第2章(10)お魚さんありがとう
文字数 2,998文字
同時刻、戦闘が行われている辺りから西へ進んだ海上。
一艘の小舟がぽつんと浮かび、乗っている二人の人間が海へ釣り糸を垂らしていた。
小舟から少し離れたところに黒い棒のようなものが海から突き出ている以外辺りには何も無い。
遠目には漁師の舟のように見えなくもないが、手漕ぎの小さな舟で来るには陸から遠いし、舟の中には釣った魚を保管する氷入りの箱と一緒に、まだ各国政府や軍でも一部にしか配備されていない人が携帯可能な小型通信機が積んであった。
「ナターシャさんとシャンタニさん、大丈夫かな……」
釣り人の一人、のどかは釣竿を握ったまま内心の不安を漏らした。
ちなみに先ほどから釣り糸はまるで反応が無い。
「おいおい、そんな辛気臭い顔して海を睨んでたらよ、魚も怖がって近付きゃしないぜ。シースーのためにもっと笑え、のどか」
隣で呑気なことを言っているのはディータ、こちらも今のところ釣果は無しだ。
「……シースーじゃなくてお寿司です。それとお寿司は作れないです、『エピメテウス』にお米が無くて」
のどかが返事をすると、ディータは派手にずっこける。
「マジか! 楽しみにしてたのに! ってか、米がねえとシースーってのは作れねえのか、知らなかったぜ!」
本当に何も知らずに言っていたらしい。
のどかは深く溜め息をついた。
「……お醤油の代わりになるものは見つかったので、お刺身を作ろうかと思っています。ヤマトから柳刃とまな板も持ってきましたし」
「魚をバラすならこいつに任せな」
そう言ってディータは腰にさした例の短刀を叩いた。
「そういえば、ディータさんのその刀変わった形ですよね」
「こいつはククリっていってな。バーラトの東の国境の山に住んでる部族の工芸品だ。昔そこの村で世話になった時に貰ったのさ。戦いが無ければ畑仕事にでも使える優れもんだ。魚を三枚におろしたりもできるぜ」
「あはは……そうですね、釣ったお魚を締めるのには使えると思います」
ディータが抜いてみせた分厚い刀身を見て、のどかは遠慮がちではあるがククリを料理で使うのを辞退した。
のどかの母国ヤマトでは、料理を『割主(かっしゅ)烹従(ほうじゅう)』という言葉で言い表す。
主である『割』とは食材を切るのみ、生で供すること。従である『烹』とは加熱すること。
すなわち、ヤマト料理の本分とは包丁一本の勝負であり、切るだけで単なる食材を食材以上の美味へと昇華させることが極意なのである。
そのためヤマトの包丁は伝統的に、世界で一般的な両刃ではなく、魚の肉を潰さないよう切れ味を良くするために使い易さを犠牲にして片刃になっている。
ただ切ればいいというわけではないのだ。
「そういえば、ディータさんってどこのご出身なんですか?」
ククリの話を聞いていてふと気になったので、のどかは訊ねた。
見た目からして東方系ではあるが、具体的な出身地はまだ教えてもらっていなかった。
「はは、あたしの国か? 聞いてもつまんねえぞ?」
ディータはククリを鞘に戻しながらそういって笑った。
「ええ~つまんなくないですよ、知りたいです」
「仕方ねえな……アガルタっていう辺鄙で小せえ国さ」
「アガルタ……ですか?」
のどかは首をひねった。
世界地理は寺子屋で一通り教わったが、聞いたことの無い国名だったからだ。
ディータは構わず続ける。
「住んでる連中はやたら信心深くてな。坊さんを敬い、おシャカ様を拝むのが日課で、争いはしねえときたもんだ」
「何だか、ディータさんの印象とだいぶ違いますね」
「おいおい、どういう意味だそりゃ! ……まあでも、そうかもしれねえな。そんなだから、隣のでかい国に滅ぼされて無くなっちまった。今はもう跡形もねえ」
ディータが最後の一言をいつもの軽口をたたく時と同じような口調で言ったので、のどかは危うく気付かないところだった。
「?……! ご、ごめんなさい!」
レーネと話した時といい、どうもここへ来てから余計なことを訊いて失敗してばかりのような気がする。
しかしディータは笑って首を振った。
「気にすんなよ、もうだいぶ昔の話さ。あたしもふっ切れられなくて長いこと自暴自棄になってたんだけどな、ある時親切な人がこう言ってくれたんだ。今の自分を大事にしろ。終わったことはもうどうにもならないから、何かするなら目の前の困ってる人のためになることをしろ、ってな」
その時のことを思い出したのか、釣り糸に向けられたディータの目はどこか遠くを見ていた。
「……それで『フォレスタ』に?」
「どうだかな。……っといけねえ、ひとに注意しといて、てめぇが辛気臭え話しちまってたら世話ねえよな、だっはっは!」
頭をかきながら馬鹿笑いをするいつものディータに戻る。同時に、のどかの釣り糸がびくんと動いた。
「わわっ、きました!」
のどかの釣竿が大きくしなっている。
大物が食いついたようだ。
「すごい引きです!」
「よし引っ張るぞ! せーのっ!」
二人は力を合わせ、小舟をひっくり返しそうになりながらも、かかった魚を何とか釣り上げた。
「ふう……お、こいつはデニスだな、北洋じゃちょっとした高級魚だぜ」
「ヤマトでとれる鯛によく似てます、きっと美味しいですよ! ……あ、そんなに触らないで下さい。魚が苦しんで味が落ちます」
釣った魚を持ち上げようとするディータをのどかが止めた。
「釣ったらすぐに締めて血抜きをしてあげないといけないんです。ディータさん、さっきの刀を」
「お、おお」
のどかは受け取ったククリの切っ先を「えいや!」と女の子らしくない掛け声と共に魚のエラの横に一気に突き通し、延髄を破壊して魚を即死させる。
ビキビキと痙攣する魚の今度は尾の付け根を刺して神経を完全に切断し、魚を軽く折り曲げて血を海に流す。
終始慣れた手つきで、ディータは目を丸くしてそれを見守る。すっかりいつもと立場が逆だ。
「お魚さん、ありがとう。みんなで美味しく食べるからね、成仏してね」
最後に氷の入った箱に丁寧にしまうと、のどかは魚に合掌した。
その真剣な横顔にも、ディータはただただ恐れ入るばかりだ。
「……? どうしましたかディータさん。あ、ひょっとしてわたしの顔何かついちゃってますか?」
「いや、なんつーか……人は見かけによらないものだなーと……」
ディータが感心していた時。通信機にザザッという雑音と共に声が飛び込んできた。
〈……ちら『ガルーダ』一番機ナターシャ・スミルノワ少尉、救援を要請します! 繰り返します、『エピメテウス』、こちらナターシャ・スミルノワ少尉、救援を……〉
ディータはがらりと真顔になって通信機に飛びつく。
「あたしだ。何があった!」
〈中佐殿! メルワ准尉の二番機が……〉
ナターシャの緊迫した声。
だが途中から雑音に遮られ、はっきりと聞き取れない。
「のどか!」
ディータの指示で、のどかは赤い旗を取り出すと、海から突き出た棒のようなもの……潜望鏡に向かって何度も振る。
海が黒く盛り上がり、潜望鏡深度で待機していた『エピメテウス』がその姿を現わした。
一艘の小舟がぽつんと浮かび、乗っている二人の人間が海へ釣り糸を垂らしていた。
小舟から少し離れたところに黒い棒のようなものが海から突き出ている以外辺りには何も無い。
遠目には漁師の舟のように見えなくもないが、手漕ぎの小さな舟で来るには陸から遠いし、舟の中には釣った魚を保管する氷入りの箱と一緒に、まだ各国政府や軍でも一部にしか配備されていない人が携帯可能な小型通信機が積んであった。
「ナターシャさんとシャンタニさん、大丈夫かな……」
釣り人の一人、のどかは釣竿を握ったまま内心の不安を漏らした。
ちなみに先ほどから釣り糸はまるで反応が無い。
「おいおい、そんな辛気臭い顔して海を睨んでたらよ、魚も怖がって近付きゃしないぜ。シースーのためにもっと笑え、のどか」
隣で呑気なことを言っているのはディータ、こちらも今のところ釣果は無しだ。
「……シースーじゃなくてお寿司です。それとお寿司は作れないです、『エピメテウス』にお米が無くて」
のどかが返事をすると、ディータは派手にずっこける。
「マジか! 楽しみにしてたのに! ってか、米がねえとシースーってのは作れねえのか、知らなかったぜ!」
本当に何も知らずに言っていたらしい。
のどかは深く溜め息をついた。
「……お醤油の代わりになるものは見つかったので、お刺身を作ろうかと思っています。ヤマトから柳刃とまな板も持ってきましたし」
「魚をバラすならこいつに任せな」
そう言ってディータは腰にさした例の短刀を叩いた。
「そういえば、ディータさんのその刀変わった形ですよね」
「こいつはククリっていってな。バーラトの東の国境の山に住んでる部族の工芸品だ。昔そこの村で世話になった時に貰ったのさ。戦いが無ければ畑仕事にでも使える優れもんだ。魚を三枚におろしたりもできるぜ」
「あはは……そうですね、釣ったお魚を締めるのには使えると思います」
ディータが抜いてみせた分厚い刀身を見て、のどかは遠慮がちではあるがククリを料理で使うのを辞退した。
のどかの母国ヤマトでは、料理を『割主(かっしゅ)烹従(ほうじゅう)』という言葉で言い表す。
主である『割』とは食材を切るのみ、生で供すること。従である『烹』とは加熱すること。
すなわち、ヤマト料理の本分とは包丁一本の勝負であり、切るだけで単なる食材を食材以上の美味へと昇華させることが極意なのである。
そのためヤマトの包丁は伝統的に、世界で一般的な両刃ではなく、魚の肉を潰さないよう切れ味を良くするために使い易さを犠牲にして片刃になっている。
ただ切ればいいというわけではないのだ。
「そういえば、ディータさんってどこのご出身なんですか?」
ククリの話を聞いていてふと気になったので、のどかは訊ねた。
見た目からして東方系ではあるが、具体的な出身地はまだ教えてもらっていなかった。
「はは、あたしの国か? 聞いてもつまんねえぞ?」
ディータはククリを鞘に戻しながらそういって笑った。
「ええ~つまんなくないですよ、知りたいです」
「仕方ねえな……アガルタっていう辺鄙で小せえ国さ」
「アガルタ……ですか?」
のどかは首をひねった。
世界地理は寺子屋で一通り教わったが、聞いたことの無い国名だったからだ。
ディータは構わず続ける。
「住んでる連中はやたら信心深くてな。坊さんを敬い、おシャカ様を拝むのが日課で、争いはしねえときたもんだ」
「何だか、ディータさんの印象とだいぶ違いますね」
「おいおい、どういう意味だそりゃ! ……まあでも、そうかもしれねえな。そんなだから、隣のでかい国に滅ぼされて無くなっちまった。今はもう跡形もねえ」
ディータが最後の一言をいつもの軽口をたたく時と同じような口調で言ったので、のどかは危うく気付かないところだった。
「?……! ご、ごめんなさい!」
レーネと話した時といい、どうもここへ来てから余計なことを訊いて失敗してばかりのような気がする。
しかしディータは笑って首を振った。
「気にすんなよ、もうだいぶ昔の話さ。あたしもふっ切れられなくて長いこと自暴自棄になってたんだけどな、ある時親切な人がこう言ってくれたんだ。今の自分を大事にしろ。終わったことはもうどうにもならないから、何かするなら目の前の困ってる人のためになることをしろ、ってな」
その時のことを思い出したのか、釣り糸に向けられたディータの目はどこか遠くを見ていた。
「……それで『フォレスタ』に?」
「どうだかな。……っといけねえ、ひとに注意しといて、てめぇが辛気臭え話しちまってたら世話ねえよな、だっはっは!」
頭をかきながら馬鹿笑いをするいつものディータに戻る。同時に、のどかの釣り糸がびくんと動いた。
「わわっ、きました!」
のどかの釣竿が大きくしなっている。
大物が食いついたようだ。
「すごい引きです!」
「よし引っ張るぞ! せーのっ!」
二人は力を合わせ、小舟をひっくり返しそうになりながらも、かかった魚を何とか釣り上げた。
「ふう……お、こいつはデニスだな、北洋じゃちょっとした高級魚だぜ」
「ヤマトでとれる鯛によく似てます、きっと美味しいですよ! ……あ、そんなに触らないで下さい。魚が苦しんで味が落ちます」
釣った魚を持ち上げようとするディータをのどかが止めた。
「釣ったらすぐに締めて血抜きをしてあげないといけないんです。ディータさん、さっきの刀を」
「お、おお」
のどかは受け取ったククリの切っ先を「えいや!」と女の子らしくない掛け声と共に魚のエラの横に一気に突き通し、延髄を破壊して魚を即死させる。
ビキビキと痙攣する魚の今度は尾の付け根を刺して神経を完全に切断し、魚を軽く折り曲げて血を海に流す。
終始慣れた手つきで、ディータは目を丸くしてそれを見守る。すっかりいつもと立場が逆だ。
「お魚さん、ありがとう。みんなで美味しく食べるからね、成仏してね」
最後に氷の入った箱に丁寧にしまうと、のどかは魚に合掌した。
その真剣な横顔にも、ディータはただただ恐れ入るばかりだ。
「……? どうしましたかディータさん。あ、ひょっとしてわたしの顔何かついちゃってますか?」
「いや、なんつーか……人は見かけによらないものだなーと……」
ディータが感心していた時。通信機にザザッという雑音と共に声が飛び込んできた。
〈……ちら『ガルーダ』一番機ナターシャ・スミルノワ少尉、救援を要請します! 繰り返します、『エピメテウス』、こちらナターシャ・スミルノワ少尉、救援を……〉
ディータはがらりと真顔になって通信機に飛びつく。
「あたしだ。何があった!」
〈中佐殿! メルワ准尉の二番機が……〉
ナターシャの緊迫した声。
だが途中から雑音に遮られ、はっきりと聞き取れない。
「のどか!」
ディータの指示で、のどかは赤い旗を取り出すと、海から突き出た棒のようなもの……潜望鏡に向かって何度も振る。
海が黒く盛り上がり、潜望鏡深度で待機していた『エピメテウス』がその姿を現わした。