別人みたいに、悪戯っぽく。目まできゅっと細めて。

「どうして」
 わたしと都築君の声が被る。

「そうしたら、きっと引き止められてしまうもの。自信過剰かもしれないけどね。そうなったら、私だって別れたくなくなってしまう。まだたくさん、未練があるから」

 みきさんはまだ、笑っている。
 何が可笑しいのだろう? なんだか、この人のことが分からなくなってしまった。元々何も分かってはいないけれど。
 突然わいてきた小さな恐怖を隠して、わたしは食い下がる。
「そうなったら……単に、よりを戻せばいいんじゃないんですか? どうしてそんなにも、別れることにこだわるんですか」

 みきさんはおもむろにベンチから立ち上がった。そしてゆらゆらとした足取りで、わたしの前まで歩いてくる。
 このまま立ち去ろうとしているように見えて、わたしは彼女を引き留めようと反射的に手を伸ばす。

 すると、みきさんはわたしの目の前で立ち止まった。先程とは打って変わって、感情が消えてしまったような無表情でわたしを見下ろしながら。

 それから、驚いてそのままのポーズで固まっているわたしの手に、みきさんは何故か、触れようとした。

 触れようと、しただけだった。

 白くて柔らかそうな皮膚の感触をわたしの手が感じることは、決してなかった。
 みきさんの手は、確かにわたしの手を握ったのに。いつかテーマパークのアトラクション内で見た立体映像のように、彼女の手はわたしの手をすっとすり抜けた。

 何が起きたのか、すぐには分からなかった。目が脳に伝えたはずの映像を、当の脳が受け入れられずにいた。
 みきさんの顔を見るのが怖くて、わたしは助けを求めるように隣の都築君を見る。

 物事になかなか動じない彼も、声を発せられずにいた。
 瞬きもしないで、融合するように重なった、わたしとみきさんの手をじっと見つめている。

 わたし達の反応を見て、もういいだろうと思ったのか、みきさんはそっと手を離した。
 わたしはその手を目で追ってから、ゆっくりとみきさんの顔を見上げる。

 彼女はまた笑っていた。とても綺麗な笑顔だった。
 ジュン君が一目惚れしたというのも、頷ける。だけど、わたしがもし彼の立場だったとしたら、声を掛けることなんて絶対にできなかっただろう。

「……ほんの数日間淳と離れただけで、この通り。触れなくなっちゃうの。見えたり話したりはかろうじてできるみたいなんだけどね。本当、どういう現象なのかしら」

 わたしはジュン君の言葉を思い出した。
 それから、カンヴァスを訪れて店長の特製コーヒー(だいたいうすあじ)を注文し、飲みもせずに帰ってしまったあのお客様のことを。


「僕といると、普段オバケが見えない人でも見えてしまったり触れてしまったりすることがたまにあるんだよね。
 もしかしたら逆で、僕がいると……オバケのほうが、見えたり触れたりするようになってしまうのかも――」
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