六、少女と青年とオバケ・2

文字数 1,742文字

 決して長くはない廊下の奥の、七畳ほどの居室にひとり。
 部屋着には見えない清楚なブラウスをまとい、肩までのダークブラウンの髪を外巻きにした、すらりと長い手足の女性――以前と何ら変わらぬ姿のみきさんが、誰かを待つようにぽつんと立っていた。

 彼女の背後にある、ベッドとは別個に用意された布団や折り畳み式のテーブルといった、ひとり暮らしの部屋に二人が住むために用意されたであろうものたちは、何ひとつみきさんを通り越して見えたりはしていない。彼女は透けることなく、確かにそこにいる。

 それはきっと、亜紀ちゃんを除けば真っ先にこの部屋へと足を踏み入れた……彼の影響なのだろう。

「みき」

 彼はすぐに、彼女の名前を呼んだ。
 けれど彼女は、同じようにはしなかった。

「本当に、来たのね」
 代わりに、心苦しそうにうつむきながらそう言った。

「どうしてももう一度、君と会って話したかったから……無理を言ってごめん」
「逃げるような真似をして、謝らないといけないのは私の方よ。ううん、それだけじゃない」


「……俺達は座っときます?」
「いいけど、狭いですよ」
 立ったまま話し始めてしまった二人を見ながら、都築君が亜紀ちゃんに小声で尋ねる。
 突っ込める雰囲気ではなかったので、間髪入れず座り込んでいた彼に続いて、結局わたしと早奈美ちゃんもカーペット上に腰を落ち着けることになる。


「聞いたでしょう? 淳。私はずっと、あなたに嘘をついていた。私、生きた人間じゃないのよ。あなたの恋人でいる資格なんてなかったの」
「僕が君に『実はオバケなんじゃない?』なんて聞いたことは一度もないよ。君が嘘をついたんじゃなくて、ただ僕が気づかなかっただけだ。君がついた嘘なんて、生年月日と苗字くらいだろ」
「それにしたって結構重大でしょう」
 みきさんは呆れたように笑って、顔周りの髪をそっと耳に掛けた。

「いえ、問題は嘘をついたかどうかじゃないわ。普通の人と同じように暮らすためにあなたを利用したこと、挙句にあなたを傷つけたこと、無駄な時間を使わせたこと。全部実際にあったことで、私があなたに謝るべきことよ」
「利用されたとして、それで僕が困ることは何もない。自分の体質が君の役に立ったっていうなら嬉しいくらいだ。僕が傷ついたとすれば曖昧な理由で君に別れを告げられたときで、君がオバケだと知ったときじゃない。無駄な時間なんて少しもなかった。僕はずっと、君といて楽しかったよ」

 ジュン君の勢いに、みきさんは怯んだように押し黙って唇を噛む。

「君が考えている僕の不都合は、きっと全部気のせいだ。そういうことにしよう。だったら君がこれから先、僕と一緒にいられない理由って何?」
「気のせい、って……私、オバケなのよ」
「らしいね。でも今までだってそうだったんだろ? ほんの少し前まで、僕達は確かに付き合っていたはずだ。なのにこれから先は駄目な理由って、あるのかな」

「少し前までは……あなたがそのことに気付かなかったから、普通のカップルみたいにいられただけでしょう。今は知ってる。これから先は、今まで通りじゃいられない」

 どこか怒っているみたいな口調でそう言ったみきさんは、ジュン君から目を逸らすように床を見た。
 眉を少しだけ下げながらその様子を見守っていたジュン君が、しばらくの間の後に口を開く。

「……君がオバケだと聞いて、随分考えたんだ。今までどうして、そのことに気づけなかったんだろうって」

 みきさんの口が、謝罪の言葉を紡ごうとするのをわたしは確かに聞いた。けれどその言葉は意味をなす前に、ジュン君の声に上書きされる。

「さっき分かった、それは何も問題なかったからだ。君がオバケでも」
「えっ?」
 みきさんらしくない、失礼な言い方をすれば素っ頓狂な声が定員オーバー気味の部屋に響く。

「オバケでも、君の姿はこの部屋の皆に見えている。触れることもできるんだよね? 僕が近くにいる限り。なら、君がオバケであることは僕にとっては障壁でも何でもない。だって一年間も気づかなかったんだから」
「ま、待って。今まではそうだったってだけで、問題はこれから沢山出てくるはずよ」


「……ジュンさんってあんなに饒舌でしたっけ」
 都築君がこちらを見ながらぼそりと呟く。やめて、そういうの。
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