イリアは
不図思い至って机上にあった
燭台に火を
灯すと、
便箋の表面を被せるようにして
炙った。
幼少の頃に父ジオラスが自分を驚かせようと
披露した技を
不図思い出し、試そうと思い立ったのである。
すると裏面に、焦げ付いた文字が徐々に浮かび上がってきた。
だがイリアは期待通りの展開とは裏腹に、表向きの
字面よりも
遥かに長い文章が姿を現していく様を
固唾を呑んで見守っていた。
——これは
他人に怪しまれないように秘密の伝言を届けるための方法なのだと、父から言い聞かせられた当時の私はとても感動していたものだ。そしてリヴィア氏も科学には精通している人物
故に、このような技法を知っていても不思議ではないと思っていたが…。
——実際に受け取る立場になると、
慄いてしまいそうになるな。
実際に秘密の伝言として
炙り出された文面には、とても切迫した信じ
難い内容が
綴られていた。
それでもイリアの脳内では、クランメが普段通りの独特な口調で語り掛けてくるような、
飄々とした
台詞となって再生されていた。
『会合の無期限延期ってのは言葉の
綾やな。厳密に言えばうち個人の無期限離脱や。実はうちはラ・クリマスの悪魔のうち1体を5年ほど前から宿しとってな、厄災根絶のためドランジアに協力させられてたんやけど、もうお
役御免みたいなんや。』
『6月30日の午後には奴の部下が来て、うちに宿る悪魔を『封印』するつもりや。悪魔とうちの命が同化しとる以上、それはクランメ・リヴィアという人間の死を意味する。
本真はどうにか言い
包めて逃げ
果せたいところなんやけど、いずれにせよ今後の地質調査計画にうちが
関わるんはもう無理やって意味やねん。』
——どういうことだ? リヴィア氏に厄災を
齎す悪魔が宿っている? 議長が彼女を利用していた…?
『信じられへんかもしれんけど、ここ30日の間に頻発しとる厄災は、ドランジアが『
陰の部隊』を
使うて
殆ど意図的に引き起こしているようなもんなんや。大陸の平和のためにラ・クリマスの悪魔を捕らえるには、その悪魔を誰かに顕現させることが大前提やからな。』
『結果としてドランジアは5体の悪魔の『封印』に成功したんやと思う。そして
愈々うちの番が回ってきたんや。ここまで来れば『封印』の装置を作らせとったうちはもう用済みってことなんやろな。』
『でもな、別にこれは救援要請とちゃうねん。
全てはうちの自業自得が招いたことやし、
出来る限りうちが落とし前つけなあかん。そもそもこの手紙が7月以降に届く可能性もあるしな。』
今日がまさに6月30日であり、時刻は
未だ朝の8時前を指していた。イリアは今
直ぐにでもアーレアへ向かってクランメを保護するべきではないかと腰を浮かせていたが、見透かされたように
諫める文章が続けられていた。
——
解らない…リヴィア氏の周りで何が起こっているんだ?
何故自らの危難を、いつ受け取られるかも定かでない
便箋に
認めているんだ?
『ほんでもこの告発を
綴っとるんは、
細やかな自己満足の抵抗にすぎひん。このことを
出来るだけドランジアに近い誰かに1人でも知っといて欲しかったんや。結果として、顔の狭いうちにはイリア・ピオニー隊長しか適切な相手が思い浮かばんかった。』
『せやけど
怒らんと最後まで読んでほしいねん
。もしうちが宿す悪魔が『封印』されれば、残るのは『
憤怒の悪魔』ただ1体になる。つまりドランジアは、『
憤怒の悪魔』を顕現させる女にもう目星を付けとるはずなんや。不安を
煽るようで申し訳ないけども、
貴女もその候補の1人かもしれへん。』
『その悪魔の性質上、うちみたいに奴と個人的な接点のある者が狙われる可能性が高いねん。せやからこれは
僅かでも可能性を潰すための
足掻きなんや。最後の悪魔を顕現させないことは
勿論、ドランジアがすべての悪魔の魔力を集めたうえで実現させようとしとる陰謀を阻止するためにな。』
『奴に使わせとる『封印』の装置はまだ試作段階で、
本真に悪魔をこの大陸から半永久的に引き
剥がせるんか何の確証もないんや。せやけど奴はそれを承知の上で、国民の生活や生死を
蔑ろにしてまでも厄災を引き起こさせて『封印』を進めとる。』
『具体的に何を
企んどるのかはうちも
掴めてへんけど、その
謀が
碌な
顛末にならんことくらいは想像に
難くないんや。奴も悪魔を宿したうちと同じように魔力を扱えるみたいやからな。』
『…気付いたら長文になってしもて
重ね
重ね申し訳ない。せやけどもしこの世界が何か変わってしまうのならば、せめてその理由を誰か1人でも知っといて欲しかった。くれぐれもドランジアには気ぃ付けとくれ。悪魔に
唆された
分際で言える口やないけど、ラ・クリマスが1日でも早く平穏を取り戻せることを願っとる。』
最後はまるで走り書きのようで、取り留めのない締め
括りになっていた。
それだけクランメに余裕がなかったのだろうと
慮ると、イリアは居ても立っても居られなくなり、自室を飛び出していた。
——リヴィア氏からの告発はまるで
絵空事だった。悪魔を『封印』する装置だの魔力だの、到底現実の話だとは思えない。…だが
徒に
妄言を書き連ねているとも思えなかった。
——もしその
総てが事実だとしたら、リヴィア氏が誰にも頼れず追い詰められた
挙句私を選んで情報を
遺そうと
縋ってきたのだとしたら……その一切を
無下にするわけにはいかない。
——私は、真実を知りたい。知らなければならないんだ。
「カルミア副隊長、すまないが後でもう一度私の部屋まで来てくれないか。」
イリアは外でナンジ―と話し込んでいたウィロに声を掛けると、
余程思い詰めた顔をしていたのか、ウィロがお
道化たような返事を
寄越してきた。
「どうしたんすか隊長、さっきより顔色悪いっすよ。あ、もしかして何か深刻な話っすか? 実は副隊長が
不甲斐ないから俺と交代してほしいとか。」
「…あんたねぇ、笑えない冗談は
大概にしなさいよ。」
ぞんざいな扱いに
呆れたナンジ―は、ウィロを
小突きながら
睨み付けた。だがイリアは、その思い詰めた表情のままナンジ―にも声を掛けていた。
「いや、可能ならレドバッド副隊長も同席してほしい。…その方が都合は良さそうだ。」
イリアが自室に戻ると、間もなくしてウィロとナンジ―は
揃って部屋を訪ねてきた。不穏な空気を察したのか、ウィロは
開口一番、
懲りることなく冗談を使い回してきた。
「お待たせしました、隊長。やっぱり改まって俺とレドバッドを呼びつけるってことは、そういう人事関係の話なんすか?」
「カルミア副隊長さん、まずは隊長がお話しされる番なのでそれまで黙っててもらえますか?」
ナンジ―が冷淡な口調で露骨に
苛立ちを表し始めたので、イリアも余談を挟むことなく、机越しに
早速本題に入ることにした。
「…カルミア副隊長、本日中にドランジア議長と面会することは可能か? 至急確認したい案件が発生してな、
言伝ではなく私が直接お
伺いを立てたいのだが…。」
ルーシー・ドランジアは
未だ第1部隊隊長を臨時で兼任していたはずであり、副隊長として彼女の補佐に当たっているウィロであればその動向を把握することができると踏んでいた。
明日にはセントラムへ
発たねばならないことから、クランメの告発の真偽を確かめるためには今日中になんとしてもルーシーと接触する必要があった。
他方のウィロは、その
突飛な質問に目を丸くして回答した。
「議長は
終日大陸議会での公務っすよ。昨日ならともかく、一応週明けということもあってご多忙ですし、隊長といえども飛び入りで面会の時間を作る余裕はないと思いますけど…あっ、でも夕方ならお会いできなくもないかもしれないっすね。」
その
曖昧な返事にも
拘らず、イリアはやや身を乗り出して更に詳細を聞き出そうとした。
「夕方なら議長はお
手隙ということなんだな? 面会できる時間帯や場所は
解るか?」
「いや、お会いできても仕事の話が
出来るかは
解らないっすよ? 18時頃にソンノム霊園へ
展墓に向かわれる予定らしいっすから。」
「ソンノム霊園? ……ああ、そうか、今日は…。」
ソンノム霊園とは、グラティア州の西端に位置する
所謂公営墓地である。そして13年前の6月30日は、ドランジア一家毒殺事件という世間を
震撼させた
悼ましい日であったことをイリアは思い出した。
当時の首相であったナスタ―・ドランジアらが
無惨にも命を奪われたその事件は
未だ犯人が確保されておらず、当時学生だったルーシーは学舎で遅くまで勉学に励んでいたことで唯一の生存者となっていた。
ナスタ―らの遺骨が納められているのがソンノム霊園であり、ルーシーはその墓参りのために時間を
割いているとのことであった。
それを知ったイリアは、
流石に
故人を
偲ぶ場で告発された陰謀について追及することは失礼にも程があるように思えた。
況してや州の西端ともなると、ここから馬を走らせても片道で数時間は要する距離であった。
絵空事のような疑惑を問い
質すために自らの業務を押し
退け時間を掛けることが果たして妥当と言えるのか、
逡巡の末にすっかり及び腰になってしまっていた。
『もしこの世界が何か変わってしまうのならば、せめてその理由を誰か1人でも知っといて欲しかった。』
それでも、クランメの
切羽詰まったような筆跡がイリアの脳裏にこびり付いて
拭えなかった。
——議長はこの国を変えてしまうような手腕の持ち主と持て
囃されているし、実際その技量は
遜色ないものだと多くの国民に支持され、期待されている。
——だがそれが大陸全土に
災禍を生み多大な犠牲を要求するものだとしたら、それが人知れず計略されているものだとしたら…実現される新しき世界を私は歓迎できるのだろうか。
——
剰えリヴィア氏が
警鐘を鳴らすように
全く別の目的のために厄災が利用されているのだとしたら、それこそ一国の軍人として
看過するわけにはいかない。
——だが
展墓に向かわれる議長に、
有耶無耶な了見で面会しようと長時間に
亘り現場を空けるなど身勝手にも程がある。せめてこの2人には了解を得ようと思っていたが、やはりそれも難しいか……?
「馬の手配なら帰り
際にしてきますよ、隊長。そんなに難しい顔してるんなら、
駄目もとでも行ってきた方がいいっすよ。」
いつの間にか
項垂れ頭を抱えていたイリアを励ますかのように、ウィロが
朗らかに声を掛けてきた。
「そうですね。そんな顔でまた遠征に
発たれても足元が
覚束ないでしょうし、本日中の業務は私どもに任せて議長をお尋ねください。」
ナンジ―までもが
宥めるような声音で後押ししようとしたので、イリアはばつが悪くなって余計に顔を上げ
辛くなった。
——まったく…この2人には、いつも
気遣われてばかりだな。
直々に歳上の副隊長2人を呼び出しておきながら
塞ぎ込むような
醜態を
晒していたことが、何とも未熟で恥ずかしかった。
だがそんな自分でも隊長として顔を立て
気遣ってくれることに
応えなければならないと、大きく息を吐いて腹を決めた。
「…2人とも、感謝する。15時頃には
出立したいので、カルミア副隊長にはそのように手配してほしい。レドバッド副隊長にはその後の部隊の指揮を任せたい。私は…遅くとも明日の朝までには、ここに戻るつもりだ。」