決して温和な
邂逅とは言えないなかで、クランメは
見縊られないように必死で熱弁を振るっていた。
ルーシーとは専攻は違えど純粋に成績で劣っている以上、妄言だの
戯言だの
嘲笑われても反撃の余地がないことは覚悟していた。
それでも圧倒的に優秀な彼女はひょっとしたら独自性に
溢れた持論に理解を示し、
細やかでも支持してくれるかもしれないという淡い期待を捨てられずにはいられなかった。
だがその時間は
忌憚のない意見交換の場として発展することはなく、ルーシーは聴くだけ聴いて満足したのか肯定も否定も示すことなく立ち去ってしまった。
——
何や、結局ただの冷やかしと変わらんやんけ。まぁ、確かに今のままやと
何の意味も価値もない言葉の羅列にすぎひんかもしれへんけど…もうちょい
何か突っ込んでくれてもよかったんとちゃうか。
クランメは未熟な研究に評価を求めること自体が浅はかだったと言い聞かせる一方で、捨てきれなかった淡い期待が徐々に
卑しい屈辱へと
変化していくのを感じていた。
3年後、4年制のグラティア学術院でルーシーは早期卒業を決定させていた。
彼女が最終的に修めた論文は、国策として進行していた『ラ・クリマス一周路線化計画』にセントラムの農業生産を絡めた、大陸東部の貧困地域を念頭に置いた支援物資の拡充策であり、
宛ら大陸議会に提出する施策案を書き連ねているようなものであった。
後にその論文は高評を受けて実際に国策の一環として組み込まれることとなり、卒業したルーシーもまた大陸軍の国土開発支援部隊に即時採用されてその指揮の
一翼を担うことになった。
クランメもその論文を流し見たが、客観的な高評は正当であるようにも感じた一方で、大陸議会におけるドランジア
派閥がそれを強く
推薦したい狙いがあったようにも受け取っていた。
急逝したナスタ―・ドランジアに替わる
派閥の顔として、次女であるルーシーを持て
囃す好機を
窺っていたのではないかと
囁かれていたのも事実だったからである。
だがいずれにせよ、クランメは天より二物を与えられたかのような
順風満帆なルーシーの歩みに大きな
忌避感を
抱いていた。
また論文にはセントラムの周期的な豊作についても触れられていたが、その原因は
壊月彗星が持つ引力だいう昔ながらの有力説を引用し手短に完結させられていた。
完成された論文としてそれが当然だとクランメは
解っていながらも、3年前に心にこびり付いた
卑しい屈辱が、更に
昏く
滲んでいくような不快感に
苛まれていた。
その翌年、クランメも学術院を修了すると、そのままアーレア国立自然科学博物館に就職することとなった。
元よりプディシティア州とミーティス州の農業環境を比較研究する論文には定評を得ていたが、隕石による土壌への影響を
示唆した独特な視点に一部の学会から注目を置かれたのか、その
伝手で博物館職員として従事しつつ独自研究を続ける機会と自室を与えられたのだった。
だが
如何にアーレアに研究資料や機材が
揃っているとはいえ、隕石について
自らが主導し大々的な調査をするためには相応の予算が必要であり、他の研究員を巻き込めるだけの実績が求められた。
そうしてもどかしい思いをしているうちにあっという間に1年が経過し、クランメは
齢23を迎えた。
学術院時代にセントラムを訪れたときのように再び壊
月彗星が接近する頃、クランメの自室には
突如としてルーシーが訪ねてきていた。
朱色を基調とする大陸軍の制服を身に
纏う彼女は、クランメにとってはあまりにも華美に見え、
眩暈を引き起こしそうだった。そして招かれざる訪問の要件は、
自らが論文で起草した施策の
進捗報告であった。
「国土開発支援部隊による物資提供でセントラム産の農産物を
卸して回る取り組みが始まってね、先日グリセーオに
赴いてきたんだ。活動自体は特に支障はない。
勿論課題はあるが、今後も他の地域を巡回する予定だ。…それに比べておまえの
為体は何だ? 以前あれだけ私に
豪語しておきながら、隕石について
未だ何の研究も進んでいないじゃないか。」
「
喧しいわ。国家事業という大船に揺られとるあんたと
違うて、こちとら一から船を組み立てなあかんのや。自慢話なら酒場でやれ。」
壁に
凭れて
窮屈な研究室を見渡しながら
詰るルーシーに対し、クランメは追い払うように手を振って嫌悪感を
露わにした。
「そうか。まぁ設計図を描くだけで一生を終えないよう
精々頑張るんだな。…そうだ、おまえにもセントラム産の果実を味見させてやろう。リンゴはいまの時期が一番
美味いからな。」
ルーシーはそう言って
鞄から置き
土産に小さなリンゴを取り出すと、
徐に放り投げた。
そしてクランメが慌ててそれを両手で
掴んでいるうちに、ルーシーは別れを告げて部屋から出て行ってしまった。
クランメは言い返す余地を与えない一方的な
口撃に
鬱屈しそうになりながら、
気怠そうに手元のリンゴを見下ろした。
——
本真に
何なん? あいつ…。
真面に口
利いたん5年ぶりやぞ? 何を思い出したようにあんな露骨に
煽ってくんねん。うちが
浪漫を追うのにどんだけ視界不良のなかで筋道立てなあかんのか
解っとるんか?
解ったうえで馬鹿にしとるんか?
その果実は確かに
艶めいて質が良さそうだったが、リンゴ自体はその辺の市場でも売られていて特段珍しいものでもなかった。
だがクランメには小さなリンゴを突き付けられることが、ルーシーから暗に
卑小な凡人だと
嘲笑われているように思えてしまった。
小腹が空いていたことも相まって、クランメは
募る
苛立ちを呑み込むようにそのリンゴに
齧り付いた。
小さな果実は生意気なくらいに
瑞々しくあっという間に食べ終えると、残った芯を
塵箱に投げ捨て、大きく
溜息を付いて机に突っ伏した。
——おまえと一緒にすんな。誰もがおまえみたいに頭が切れるわけやないし、自然と
沢山の
他人から手を差し伸べられるわけでも、
他人を動かす魅力を持ってるわけでもないんや。
——おまえなんかに
嗾けられんでも、うちは地道に……!?
そのとき、室内の空気が盛大に
罅割れるような音が響いた。
クランメが
訝しむように顔を上げると、小さな研究室は霜に
塗れた冷凍庫のように
禍々しく凍り付いていた。
一瞬のうちに何が起こったのか理解できず、
驚愕した口元からは白煙のような吐息が
零れていた。
これほどの凍結の中で
何故か身体はあまり寒さを感じていなかったが、そんな体調を気にする余裕すらなかった。。
——おいおい、どないなっとんねん。仮にも間借りしとる部屋やぞ。こんなん誰かに知られたら
敵わんて……!?
その
懸念も
虚しく何者かが自室を訪ねようとしたのか、すっかり凍結した扉を外側から叩く音が聞こえてきたため、クランメは
素っ
頓狂な声を荒げて応対しようとした。
「ああすまん! ちと部屋が
洒落にならん散らかり方しとってな、扉越しで要件聞かしてもらうわ!」
「おいクランメ、伝え忘れたことがあったんだが…どうした? 扉から冷気が漏れているぞ。」
だが返事の主は立ち去ったはずのルーシーであり、クランメは背筋に不快な緊張が
奔るのが
解った。
そして
狼狽した声を聞かれた恥ずかしさと異変を察知された気まずさから、舌打ちをして扉を
睨み付け、低い声音で切り返した。
「ドランジアか。…別にあんたが気にすることやあらへん。
何やまだうちを
虚仮にし足りなかったんか?」
その拒絶反応を込めた言葉は扉に突き刺さったかのように新たな氷の結晶を生み出し、一層堅く閉ざそうとしていた。そこで
漸くクランメはこの怪奇現象が自身で引き起こしたものであることを察した。
「それ以上氷結を広げると博物館全体に被害が及ぶぞ。それだけでなく、おまえ自身の生命も危険に
晒すことになる。おまえにはラ・クリマスの悪魔が顕現したんだからな。」
だがルーシーの冷淡な指摘を受けて、クランメは思わず口を
噤んだ。
——うちに悪魔が顕現した…!? いや、そもそも
何でおまえは扉越しにそんな断言が
出来んねん。
隕石に
浪漫を
抱いていたクランメは、ラ・クリマスの悪魔の伝承についても一通り把握していた。
とはいえその悪魔が自分に顕現することも、
況してや顕現を指摘されることも予想だにしていないことであり、取り留めのない返事を返すことしか
出来なかった。
「…
何や、それ。どういうことやねん。」
「氷結を生み出すのは『
嫉妬の悪魔』だ。おまえは昔から私に
只ならぬ
嫉妬を
抱いていたんじゃないか?」
そしてその秘めたる悪徳を見透かされることは、クランメにとってこの上なく耐え
難い屈辱だった。
クランメは
途端に胸が苦しくなり、本格的な
眩暈と共に霜の張った床に崩れ落ちて呼吸を荒げた。その間にもどんどん室内は凍結が進み、壁の一部を侵食して本当に
皹割れを生み出そうとしていた。
「落ち着け。おまえが悪魔に呑まれるのは私の本意ではない。まずは部屋の氷結を解いて私を中に入れろ…事情を知らない人間が通りかかる前にな。」
クランメは早くも意識が
朦朧としつつあったが、
辛うじてルーシーが扉越しに
咎める低い声音に
縋り付くことが
出来た。
——ああもう…何が
何だか…訳が
解らん…けど……早いとこ元通りにせなあかん…。
そしてこの
惨状と
卑しい悪徳が更に他人へ知られ渡ることを阻止すべく、室内の修復を試みようとした。
不思議と本能的に力の使い方を理解していたが、水浸しにならないよう氷結を一気に昇華させるには、より強い出力が要求された。
故に床に
這い
蹲るようにして歯を食い縛り、頭が割れそうな思いで少しずつ凍結していた室内を
解かし始めた。
——なんで…
何でこないなことになっとんねん。あいつにうちの
卑しい感情を見透かされてたなんて…
本真に…最悪や……。
「…気が付いたな?」
いつの間にか暗転していた視界が開けてくると、真っ
直ぐに見下ろすルーシーの
黄金色の瞳と視線が交錯し、クランメは慌てて身を起こした。
自室の作業台で実験材料のように寝かされていたことに気付くと同時に、何事もなかったかのように乾きを取り戻した室内を、
紺青色に染まった瞳で
茫然と見渡した。
一方で身体もまた乾いて温かいはずなのに、クランメは
何故か鳥肌が立つような
悪寒を覚えていた。
ルーシーはその反応を興味深そうに
眺めながら、クランメの背中越しに言葉を投げかけた。
「これほど
湿り
気を残さず昇華させながら室温も落ち着いたままとは、やはり悪魔の力とは底知れぬものだな。」
「…一体うちはどれくらい眠っとったんや?」
「私が部屋に入れるようになるまで3分、そこからおまえが目覚めるまで5分といったところだ。悪魔を宿したばかりの身で過剰に魔力を放出させると、身体が耐えられず
昏倒してしまうのさ。おまえには私が魔力を補充させたから、その分目覚めも早かったということだ。私もあまり悠長にしている暇はないのでね。」
クランメにとっては初めて聞く情報ばかりで、覚ましたての脳ではルーシーの
台詞を
真面に理解することが困難であった。
だが1つだけ、
最早隠す必要のなくなった感情が
頻りに訴えかける確信があった。
クランメは作業台から降り立つと、ルーシーに背中を向けたまま冷たく問いかけた。
「…ドランジア、おまえは初めからうちやなくて、うちに
募る悪徳が引き寄せる
悪魔に用事があった
んやな?」
「ああ、理解が早くて助かるよ。どうしても私が野望を実現するためには『
嫉妬の悪魔』の力が必要になりそうでね。…先程おまえにあげたリンゴにも、少々
悪魔を誘引するための
細工をしておいたのさ。」