六、少女と青年とオバケ・4

文字数 3,963文字

 わたしはふと、あの公園での出来事を思い出す。
 みきさんの正体と、彼女のジュン君への想いを知ったあのときには――こんなにも穏やかに、すべてが元通りになるなんて思ってもみなかった。
 ジュン君とみきさん、それから亜紀ちゃん。それぞれがそれぞれに言いたいことを言い合った結果、部屋の中は思いがけないほどに幸せで、優しい空気に包まれている気がする。

 そう感じながらも何故かわたしは、「本当に良かったですね。じゃあ今度こそ、邪魔者のわたし達はこのへんで」などと言って立ち上がる気にはなれずにいた。
 どうしてだろう、今が絶好のタイミングなのに。
 わたしが言わなくたって、都築君が切り出してくれそうな気はするけれど。

 何かまだ、心に引っ掛かるものがあるのだろうか。
 ジュン君の言葉が理想的すぎて、近い将来二人が現実的な問題に直面したときのことが心配になったから?
 ううん、違う。わたしはそこまで考えられちゃいない。

 じゃあ、何もかもがうまくいきすぎて拍子抜けしたから?
 ……それも違う。何もかもうまくいく方がいいに決まってる。

 自分では答えが出せず、つい都築君の横顔を見てしまった。彼に分かるはずもないのに。

 そのとき、早奈美ちゃんの表情がたまたま視界に入って、腑に落ちた。
 ジュン君とみきさん、二人の姿を見守りながら――微笑んでいるけれど、どこか切なそうで、何か堪えているような、彼女の表情。

 ……ああ、そうか。そうだよね。
 二人の問題に自分は関係ない、なんてあの子は言っていたけれど、それは状況を客観的に見ての話。早奈美ちゃんの主観で見てみれば、あるいは二人の問題じゃなく今までの出来事全体について考えてみれば……そんなわけ、なかったよね。

「早奈美ちゃん」

 つい名前を呼んでしまって、呼ばれたあの子は目を丸くしながらこちらを見る。
 そりゃあ、驚くだろう。この場面で自分が呼ばれたことにも、わたしに呼ばれたことにも。

 どうしよう。声を掛けたはいいけれど、続く言葉が見つからない。というより、見つけてはいるけど言うべきじゃないと分かってる。

「早奈美ちゃんは……もういいの?」

 分かっているのに、結局口が動いてしまう。
 わたし、これまで大した行動もしてこなくて、部外者も部外者だったくせに。
 よりにもよって、事態が丸く収まりそうなこのときになって。

「いいの、って?」
 早奈美ちゃんが不思議そうに尋ねてきた。もう引っ込みがつきそうにない。

 やっぱり、絶対言わない方がいい。
 でも……わたしの立場からすれば、すべての始まりはカンヴァスでジュン君と早奈美ちゃんが出会ったあの瞬間だった。
 だからこそ、ジュン君とみきさんの問題が片付いて、これでみんな幸せ、はいおしまい――なんて結末にはどうにも納得できないのだ。

「杜羽子さん?」
 早奈美ちゃんが困った様子でわたしの名前を呼ぶ。
 彼女はわたしの気持ちを汲み取ってくれているような気がした。その上でなだめられているような気すら。

 だけど結局、彼女よりもいくつか年上でありながら幾分大人げないわたしは、最後まで言ってしまうことにした。
 だってわたしが見守ろうと決めたのは、彼女とジュン君の出会いの行く末なのだ。

 ああ、わたし、今、

「何か……言いたいこと、ないの? ジュン君に」 

 すごく、余計なこと、してるね。


 わたしの言葉を聞いた早奈美ちゃんは、驚かなかった。
 諦めたみたいにため息をついて、妙に元気よく「あります!」と声を張り上げた。

「一言だけいいですか? 空気読めてないんですけど、どうしても言いたいことがあるんです」
 それから別人のごとく声を潜めて、恐る恐るという感じに小さく手を上げる。

「……うん」
「ええ」

 ジュン君とみきさんが同時に頷く。

「私、ジュン君のことが好きでした。……ううん、好きです。返事は分かってるけど、これだけは伝えたくて」
 早奈美ちゃんはジュン君をまっすぐに見て、シンプルな告白の言葉を告げる。
 
「ありがとう。本当に……だけどごめんね、他に好きな人がいるんだ」
 それに応えるようにジュン君もまた、早奈美ちゃんをまっすぐに見て、シンプルなお断りの言葉を告げる。

「うん、知ってる。仕方ないね」
 早奈美ちゃんは憑き物が落ちたようにすっきりした顔で笑っていた。


「じゃあ、私とカンヴァスのお二人はこのへんで失礼しますね」
「そうですね。流石にそろそろお邪魔みたいなんで……杜羽子さんも、ほら」
「あ、うん」
 しばらく間の後、早奈美ちゃんと都築君に促され、わたしは慌てて立ち上がる。
 どこか申し訳なさそうな様子のジュン君、みきさん、亜紀ちゃんに見送られ、わたし達はマンションを後にした。


「待って、早奈美」
 ……はずが、玄関を出て階段を降りようとしたところで、後ろから走ってきた亜紀ちゃんに止められた。

「あたしからも一言だけ、いいかな。……友達としてのアドバイスなんだけど。いい?」
「私に? いいよ、勿論」
 早奈美ちゃんの答えを聞いて、亜紀ちゃんはどこかほっとしているように見えた。
 友達であることを否定されなかったからかな、と勝手に推測してみる。みきさんを想ってのこととはいえ、彼女が早奈美ちゃんに意地悪をしたことは確かだったから。

「ああいう男はやめといた方がいいと思うよ。横で聞いてて思ったんだけど、たぶんヘンな人だからさ」
 あんまりな言い草に、早奈美ちゃんがぷっと吹き出す。
「それ、みきさんにも言わなくていいの? 妹としてのアドバイスってことで」
「それは……いいかな。本人が幸せそうだから、仕方ないよね」

 早奈美ちゃんと亜紀ちゃんは、何がそんなに可笑しいのか二人でひとしきり笑い合った後、出てきたばかりのマンションの三階を眩しそうに見上げた。

 * * *

「結局元さやに収まったんだ? 気持ちを伝え合って、未練が無くなったオバケの女性は成仏して……みたいな結末を想像していたのに」
「ですよね。そもそも、みきさんにそう大きな未練があるようには見えませんでしたが」
「まあ、必ずしも成仏するのが幸せってわけじゃないか。何はともあれ、落ち着くべきところに落ち着いたようで良かった。俺の店での出会いがきっかけで不幸になるお客様がいたら、やりきれないからね」
「俺の店、ってわりにはほとんど店にいないじゃないですか」
「二階に住んでるわけだから、実質毎日いるようなものだと思うんだけど。……ところで今日、稲見さんはどうしてあんなに元気がないの?」
「さあ。自分のせいでさなみんを無駄に傷つけちゃった、とでも思ってるんじゃないですか? そんなことないってずっと言ってるんですけどね、俺は」

「聞こえてるよ。その通りだよ」

 ジュン君と早奈美ちゃん、さらには鬼塚姉妹にまつわる一件がひと段落してから、今日で三日目になる。

 気にしないように努めてはいたけれど、やっぱり……自分の余計な一言が早奈美ちゃんを傷つけてしまったのではないか、ジュン君とみきさんに余計な気遣いをさせてしまったのではないかという罪悪感が、わたしの心にわだかまりを残していた。
 特に今日は、午後から店に出ていたオーナーが閉店準備の最中に話を聞きたがり、都築君が臨場感たっぷりに顛末を語ったりなんかしていたから、なおのこと。

「稲見さんは別に、悪いことなんて何もしてないと思うけどね。最後に告白することを選んだのは早奈美さん自身なんでしょ? それで淳君と実希さんの仲に亀裂が入ったってわけでもなさそうだし」

 オーナーのフォローにお礼を言おうとしたところで、ドアチャイムが鳴った。

 あれ、準備中の札をかけ忘れていただろうか。
 そう思って入り口を見ると、当然カンヴァスの閉店時間なんて知っているはずの、早奈美ちゃんと亜紀ちゃんが私服姿で立っていた。

「さなみんと亜紀さん。どうしたんですか、こんな時間に?」
「え。お昼頃に連絡したよね」
 都築君が尋ねて、早奈美ちゃんが訝しげに言う。
「聞いてない? 確か、都築君じゃない男の人が出てくれたんだけど……」
「ええ? それって」
「俺じゃないよ」
「いや、お昼ってことは店長か。素で忘れたんだろうな」
 都築君が一瞬もの言いたげにオーナーを見たが、否定の言葉を待たずしてひとり納得する。

「そりゃ、どうもすみませんでした。どうしたんですか?」
「こちらこそ、お片付け中にごめんね」

 店内の状況を見てか、早奈美ちゃんが申し訳なさそうに声を潜める。
 すると彼女以上に申し訳なさそうな顔をしていた亜紀ちゃんが、オーナーを見て目を丸くした。
「ん? あんな格好いい店員さん、前からいたっけ」
「本当だ。もしかしてオーナーさん?」
「ええまあ。言っときますけどこの人、俺の倍以上の歳ですよ」

「どうも。お二人とも、どんなご用件で?」
 何故か不貞腐れている都築君と楽しげな女子高生二人に挟まれたオーナーが、特に謙遜することもなく尋ねる。

「そうでした。邪魔にならないようすぐに帰るので、少しだけ。お礼を言いにきたんです。杜羽子さんと都築君と、それからせっかくなので、オーナーさんにも」
「わたし達に?」
「はい。このお店でジュン君と出会えたことと……色々まとめて、皆さんにありがとうって言いたくて」
「そんな。わたし達なんてむしろ、早奈美ちゃんに謝らなくちゃいけないくらいの立場なのに」
「そんなことありません。この一か月くらいの出来事のおかげで、私、ちょっと強くなれた気がするんです。亜紀ちゃんとも前以上に何でも話せる仲になれそうだし」

 早奈美ちゃんのまん丸な目が、わたしを真っ直ぐ見つめる。

「最後の最後に、私の背中を押してくれてありがとうございました。おかげで後悔を残さずに済みました」

 ほんの少しぼやけた視界の隅で、都築君が安心したように笑った気がした。
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