ジェルメナ孤児院を呑み込んだ青白い
蔓は、更に周辺の家屋や住民を巻き込んで侵食を続けていた。
発生源とみられる
蔓状の
塊が高さ数メートルの位置で
擡げるように
聳え立っており、その下から
蔓が
溢れ出しているようだった。
侵食の速度は決して早いとは言えなかったが、生命体のように
蠢く謎の物体の出現に
忽ち恐怖と混乱が周囲に
伝播し、街中は逃げ惑う住民の悲鳴で充満した。
イリアもその
最中頭が真っ白になり、何をするべきか戸惑い立ち
竦むばかりであった。
その間にも
駐屯していた大陸軍の治安部隊が事件を聞いて駆け付けており、その物体の形態から植物の
類だろうと判断した何名かが火矢を構えて侵食を阻止しようとした。
だがその様子を見兼ねたルーシーが声を張り上げ、
既のところで反撃を制した。
「火矢は駄目だ! あれは植物を模しているだけの
全く違う物質だ! 火を使えば捕らわれた住民や周辺家屋のみに被害が及ぶぞ! まずは半径100メートル圏内の住民を避難させろ! 今すぐだ!!」
管轄も異なる見知らぬ若い女隊長の
叱咤を聞かされた治安部隊は一様に不服そうな表情を浮かべたものの、蛇を思わせる
黄金色の瞳に
睨みを
利かせられて、仕方なく命令通りに住民の退避へと散っていった。
ルーシーは彼らの背中に向かって他の隊員にも同様に伝えるよう指示を投げかけた後、依然として
狼狽し続けているイリアに向かって同じように行動を促した。
「おまえも早く行け。ここは私に任せるんだ。」
短くも心強い声を聞いたイリアは、次の瞬間には弾かれるように
踵を返して駆け出していた。
その途中、布に
包まれた棒状の何かを抱えた同じ支援部隊の隊員1人と
擦れ違った。
視界に
過った
藍色がかった黒髪からナンジ―・レドバッドという先輩に当たる隊員であると
解ったが、振り返って声を掛けるような余裕は
欠片も無かった。
後から聞かされて知った『強欲の悪魔』という厄災は、発生から1時間もかからずに終息したのだという。
ジェルメナ孤児院を始め十数軒の建物に被害が出たが、巻き込まれた住民数十名のうち、厄災を
齎す悪魔を宿し亡くなったという少女1名を除いて全員が命に別状はなく、衰弱していたが目立った外傷もなかった。
結果としてルーシーの迅速な判断と指示が厄災に
伴う被害を抑制したこととなり、当初隊長としての手腕を疑問視していた支援部隊員は、皮肉にも今回の事件を機に評価の見直しを迫られることになっていた。
周辺住民の避難誘導に没頭していたイリアは、その後も建物の復旧や被災者の容態確認などに追われて、具体的にどのように厄災が鎮圧したのかを知り得なかった。
ルーシーはその間に一部の隊員を
伴って先にトレラントへ帰還してしまっており、当時を振り返ることすらもどうでもよくなってしまっていた。
ただ、ルーシーがこの地で残した実績は
紛れもなく称賛されるべきものであり、軍民を導かんとするその背中にイリアは一段と
惹かれることになった。
被災区画を復興させるなかで、気付けばジェルメナ孤児院に従事していたステラともルーシーへの尊敬や期待を語り合っていた。
——あの
御方は身内を一夜にして失う
惨い経験を味わったにも
拘わらず、宣言通りに家名を背負い若くして主導者の役を
全うされようとしている。計り知れないほどの覚悟と精神力がなければ、あのような立ち振る舞いはできないだろう。
——いずれ我が国の首相として君臨し、良き未来へと我々を導いてくださるに違いない。だから私もその背中から学び、先導の下支えが
出来るよう修練を重ねていかなければならない。
——そうしてあの
御方に
応えることが、きっと私が本当に望む将来の自分の姿なのだ。
**********
夕陽が水平線に隠れて空が一段と
昏くなるその
下で、身動きがとれず立ち尽くすイリアの口元から乾いた苦笑いが
零れた。
背後で拳銃を構えて
牽制を続けるウィロとナンジ―は冷ややかな目付きを変えることなく、標的の心境の推移を注視していた。
ルーシーも距離を維持したままイリアの顔を
覗き込むように様子を
窺っていたが、
軈て向き直ったその表情はどこか
呆けたようで、脱力したような声音で
呟くように
応えた。
「…申し訳ございません、議長。やはり私は、議長には
怒れません。」
結局のところルーシーが本当にラ・クリマスの悪魔をこの大陸から排除してくれるのかという確証はないし、必要悪だから構わないと言わんばかりに国民を
顧みず計画を推し進めた事実には賛同し
難かった。
だがそれが何年も前から、身内を失ったその日から掲げていたのかもしれない壮大な本懐であるならば、自分が異議を唱える筋合いはないように思えた。
父ジオラスの協調を得て、『
陰の部隊』の一員であるウィロとナンジ―を自分の
目付役のように
据えてまで本懐を実現しようとする、壮絶な執念と胆力に打ちのめされてしまった。
その2人以外にも至る所で『
陰の部隊』が
潜んでいたのかもしれないと考えると、
最早脱帽する思いでもあった。
そして元より自己犠牲の精神を心掛けているが
故に、国の平和のために
己が身を利用されることには抵抗がなかった。
それが正しいことであるならば
悦んで命を尽くす、その意味では父ジオラスと思考の傾向は大して変わらないのであった。
——どれだけ
昨今の国民の
困窮を非難されようとも議長、
貴女はこの国を今もこれからも背負われる
御方だ。そのために覚悟を
抱き必要なことだと断言するならば、私はやはり
怒ることなどできない。
怒るべきではない
。
——議長は私の尊厳や正義感を
逆手にとって怒りを
煽るつもりだったのだろうが、リヴィア氏の告発も
相まって、最終的に
貴女の計略に
理解を示してしまった
。
——だがこうして直接
貴女の秘密を知ってしまった以上、私は
最早生きてここを立ち去ることはできないのだろう。それもまたこの国の平和の実現に必要なことなのであれば、今ここで命を落とそうとも心残りはない。
穏やかに自身を納得させたイリアは、
瞼を閉じて自らに下される処遇を静かに待ち望んだ。風の流れも感じられず、沈黙に包まれた広場は
宛ら時間が止まったかのような錯覚を
齎した。
少し離れたところで、ルーシーがまた1つ小さな溜息を漏らしているのが
解った。
「それなら仕方ない。……やれ。」
冷酷に突き放すようなルーシーの宣告の直後、2発の銃声が沈黙を引き裂いた。
だがイリアは身体に何の痛みも感じないどころか、銃弾を
掠めたような反動すら覚えることがなかった。その一方で、背後では何かが無機質に崩れる音がした。
恐る恐るイリアが振り返ると、ウィロとナンジ―が共に
自らの頭部を拳銃で撃ち抜き、広場の隅で
無惨に横たわっていた。
——何だ…? 一体何が起きたんだ…!?
2人のうちどちらに駆け寄るべきなのか、どちらが確実に助かる見込みがあるのかなどとイリアは当惑していた。だが1秒が刻まれていく
毎に、2人とも即死であり何を
施すことも叶わないという現実が強引に押し付けられていた。
——
何故だ…どうしてこんなことになっているんだ…!?
心臓が
早鐘を打ち、全身
蒼白になり飛び出しそうな
眼でぎこちなくルーシーを振り返ると、その表情は
嘗て見たことがないほど残忍で
悍ましいように感じられた。
そして、聞いたことのない低い声音ではっきりと言い聞かせてきた。
「イリア…本当におまえには、失望したよ。」
その瞬間、イリアの心の中で
弛緩していた糸のようなものが無理矢理引き
千切られたような気がした。
そして、
喉が張り裂けるかのような怒声を放った。ドランジアという名を叫んだのか、言葉として成立したのかすら
解らない
剥き出しの『
憤怒』に、辺りの空気が激しく振動し弾けた。
その
怒髪天に向かって
昏い空から
突如雨のように雷が降り注ぎ、霊園の広場はイリアを中心に
迸る雷撃と
轟音で満たされた。
憩いの場を囲んでいた樹木や垣根が雷撃を受けて
彼方此方で燃え上がったが、イリアは
微塵も気に留めることはなかった。
煌々とした
黄蘗色に転じたその瞳には、
尚も
忌々しく
仁王立ちするルーシーの姿だけが映されていた。
イリアは全身に電撃を
纏いつつ、携帯していたレイピアを引き抜くと、雄叫びと共に激しい剣幕でルーシーへ
斬り掛かった。
だがその
刹那ルーシーの前に大きな影が立ち
塞がり、イリアの突撃が
喰い止められた。
紫紺のローブを
纏い、無機質な白い仮面を着けた大柄な人物が、両手で握る黒い警棒のようなもので電撃を帯びた刀身を受け止めていた。
イリアは額に青筋を浮かべながら強引にその防御を突破しようとレイピアを振るい、その度に全身から電撃が
迸って追撃を掛け続けた。
それでも大柄な人物は
怯むことなくこれを
去なし続け、電撃は
纏っているローブや警棒のようなものに吸収されているのか弾かれているのか、あまり通用しているような
手応えがなかった。
やむを得ずイリアが後退すると、円形の広場では他にも同じような
身形の人影がざっと確認できるだけでも10人近く現れて包囲しており、
揃って警棒のようなものを構えていることに気付いた。
目の前の大柄な人物はともかく男女の区別は
殆ど付かなかったが、彼らもまた『
陰の部隊』であることは言われるまでもなく自明であった。
『
憤怒の悪魔』を宿したイリアの周辺は常に空気が
掻き
毟られるようにして弾け、電撃となって見境なく飛び散っていたが、包囲する『
陰の部隊』は何ら臆する様子が見られなかった。
彼らの武装の詳細は判然としなかったものの、ルーシーが最後の悪魔を捕らえるため周到に対策を講じていたのかもしれないと考えると、イリアの
憤懣は更に
昂り
募っていった。
「…無駄な抵抗は止めて大人しく捕らえられるんだな、イリア。私を
殺めれば厄災の無い世界の実現など到底期待することは
出来ないだろう。それに…ウィロ・カルミアとナンジ―・レドバッドの犠牲も無駄になってしまうからな。」
人影から聞こえるルーシーの
冷酷な
台詞と共に『
陰の部隊』が包囲を狭めようと一歩を踏み出したが、その発言が聞き捨てならなかったイリアが再び
夥しい電撃を周囲にぶち
撒けて抵抗した。
包囲網を崩すには至らなかったが、それでも足止めする程度の威力は発揮できているようであった。そして
猛り狂う
形相でルーシーを激しく
糾弾した。
「責任
転嫁も
大概にしろ…その2人を殺したのは、紛れもなく
貴女自身だろう!?」