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「なんだかお疲れのようですね。これを食べて元気出してください。」
穏やかで透き通った声音に気が付くと、視界には
綺麗に切り分けられたリンゴが並べられていた。
「ああ、これはどうも…。」
戸惑いながらも小さなフォークを手に取り、一切れに刺して口元へと運んだ。
一口
齧ると
忽ち心地良い酸味が
疲弊していた脳内を刺激し、不思議と全身に活力が
漲っていくような気がした。
堪らず残りを口に放り込むと、
傍らで侍女が持つ皿に盛られた別の一切れへ立て続けにフォークを向けようとした。
だが向かいの席に座るネリネがその様子を見て
淑やかに
微笑んでいることに気付くと、恥ずかし気に苦笑いを浮かべた。
「そんなに美味しいんですね。ユーリさんに召し上がっていただけてよかったですわ。」
この日もヴァニタス海賊団の首領リリアンは、長い黒髪のウィッグと伊達眼鏡を身に付けたアルケン商会のユーリと
成り、エクレット邸にて領主の令嬢ネリネとの偽りの談笑の時を過ごしていた。
穏やかな陽気に包まれた邸宅の庭園は
香しい花々で彩られており、天国が存在するならばこういう風景なのではないかと常々感じていた。
だがその日は珍しいことに、お茶菓子に加えて
瑞々しい果物が用意されており、『ユーリ』はそのことについて
早速ネリネへ話題を持ち掛けた。
「このリンゴはどうされたのですか? お父様が良い買い物をなされたとか?」
「頂き物ですよ。大陸軍の国土開発支援部隊…? なる方々が
今朝方お見えになって、お
土産に
頂戴しましたの。お父様にご
挨拶に見えるメンシスの商人の皆様にもよろしくお伝えするように…とのことらしくて、是非ユーリさんに召し上がってもらいたくて。」
ネリネは
微かに目を泳がせ、発言内容に相違がないかどうか、ユーリの
傍らに立つ侍女の表情を
窺いながらゆっくりと答えてみせた。
一方のユーリはネリネの
拙い受け答えに
微笑ましく
相槌を打っていたが、その内心では
微温湯に浸かったような彼女の
性分を密かに
軽蔑していた。
——ネリネは両親に
溺愛された箱入りの令嬢だ。どのような教育を施されているのか詳しくは知らないけど、大陸軍の編制すら知識として
曖昧などころか、恐らくメンシスがどんな闇を抱えた街なのかも理解していないのかもしれない。
そして上等な紅茶を
啜りつつ、ネリネの
辿々しい
台詞を苦々しく
咀嚼していった。
——国土開発支援部隊は主に貧困地域への物資配給などを担っているけど、れっきとした大陸平和維持軍の一部隊だ。彼らは大陸議会の関税法に係る特措法の成立を受けて、メンシスの領主であるエクレット
伯爵を訪ねてきたのだろう。
——『
メンシスの商人の皆様にもよろしくお伝えする
』とはどういうことか、それに関して今まさにローレンがアルケン商会代表のケイジュとして
伯爵と何を交渉しているのか、この
娘は知る由もないのだろう。
「…ところでネリネ嬢様、お似合いだった鉱石のペンダントを今日は身に付けておられないのですね。」
ユーリはネリネの飾り気のない胸元に気付くと、また新たな話題にして問いかけた。
「ええ。気に入っていたのですが、別の新しいものを買ってやるからとお父様に取り上げられてしまいまして…何もそこまでする必要はないのに。」
——残念そうに顔を膨らます令嬢の
素振りからして、やはりその黒いペンダントが何の意味を持っていたのかさえ知らなかったらしい。グレーダン教信者でもないのに単なる装飾品として
何食わぬ顔で身に付けていたのだから、その想像は実に
容易い。
——その反面、父親の方は相当神経質になっているみたいね。
このように令嬢の仕草や反応から、領主に付け入るための手札を生み出したり、メンシスの隠れた情勢を推察したりすることが、ユーリに課されていた使命であった。
黒い鉱石を
鏤めたペンダントはグレーダン教の信仰心を表すお
馴染みの品だが、その鉱石は千年前に降り注いだとされる隕石を象徴していることから、一般に黒地であれば
硝子細工でも構わないとされていた。
そんななか、『本物の隕石を素材に
配ったペンダント』なる
謳い文句の代物が、メンシスの闇市場で密かに取引されていた。
本物の隕石
の科学的な確証がない以上
眉唾物であるが、成分的に希少な素材であればそれだけ
自ずと価値は釣り上がっていた。
——その取引が、ディレクタティオ大聖堂の焼き討ち事件以降すっかり息を
潜めたらしい。間もなくして大陸議会で特措法が成立し、ネリネはペンダントを取り上げられた。…やはりあれは相当
焦臭い代物だったみたいね。
——ああ、こうして善良な商人の振りをしていると、
焦臭さを味わうどころか底なし沼を漂っているかのような錯覚に
陥ってしまう。案外海賊とは、底なし沼を航行する存在と言えるのかもしれない…。
「…ユーリさん? …やはり最近はお仕事が大変なんじゃないですか?」
反吐が出るような思案に
耽っていると、ネリネが
怪訝な表情で
覗き込んできていたことに気付き、ユーリは思わず背筋を伸ばして何度目かの苦笑いで
応えた。
——あたしとしたことが、相当顔を曇らせていたみたい。…領主との商談を優位に進めるためにその一人娘と親交を深めているのに、何か
訝しまれたり
勘繰られたりされるようでは元も子もないじゃない。
「あはは…顔に出てしまうなんて重ね重ねお恥ずかしい。…どうかお気になさらず。」
「いいえ、私…羨ましいのです。…そんなユーリさんのことが。」
すると
唐突にネリネも
微かに頬を赤らめながら告白してきたので、ユーリは内心何事かと身構えた。
「私と
殆ど
齢も変わらないのに、アルケン商会の一員としてお金を稼いで船旅をしているユーリさんを尊敬しているんです。そんなに難しそうな顔をするのも、きっと
沢山の世界を観てきているからこそですよね。本当にいつも
冒険譚を聞いているみたいで楽しいんです。…でも私には、そんな表情はやろうと思ってもできません。」
「…ネリネ嬢様が、
自ら気苦労を背負われる必要はないと思いますが?」
「それでは駄目なのです。そんなことでは…いつまで経っても
貴女と対等にはなれないのです。」
ネリネの取り留めのない発言を前に、ユーリはどう対処すべきか思い悩み、困惑したような微笑を浮かべてしまっていた。
突拍子な
吐露の数々に理解が追い付かず、内心は
苛立ちに似た困惑を制することで精一杯だった。
——あたしのことが羨ましい? あたしと対等になりたい? …この
娘は一体どうしてそんな愚かしいことを急に言い出すの?
「
貴女と時間を共に過ごしていると、
鳥籠の中で
囀るだけの自分が
不甲斐なくなってくるのです。でも…決して
貴女の生きる世界が
綺麗事だけで
彩られた場所でないことも、
解っているつもりです。」
「ですから私も商業や貿易について一から学んで…お父様のように一商人として自分の力で
羽搏けるようになりたいと、そして
貴女のことをもっと理解できるようになりたいと、日に日にその志が膨れ上がっているのです…!」
ネリネの頬が更に赤みを増しているのは、きっと心に様々な感情が渦巻いているからなのだろうとユーリは見立てていた。
令嬢との初対面から1年ほどが経過し、差し
障りのない付き合いをしてきたつもりだったが、ユーリが感じた以上に彼女へ与えた刺激は大きいものだったことを思い知らされた。
その確かな心境の移ろいは、アルケン商会ならぬヴァニタス海賊団に利する進展と見なすべきか、過保護な両親と衝突する火種を
齎した失策と捉えるべきかは
未だ
解らなかった。
だがそれ以前に、ユーリがネリネに対して
抱く想いは
微塵にも揺らぐことはなかった。
ユーリは短く咳払いをすると真剣な
眼差しを作り上げ、令嬢の
覚束ない夢物語に
真摯に
応えることを決めた。
「…ネリネ嬢様。商人はただ流通の仕組みを学んだだけでは足りず、
況してや物の価値を見極めたり相手の信頼を得たりするだけでも
未だ不十分なのです。」
「その土台に立って初めてお互いを利用し合うことで、そこに生まれる利益を最大化することが求められるのです。土台が
均しくなければ、利益を
零さぬよう一方が他方を容赦なく犠牲にします。他方で土台が傾かないよう、自らの足場を補強する努力もまた常時徹底しなければなりません。」
「私が立つ場所とは、協和するようでその
実弱肉強食の、無慈悲で殺伐とした世界なのです。…それでもネリネ嬢様は、そのような世界に足を踏み入れたいと
希うのですか。」
これはヴァニタス海賊団で事実上の指揮を
執るローレンの受け売りであり、恐らく亡き父が
抱いていたであろう信条であり、ユーリ自身にとってはただの
大言壮語に他ならなかった。
——善良な商人を
描くにしては過言で
辛辣な表現だろうけど、
本当のあたしが
立っているのはそういう冷酷で
醜悪で血も涙もない世界。
——そんな世界にあんたを一歩でも近付けるわけにはいかない。…何でもいいから、さっさと委縮して諦めてよ。
「…それでも、私はその世界で生きる方々の
逞しさに魅力を感じずにはいられません。…ユーリさんが、そうであるように。」
だがユーリの期待は
呆気なく振り切られ、令嬢は
只管にその純真な瞳を輝かせていた。
——どうしてそうなるの? どうしてあたしをそんな目で見るわけ!?
——あんたはこのまま大人しく
鳥籠に飼われた愛らしい小鳥として、どこぞの上流貴族にでも
貰われればいいのよ。そうして平穏な家庭を築いて、当たり前に明日が訪れる
悦びを死ぬまで享受していればいいのよ。
——そんな当たり前の幸せの価値も見定められないあんたに、商人を目指す資格なんてあるわけないじゃない!
「私は、ユーリさんと対等になりたいんです。」
——お願いだから、そんな愚かしい夢なんて
抱かないで!!
だがその
儚い願いを
虚しく
掻き消すには、
丁度いい機会だったのかもしれないとも思った。
恐らくヴァニタス海賊団はアルケン商会としてこれ以上メンシス港に
留まることはできないと、
予てより推察されていたのである。
——ローレンは何としても
伯爵と交渉して活路を見出そうとしているみたいだけど、あたしは潔く別の道を模索するべきだと思う…具体的な方針はまだ打ち出せそうにないけれど。
——そうすればネリネとも二度と関わることはない。でもそれで構わない。ネリネはあたしの世界に指一本でも染まることなく、いつまでも温かく
眩しい存在でいて欲しいのだから。
——それだけがあたしの願いだった。…それなのに。