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セントラムで『
魔性病』が
蔓延する前日、フォンス邸
別邸には大陸平和維持軍の国土開発支援第1部隊が訪れていた。
ラ・クリマス大陸の2大交易都市の1つとして知られるメンシスが突然の竜巻被害に
遭い、貿易港としての機能を一夜にして喪失してしまった関係で、大陸議会はメンシスに
繋がる流通経路を首都近郊のソリス港へ一時的に集約する措置を
執らなければならなくなっていた。
それは大陸東部で営まれていた対外的な取引をほぼすべて西部に移すことと同義であり、やむを得ない事態とはいえ生半可な整備ではなかった。それでも大陸議会は早急に国土開発支援部隊を追加編成し、流通網の再構築のため大陸各地へ迅速に出動させていた。
大陸中央部で農産物の多大な生産量を誇るセントラムでは、基本的にフォンス
伯爵の
下で出荷する商品を一括して取り
纏めており、
予てよりソリスとメンシス双方に取引があった。
ただ単純に物量が多いこともあり、今後
暫くのソリス港への出荷量や日程調整について検討する必要があった。
そのため朝から邸宅内は
忙しなく、フォンス
伯爵や使用人長レピアをはじめ従者は
皆大陸軍への応対に追われていた。
そんななかロキシーは、猫の手も借りたいはずの邸宅内から1人外へ追いやられ、庭園の管理に従事させられていた。
何か罰を受けたわけでもなく、確かに1人くらいはそうした役割も必要だったのかもしれないが、
既に朝方整えられたばかりの草花を前に新たな仕事を
見出すことには早くも限界を感じていた。
巡回する警備員を模倣するように
暫しの間庭園を
彷徨いていたが、ロキシーは
不図隅の方で
佇んでいる1人の女性に気が付いた。
長い黒髪がすらりとした上背を
覆っており、朱色を基調とした軍服から、来訪している国土開発支援部隊の者だと容易に
判ったが、
何故かその女性は退屈そうにリンゴを
齧っていた。
ロキシーは思わず身を
潜めてその様子を
訝しんでいたが、当の女性にはあっさりと気配を察知されてしまっていた。
「そこの使用人さん、ちょっといいかな。」
案の
定声を
掛けられてしまい、ロキシーは
渋々女性の前へと歩み寄った。
恐る恐るその女性の顔を見上げると、銀縁の眼鏡の奥から
覗く
黄金色の瞳に視線を奪われた。
まるで蛇を思わせる鋭い眼光に、ロキシーは口も開けず立ち
竦んでしまった。
その反応を面白がるように、黒髪の女性は食べかけのリンゴを視線の間に挟み込んできた。
「これ、美味しいから食べてみてよ。」
そう言った矢先、
徐にリンゴを手放してきたので、ロキシーは慌ててそれを落とすまいと両手で受け止めた。
食べかけのリンゴを手渡された経験は、実の母親からあったかどうかすらも怪しかった。
だがその女性からの暗黙の圧力を感じ、
居た
堪れない心情を
誤魔化すように仕方なくそのリンゴを小さく
一齧りした。
瑞々しい果肉に甘露な蜜が染み渡った、心地よい風味をしていた。
「この街で
貰ったやつなんだけど…どこの果樹園で
貰ったと思う?」
黒髪の女性が気さくに繰り出す会話の意図が見えなかったが、
咀嚼を終えたロキシーは少し考えた
後、小さく答えた。
「…
伯爵の奥様が本邸で育てられているものだと思います。」
「へぇ、正解だよ。
流石だね、やっぱりそういうの
解るものなんだね。」
予期しない称賛を受け、ロキシーは
益々委縮して
怪訝な表情を浮かべた。それを見た黒髪の女性は、腕を組んで何か思い出したように言葉を続けた。
「ああ、そういえば名乗っていなかったね。私は国土開発支援第1部隊隊長、ルーシー・ドランジアだ。」
「怖がらせてしまってすまない、
黄金色の瞳は珍しかっただろう。この大陸の民の瞳は茶系統の色が一般的だからね。君のは…どちらかといえば黒っぽいかな。」
ルーシーと名乗る女性の
黄金色の瞳にまじまじと
覗き込まれたロキシーは、またほんの
僅か硬直したのち我に返り、高官に対し
不躾な態度をとっていたことを謝罪するかのように一礼して
辿々しく口走った。
「し、失礼いたしました…ロキシー・アルクリスと申します…本日は遠路
遥々お越しいただきまして…。」
「ああ、いいよいいよ、その
挨拶はもう何度も聞いたし。」
ぶっきらぼうに手を振るルーシーを前にロキシーは恐縮しながらも、
何故隊長格の軍人が庭園の隅に1人
佇んでいたのか疑問に思わずにいられなかった。
今まさに邸宅内では、
伯爵と大陸軍が協議を進めている最中なのである。
「ああいう細かいことは下の奴らに任しておけばいいのさ。そうでもしないと部下も育ってこないしね。」
だがルーシーはその当然の疑問を見透かしたように、庭園の奥に見える邸宅を
眺めながら
呟いてみせた。
「でも私だってただ油を売っているわけじゃない。確かに我々はセントラムからメンシス方面に出荷されていた品々を、今後どのように
捌いていくかについて協議するために訪問した。」
「だが逆もまた
然り、メンシスからセントラムに流れていた品々についても
隈なく見直して、従来通り行き届くよう調整していかねばならないのさ。とはいえ
伯爵らも忙しく、正直そこまでの調査にはなかなか手を回してもらえないんだがね…。」
ロキシーはルーシーの独り言のような業務事情を
茫然と拝聴していたが、徐々にその雲行きが怪しくなってきていることを察し始めていた。
「研究熱心な
伯爵は海外からも栄養剤を取り寄せていたらしいのだが…流通網の厚いソリス港経由ではなく、以前から
態々輸送費用を余分にかけてまでメンシス港から買っていたそうなんだ。陸路では確かにメンシス港の方が近いだろうが、総合的な費用対効果を勘案するならソリスから買った方が断然安上がりだ。メンシスに
贔屓にしている商人でもいるのかもしれんが…。」
食べかけのリンゴを支えるロキシーの両手は、少しずつ汗ばんできているようだった。
——嫌な予感がする。思い返してみれば、大陸軍がこれほど深くセントラムの流通事情に介入してくることなんてなかった。この人は
昨今の社会情勢を逆手にとって、この邸宅に探りを入れようとしているんじゃ…?
そうして間もなく自分に降り掛かるであろう嫌疑を予見できているのに、ロキシーは見えない何かに巻き付かれ拘束されているかのように
身動ぎ一つ叶わなかった。
「実はメンシス港は密輸品が多く
罷り通っていたことでも知られていてね…フォンス
伯爵が買っている栄養剤の中にも、
農業用とは異なる怪しい栄養剤
が混在しているという噂があるんだ。違法薬物というやつだね。…ロキシー、使用人の君は何かそういう怪しい物を見かけたことはないかい?」
ルーシーの
黄金色の瞳が再び呑み込むように迫り、ロキシーはまさに蛇に
睨まれた蛙と化していた。
露骨すぎる
詮索に、まるで何もかも見透かした上で
言質を取ろうとしているように思えてならなかった。
——私、怪しまれているの…? いや、大丈夫、こんな私的な問いかけに否定したとしても、後で何も
咎められる
謂れはないはず…。
己が身を護ることで必死だったロキシーは困惑した表情を取り繕い、小刻みに首を横に振るって
応えた。
傍から見れば一介の若き使用人が、
伯爵の隠し事を知る由もないだろうと捉えてくれることを切望した。
何より、母レピアからは当の薬物について絶対黙秘を命じられていた。
「…そうか。いや、物騒な質問をして悪かったな。…やはりこういう話は、君のお母様にこっそりお
伺いを立てた方が良さそうだな。」
半笑いを浮かべながら改めて邸宅の方を眺めるルーシーに対し、緊張から解放されたはずのロキシーの内心はまだ
騒めいていた。
そして
逸るあまり外部者に本当の姓を名乗ってしまった事実を、今になって後悔していた。
「だがこれは決して冗談半分という話ではないんだ。メンシス港が突然機能を停止したが
故に、流れ着いた密輸品を取り締まることは困難になってきている。大陸議会側の捜査体制が確立されるまでに、証拠隠滅を
謀る十分な
猶予が生まれてしまっているんだ。」
「取締対象として列挙されている違法薬物は十数に上るが…特に問題視されているものの1つは『ミシェーレ』と呼ばれている薬だ。俗に言う、事前避妊薬ってやつだよ。」
ルーシーは改まってロキシーに探りを入れるわけではなく、再び世間話を言い聞かせるように
喋り続けていた。
しかし
敢えて『ミシェーレ』を話題に掲げること自体に明確な意図を感じ、ロキシーは
未だに
睨みを
利かせられているような気がしていた。
掌が更にべたついてきているのが
解った。
「別に事前避妊そのものの是非が議論されているわけじゃない。『ミシェーレ』の問題点は2つある。1つは確実性の高い避妊効果
故に、繰り返し乱用することで
妊孕性自体を喪失する危険性があること。もう1つは、服用者が一時的な
昏蒙に
陥ることだ。」
「これらは副作用の定義を
最早逸脱している。簡単に言えば女性の思考力や抵抗力を奪って男に都合の良い性交渉を実現させる、非倫理的で不道徳で最高に
反吐が出る薬というわけだ。」
ロキシーはまるで説教を聞かされる子供のように、目を伏せて沈黙していた。
『ミシェーレ』による
妊孕性への影響は知らなかったが、
昏蒙と呼ばれる症状については
最早日常
茶飯事の体験であった。
全身が
熱り、思考が
鈍って何もかもどうでも良くなり、
為されるが
儘になる。
それはそれで不快感や
羞恥心を
有耶無耶にさせる都合の良い効用なのだと、
軈て自分を納得させていた。
——それもまた務めだから、仕方ないことなの。そうすれば
曰くつきの私も母も、路頭に迷わず温かな
寝床と満足な食事を与えてもらえるから。
——それが客観的に見ていかに非倫理的で不道徳であったとしても、そういう愚かしい手札しか持ち合わせていないというさもしい現実を、この気高そうな隊長さんは同情してくれるのかしら。
一方のルーシーは、
俯き
微かに身体を震わす若き女使用人を見下すと、その心証を推し量ったのか話題を転換して見せた。
「ロキシー、君は使用人だが奴隷ではないだろう。
故にちゃんと人間としての尊厳と権利が国の憲法で保障されている。君の目には、女性より男性の方が遥かに強い権利を持っているように見えているのかもしれない。それでも確かに、人間として男女は対等で平等の権利を持っているという理念があるんだ。」
「…いまから千年ほど前、この地に隕石が
墜ちて、ラ・クリマスの悪魔が女性に顕現するようになってからな。」