【伍ノ伍】

文字数 1,389文字

「ゆうっ、ゆうっ! これはなんだ、何があったっ? ゆう、ゆう! こっちを見なさい。母さんは、母さんはどうした? ……ゆうっ! くそ……一体何が……」
「……」
「あ、お夕飯時に失礼します、相原です。……はい、はい。静が。はい、居なくて……ゆうだけが……はい。では、はい、クルマで。はい、今からまいります」
「……」
「ゆう、今から樫田さんの所へ行く。こっちを見なさい。いいか、もう安全だからな。もう大丈夫だから。……だから。……すまない」

『すまない』

 十一年前、初夏、夜。大祇村に隣接する岩手県Y市総合病院。
 一階、ロビー。ばたばたばたと駆け込んできた毅を、総合案内の医療事務の女性が見る。

「あの、はあ、はあ。……相原です、妻が緊急搬送されたと聞きまして」
「奥様のお名前よろしいですか? ……少々お待ちください」

 婦人科の看護師らしい女性が、毅を呼んでいる。

「相原……静さんですね。流産の手術のため緊急入院されています」
「流産……手術……?」
「申し訳ございませんが妊娠十三週での子宮内胎児死亡ですので、四、五日の入院が必要になります」
「胎児死亡……? もう、それは決まってるんですか?」
「……はい、そうですね。胎児は亡くなられています」

 毅は口を押さえた。

「お悔やみ申し上げます。病棟は、C棟の六階、六〇三です」

「静っ!」
「ごめんなさい。ごめんなさいあなた。赤ちゃん……もう……死んじゃってるみたいなの……」
「俺の方こそすまない。かけつけるのが遅くなった」
「ごめんなさい……」
「すまない……静……すまない……」

『すまない』

 三ヶ月後、自宅、夫婦の寝室、朝。

「静。今日も起きれなさそうか」
「……ごめんなさい」
「もう三ヶ月だ。そろそろ立ち直らないと……」
「もう……ですってっ? まだ、まだ三ヶ月しか経ってないのよっ?」
「すまない……」
「本当なら今頃お腹が大きくなって、お腹の中で私をけってるはずだったのよっ!」
「すまない」
「あなたはいいわよ、学校に行けば子供たちに囲まれて全部忘れて仕事ができる。暗い部屋にいる私の気持ちなんて、わかるはずがないじゃないっ!」
「……すまない……」

『すまない』

 三ヶ月後、冬、帰宅中、夕方。
 がさっ、がさがさっ。

「誰か? そこに誰かいるのか?」
「……欲シイカ……子供ガ……欲シイカ……」
「何を言ってる?」
「明日 大祇神社ニ 礼拝セヨ……子供ヲ授ケヨウゾ……ソノ代ワリ、対価ヲ モラウ」
「何だって? おい! おい!」

 翌日。大祇神社仮本殿横。

「おぎゃあ。おぎゃあ」
「あなた、見て、ほら、赤ちゃん……神様が下さったんだわ……おおかみの神様が」
「でも静……この子の本当の持ち主が……すまないだろう」
「そんなことありません! この子は今日から私たちの子供よ!」
「おぎゃあ。おぎゃあ」
「……よそう。警察に届けよう」
「何言ってるのっ! 絶対、絶対嫌よ! この子は、この子はもう私の! 絶対に手放すもんですか」
「でも、対価が……」
「……? なんですって?」

『すまない』

「静、しっかりしろ、静!」
「あなた……この子を……」
「取リ戻シタイカ? ……対価ヲ……? ナラバ」

『すまない』

「ゆう、しっかりしろ、ゆう!」
「お父さん……?」

 樫田のおじい様の家。娘は、いや、息子は目を覚ました。

「……すまない」
「お父さん、いつも謝ってるね」

 そう言って、息子は男の目に浮かぶ涙をぬぐった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み