女使用人ロキシーの朝は早い。
ここ数日で身体に
気怠さが
募りつつあったが、
齢17にして領主貴族に仕える彼女は当然ながら従者のなかで最年少であり、
些細な疲労を理由に仕事を休むわけにはいかなかった。
薄っすらと明るみを増す部屋に反応して目覚めると、ゆっくり身を起こして窓を開けた。
棲み込みで働く邸宅から見渡す農業盆地セントラムは、今朝も霧に
覆われていて、
蓋をされているかのような圧迫感を覚えた。
胸元の露出した黒地のエプロンドレスに着替えて長い藍色の髪を手早く整えると、部屋を出て廊下の窓を開けて回った。
そしていつものように玄関口を掃除し、広々とした庭園の管理に従事した。ここ数日は来客がないが、庭園は領主の威厳や品格を表象するものであるからして、手を掛ける優先度が高いと考えていた。
それが一段落つくと、邸宅裏手にある
風蜂鳥の小屋に立ち寄り到着している伝書の有無を確認した。
帰巣本能が強いこの大陸特有の品種は、訓練させることで各地の貴族や大口の商人、大陸議会に至るまで迅速な文通を可能にしていた。
ロキシーは新たに届いていた数件の伝書を回収すると、厨房に立ち寄って簡単な朝食をとりながらその中身を
閲覧した。朝食は決まって固くなったパンとこの地方特産の果実、
淹れ直した紅茶であった。
そうしてまた次の仕事に取り掛かる…のだが、今朝は珍しく大陸平和維持軍から使用人長に
宛てた伝書が届いていた。
ロキシーはその文面を流し読みしていたが、末尾に記されていた差出人の名に思わず目が留まった。
『フォンス邸
別邸
使用人長 レピア・アルクリス殿
拝啓 先日セントラム一帯で発生したという不可解な伝染病において、領主を務められていたクレオ―メ・フォンス
伯爵の
訃報につき、大変
悼ましい想いであります。
現在もセントラムでは感染の拡大が続いていると聞き及んでおり…(中略)…新たに出動する救援部隊と
併せて、伝染病の原因を調査する者を派遣いたします。
このような状況下で大変
不躾ではございますが、ご協力いただきたくお願い申し上げます。この伝書が届く日中には、その者がフォンス邸
別邸に到着するかと存じます。
伝染病の早期収束のため、当方としても引き続き尽力させていただきます。 敬具
ラ・クリマス大陸平和維持軍
国土開発支援部隊 第1部隊長
ルーシー・ドランジア』
その肩書と名前を名乗る女性は5日前に部隊を引き連れてフォンス邸
別邸を訪れており、その際ロキシーは意図せず面識を持っていた。
彼女は
自らの業務を建前として、その裏で何かを
詮索しているようであったことを思い出した。
伝染病がセントラムで発生したのはその翌日からであり、領主であるクレオ―メ・フォンス
伯爵は朝の時点で
既に亡くなっていた。
その事実は駐屯している大陸軍が放った
風蜂鳥によって、大陸議会側に
直ちに知られ渡ったものと思われた。
だが知られ渡ったのは
その事実のみ
であり、伝染病について調査する者に
協力するよう
態々許諾を取り付けるような字面に、ロキシーは違和感を
抱かざるを得なかった。
領主が病死した緊急事態ならば、部隊長の権限でも行使して使用人長には調査を承知させるだけで充分なはずだからである。
ロキシーにはこの書面が、まるで伝染病の調査に
託けてフォンス邸
別邸へ家宅捜索に踏み込もうとするような通告に読めてしまい、伝書を
摘まむ指先が徐々に冷たくなっていった。
当時差出人の建前の姿しか見ていなかったであろう使用人長に、その
魂胆が読み取れるとも思えなかった。
——どうしよう。きっと大陸軍は私達の秘密に近付くつもりなんだ。それを暴かれたら……きっと生きた心地なんてしないわ。
だがその一方で、ロキシーはこの邸宅に留まり続ける動機が
軽薄なものであることを改めて思い知らされた。
物心付いた頃からこのフォンス邸
別邸の使用人だったが
故に、
他所に行く宛も頼る宛もないという消極的な理由だけで、今もこうして領主を失った邸宅に従事し続けていた。
自分はずっとこのままなのだろうかという虚無感を
伴う不安が、また少し
気怠い気分を増長させているようにも感じた。
——それでも、いま私のやるべきことは変わらない。
ロキシーは冷めてしまった紅茶を飲み干すと、伝書に記された調査員が訪れるまでに片付けるべき業務に取り掛かることにした。
ラ・クリマス大陸中央部のプディシティア州は、北部山脈から南方へ突き出るような
丘陵地帯が大部分を占めており、その中心に位置するセントラム盆地は大陸有数の農作物生産量を誇っていた。
特に
壊月彗星が接近する時期は決まって作物の実りも品質も良くなることで知られ、諸外国からも注目を集めていた。
その原因は気候条件に
因るものなのか、この地に湧き大きな湖として
湛えられる水の品質に
因るものなのか、土壌成分に特殊な性質があるのか、
未だにはっきりとは解明されていなかった。
それでも若くして領主の座を継いだクレオ―メ・フォンス
伯爵は、その勤勉さと野心を
以てセントラムの生産を20年以上取り仕切り、農業盆地として発展させていったことで知られていた。
地元の果樹園の娘と婚約し
一子を授かるも、領主としての業務に専念するため
別邸を設けたほどであった。
小高い丘に建つフォンス邸
別邸はセントラム一帯を見下ろせるその裏で、地場産の果実を熟成させた
醸造所も構えており、建物としては本邸よりも大規模な
館となっていた。
そのセントラムを、
突如として不可解な伝染病が襲った。一夜にして感染が拡大し、多くの住民が同時多発的に
罹患したと
駐屯する大陸軍は報じていた。
その病状は全身の
痺れや
痙攣、頭痛や呼吸器の痛みなどであったが、奇妙なことに性別や
齢で症状の重さがはっきりと分かれていた。
成人男性がとりわけ重症となる傾向にあり、
伯爵をはじめ命を落とす住民が相次いでいた。
一方で女性や子供は比較的軽症であったものの、満足に身体を動かせる者が多いわけではなく、大陸軍を
以てしても救護活動は困難を
強いられていた。
そんな不気味な状況が続くセントラムは、上空を分厚い霧で
覆われた3回目の朝を迎えていた。
午後になると沈黙する街中で、フォンス邸
別邸の建つ丘へ向かって
駆ける1台の馬車が姿を現した。
成人男性を中心に病に
冒されている事態とあって、経済活動が停滞したセントラムの街は
宛らジオラマのようで、その中を突っ切る馬車は
滑稽なほどに目立っていた。
ロキシーは廊下の窓辺からその様子を視認すると、来客を迎えるために玄関口へと移動した。
何気なく邸宅内での仕事に従事しながらも、セントラムで広がる不可解な伝染病について聞き及んでおり、その
惨状を
憂慮していた。
だからこそ、馬車を伴って
別邸を訪れた
件の調査員が、自分と同じ
齢くらいの青年だったことに驚きを隠せなかった。
「こんにちは。大陸議会より命を受けて
馳せ参じました。調査員のカリムと申します。」
朱色を基調としたシャツの上に、議会所属を表すバッジを留めた黒地のチョッキ
纏うその青年は、鞄を引っ
提げて
丁寧な一礼をしてみせた。
口元はせめてもの感染予防のつもりか、バンダナのような布地を巻いて
覆っていたほか、左目も前髪で隠されていた。
その外見は、事前に一報を受けていなければ怪しげな行商と
見紛う
虞があった。
とはいえロキシーも長い髪を結わえたり
留めたりしなければ、
陰鬱な少女と評されかねない容姿であった。
その通りの性格も
相まってか、こうして改まって見知らぬ男性と
相対すること自体、身構えるような緊張感を
抱かずにはいられなかった。
その感情をどうにか押し殺しつつ、ロキシーは小さく礼を返して
挨拶に
応えた。
「…使用人のロキシー・アルクリスです。本日は遠路
遥々お越しいただき恐縮でございます。…どうぞ、お上がりください。」
そして静かな
面持ちを
湛えたままカリムを迎え入れると、馬車の
御者台で何やら作業をしている黒尽くめの
御者にも一礼した。
ゆっくりと玄関の扉を閉めると、邸宅内の沈黙を破ることのないよう足を進め、カリムを客間へと案内した。
派手さのない比較的落ち着いた内装に、柔らかそうな生地のソファがローテーブルを挟むように2台置かれており、開け放たれた窓の奥では造形の美しい裏庭が広がっていた。
ロキシーはカリムをソファに座らせると、
丁度よく準備していた紅茶をその前に差し出した。
「ああ、ありがとうございます。」
カリムはそう
応えながらも、
直ぐに口にすることはなく何やら鞄の中身を
暫く
漁り続けていた。
傍らに立つロキシーはその様子を
訝しむように、少し身体を傾けて青年の表情を
覗き込んで尋ねた。
「…あの…もしかして、紅茶は苦手でしたか?」
「いえいえ、とんでもない。多少猫舌なだけですよ。」
苦笑いを浮かべて答えたカリムは、若き女使用人から
薄っすらと
醸し出される警戒心を察したのか、表情を変えずに
喋り続けた。
「まぁ、奇妙に思われて当然ですよね。いまセントラムに広がる不可解な伝染病は男性の方が重症率は高いというのに、それを知っていながら派遣される調査員もまた男だっていうんですから。僕は元々大陸議会の事務官なんですが、実態としては雑用みたいなもので…正直気が重いんですが、やることはやらなきゃなんで…どうかご協力お願いします。」
座ったままもう一度深々と
首を垂れるカリムに釣られるように、ロキシーも小さく返事を
零して
会釈を返した。
「ところで…使用人長のレピア・アルクリス様はどちらに?」
カリムは気を取り直して仕事を始めようと言わんばかりに、準備をしながらロキシーに問いかけた。だがロキシーは少し言いにくそうに、首を小さく横に振ったのち回答した。
「…使用人長は、例の感染症に
罹患し
臥せっておられます。」
直ぐさまカリムは、肩透かしを
喰らったような驚きの声を上げた。
「えっ!? それじゃあ、他の使用人の
皆様は…?」
「…女性の使用人は
皆身体を起こすことができず、来客用の寝室にて安静にしております。男性は…
皆亡くなりました。いまこの邸宅で動けているのは、私だけです。」