「
小腹を満たそうと列車に放った
蒼獣が思ったように頭数を増やさず
訝しんでおったが、その杖を持つ者が乗り合わせていたとはな…これはかえって運が良い。早くもディヴィルガムを持つ者に
廻り合うとはのう。」
小さな身体で
途轍もない威圧感を放つピナスに対し、カリムは『
貪食の悪魔』を宿した『
獣人』の少女が杖を認知していただけでなく、
尚も好戦的な姿を見せる展開に
嘗てない緊張感を覚えていた。
加えて走行する機関車の屋根という経験したことの無い足場
故に、踏み出す一歩に明らかな
躊躇いを覚えていた。その
微かな震えの原因すら、ピナスには看破されてしまっていた。
「ラ・クリマスの悪魔の力を封じる隕石を
配った杖、母を討ち取りし
忌むべき武具…だが
杞憂だったのう。貴様では
儂の間合いすら侵すことは叶わん。下手に動いて死にたくはないと、顔に描いてあるぞ。」
図星を突かれたカリムは思わず
眉間に
皺を寄せ、構えている杖を握り直した。背後からはサキナの小さい溜息が聞こえた。
一方のピナスは何ら攻撃を仕掛けてくる
素振りもなく、2人の朱色を基調とした制服姿を見越したうえで、両腕を組みながら更に高圧的に問いかけてきた。
「そもそも
儂には貴様らの相手をしている暇はない。
儂はこのラ・クリマス共和国首相たるルーシー・ドランジアに用があるのだ。貴様らも大陸議会の人間なら奴の所在を知っているのではないか? 何か申してみよ。
然すれば命だけは見逃してやろうぞ。」
ピナスの口からルーシーの名が
零れた
途端、カリムとサキナは一段と警戒心を強めたように見えた。そんななか、
辛うじてカリムが返事を寄越した。
「…
生憎俺らは
下っ
端なんでね。ご多忙な首相の日々の予定なんて把握していない。」
「
下っ
端にディヴィルガムが託されるわけがなかろう。貴様らのような存在を一国の首相が
与り知らぬはずがない…そして逆もまた
然りだ。もう少し上手な嘘を考えておくべきだったな。」
ピナスは即座に言い返し
煽り立てていると、身体に吹き付ける冷たい風の勢いが徐々に弱まってきていることを察した。
蒸気機関車の操縦士が
蒼獣に呑まれて燃料が注ぎ足されなくなったことで、列車が次第に減速し始めていた。
その事態にカリムとサキナが気付くよりも早く、ピナスは背中から鷹のような青白い翼を生やして
宙に
羽搏き、
冷笑いを浮かべて2人を見下した。
「まぁ、今回はサキナに免じて見逃してやるとしよう。首都ヴィルトスを適当に襲撃すれば、いずれ首相は
炙り出せるであろう。そうして目的を果たした後ならば、幾らでも相手になってやらんこともない…では、さらばだ。」
そして再び巨大な青白い怪鳥に姿を転じさせたピナスは、大陸西部にある首都を目指してより高く舞い上がった。
下方から何やらサキナが
喚き散らす声が追い打ちを掛けてきたが、ピナスは
微塵も意に介すことなく、風を切る音に身を
委ねていた。
——首相と
相見えるまでにはディヴィルガムが一番の障害になると身構えておったが、思っていた以上に
矮小な脅威だったのう。…この調子なら、確実に目的を果たすことが
出来るであろう。
**********
遡ること約40日、ディレクタティオ大聖堂が『悲嘆の悪魔』によって焼け落ちる日から15日前の明朝。
——何者かが、近付いてくる。
——
蹄の音、車輪の音……行商にしては数が多すぎる。一体何だ?
アヴスティナ連峰の中腹に『
獣人』こと『ラピス・ルプスの民』がひっそりと生き続けるクラウザという集落で、
麓から少しずつ
上ってくる怪しげな物音にピナスの獣の耳が反応した。
千年以上前にラ・クリマス大陸に存在していた
瑠璃銀狼という伝説の獣の血を引くラピス・ルプスの民は、人間と比べ2,3倍の寿命を与えられながらも、現代ではクラウザに住まう30人ほどしか確認されていなかった。
その内訳も老人と女子供が
殆どを占めており、少女のような外見ながらも
齢30を数え長老オドラ―の孫でもあったピナスは、集落に近付く不審な音に誰よりも敏感であった。
齢18になる妹のアリスを起こさないよう寝床としている山壁の洞穴から音もなく飛び出すと、ピナスはクラウザに間もなく
辿り着こうかという数頭の馬と、騎乗する数名の軍人を視認した。
そして集落の入口で
睨みを
利かせながら、
仁王立ちするようにして出迎えた。
「このような朝早くから大陸軍が何用か。それとも
儂の知らぬ
間に人間の活動時間が早まっておったのかのう?」
ピナスが皮肉を込めた
挨拶を差し向けると、先頭で騎乗していた女性軍人が地に降り立ち、深々と
首を垂れた。桃色がかった
流麗な金髪が静かに
靡いた。
「…ラピス・ルプスの民よ、突然の来訪と我々の非礼をお詫び申し上げます。恥ずかしながら、昨日の午後には到着する予定が我々の過失により遅滞してしまいました。」
「私は大陸平和維持軍、国土開発支援第1部隊長のイリア・ピオニーと申します。
此度は大陸議会よりラピス・ルプスの民の代表者へ、勧告を
認めた文書をお渡ししたく
馳せ
参じた次第でございます。」
イリアと名乗る女隊長が
凛とした声音で、だが集落に
未だ眠るラピス・ルプスの民に配慮し
潜めて要件を述べた。
一方のピナスはその聞き慣れない表現が気に食わず、種族特有の銀色の瞳を光らせ、
直ぐさま
噛み付くように切り返した。
「勧告だと?
儂らが一体何をしたというのか。そのような人間の命令を一方的に聞き入れる余地などないわ!」
「…ピナス、勧告と命令は同義ではない。法的拘束力の伴わない大陸議会からの意思表示のようなものじゃ。」
そんなピナスを喰い止めるように、背後から
嗄れた声音が制止を掛けた。
そこには銀色がくすんで灰色同然となった、全身毛むくじゃらのラピス・ルプスの民が、古びた杖を付きながら静かに歩み寄っているところであった。
「お
爺様…!」
振り返ったピナスが気まずそうに
呟いたが、当の本人は目元まで体毛に
覆われたその隙間から真っ
直ぐにイリアを見つめていた。
「大陸議会の使者よ、孫の未熟な言動をご容赦いただきたい…
何分過去に人間と
一悶着経験しているものでのう。」
「…いえ、我々の
不躾な訪問は非難されて当然かと。貴殿がクラウザを治めておられる
御方ですか。」
「
左様、オドラ―・ベルと申す。こいつは孫のピナス・ベルじゃ。
早速だがその勧告とやらを聞かせてもらおうかのう。」
するとイリアは肩から下げている
鞄の中から上質な赤い巻紙を取り出すと、封を解いてオドラ―に手渡しながらその内容を簡潔に述べた。
「記載されているのは、グラティア州北西部に位置する国有地への移住案となっております。このアヴスティナ連峰と比べ環境は大きく変わってしまいますが、大陸軍により保全された緑豊かな土地であり、定期的な物資提供などもお約束させていただく所存でございます。」
オドラ―が巻紙に
認められた勧告を黙々と読み進める
傍らで、依然としてイリアたちを
快く思わないピナスは露骨に
怪訝な表情を浮かべた。
「移住案だと?
何故我々がそのような
庇護に甘んじなければならんのだ?」
「主な理由は2点ございます。第一に、長い大陸史の中で
未だにラピス・ルプスの民が人間により
虐げられ、減少の
一途を
辿っていることです。伝説の生物と言われる
瑠璃銀狼が絶滅しても
尚、その
系譜を継ぐラピス・ルプスの民独特の毛並みや血肉までもが希少価値を
見出され狙われていると聞き及んでおります。そのような非人道的行為の横行を国としてもこれ以上看過するわけにはいかないのです。」
瑠璃銀狼とはその名の通り
瑠璃色混じりの美しい銀色の毛並みを持っていたが、千年を生きると言われた長寿の獣でもあった。
故に、人間もその血肉を喰らえば寿命が延びるなどという迷信が
蔓延り、輝かしい毛皮と
併せて最高級の価値を見出され、
忽ち頭数を減らしたという歴史があった。
自らの種の絶滅を危惧した
瑠璃銀狼は、人間と交わることでその血を後世に
遺そうとした。それがラピス・ルプスの民の起源だと言われていた。
だが
瑠璃銀狼が絶滅した現代でも、遺伝子を受け継ぐラピス・ルプスの民の身体は同様な値踏みをされ、闇市場で密かに取引されていた。それがラピス・ルプスの民すら絶滅へと追い
遣る一因にもなっていたのである。
「第二に、翌年に控えた千年祭により増加するであろう外国人の
物見遊山が想定されることです。我が国で
稀有な種族である
貴方方のことは当然に海外諸国にも認知されております。先のような野蛮な目的でなくとも、物珍しさからこの地に人間が
集るような事態は好ましいとは言えず、議会としても事前にこれを回避する施策を検討しなければならないのです。」
イリアは実際に大陸議会で交わされた勧告の根拠を
懇切丁寧に打ち明けたつもりだった。
だがピナスから見れば相手は大陸軍の隊長とはいえ歳下の女性であり、講釈を垂れているかのような不快感が込み上げて来るばかりであった。
「話にならんな。結局は貴様らの
面子のために
儂らを動物のように管理したいだけではないか。」
「ピナス、それはおまえに都合がいいだけの解釈に過ぎん。我々を人として扱っているからこその
勧告
なのじゃ。」
またしてもオドラ―に発言を
窘められたピナスは、
愈々限界と言わんばかりに
噛み付く先を長老である祖父へと向けた。
「お
爺様はどういうおつもりか!?
易々と国の
庇護下に身を
窶すことが
辿るべきラピス・ルプスの民の末路であるとでもお考えなのか!?」
だがオドラ―は何ら動じることなく勧告を
認めた巻紙を巻き上げると、八重歯を
剥き出しにして喰い縛るピナスを
一瞥しながら静かに答えた。
「そのように大声を出すと同胞が
訝しむぞ。
何故使者が明朝に訪れたのかをよく考えるがよい。それに、我々の回答はこの場で
直ちに下す必要はない…そうであろう、イリア殿。」
再びオドラ―から
昏い眼光を差し向けられたイリアは、その沈着さと聡明さに敬服し改めて一礼した。
「お
気遣い痛み入ります。
此度の勧告の回答期限は本日より数えて60日後とさせていただいております。期日の際には署名の通り隊長…いえ、ドランジア首相が直接この集落を訪問される予定となっておりますので、ご承知おきくださいますようお願い申し上げます。」
そしてイリアが半身を
翻すと、その後方では荷車から下ろした荷物を抱えた数名の部下が待機していた。
大陸議会ならびに大陸軍として少しでも友好的な関係を構築するためか、国土開発支援部隊が配給して回っている食糧などの物資を無償提供したのち、イリア率いる部隊は敬礼して早々にクラウザを立ち去って行った。
引き渡された荷物の中身は野菜や果実、肉の
燻製や調味料など
多岐にわたり、小規模な集落にとっては消費に何日も要するほどの量であった。
それでもピナスは釈然としない
面持ちで、
蔑むようにその品々を見下していた。
「恩着せがましい奴らめ。こんなものに頼らざるを得ないほど
儂らの生活は切迫などしておらんわ。」
「ピナス、そのような
選り
好みで食べ物を粗末にすることは許さぬ。
寧ろそれらを口にすることなく、同胞の行く末を語ることなど
儂は認めんぞ。」
だが再三オドラ―からその姿勢に釘を刺され、小さく舌打ちをしたピナスは、
遣り場のないもどかしさを呑み込もうと手頃な位置に積まれていたリンゴを
掴み上げると、荒々しく
齧り付いた。