大陸東部の故郷を追われ、母と共に領主に仕えることになった幼子。それは母と領主が示し合わせて作り上げた虚実であり、ロキシーはその
端緒となった虚実の子であった。
故に
棲み込みで仕えるフォンス邸
別邸から外に出ることは
殆ど許されることがなく、そもそも幼少期から人並みの仕事量に追いつくことに必死で、外部との人付き合いなど、
況してや同年代の友人を持つことなど考えもしなかった。
そもそも農業盆地であるセントラムでは親も子も協力し合って生活を営むことが当然であることを知っていたし、母に言われるが
儘働かされることに何の疑問も
抱いていなかった。
だが
齢を重ねるごとに、
普通の
親子との違いが徐々に可視化できるようになってきていた。
母に父親のことを尋ねても一切答えてもらえないなか、
軈て
夜伽の意味を知り、
親と子がどのようにして生ずるのか
理解した。
新たに課された
普通でない
仕事に
竦然とし、その感情を紛らわす薬に
自ら依存した。
そしてその薬を失ったとき、ロキシーは
既に心の内でこれ以上なく膨れ上がっていた渇望を抑えることができなかった。
——確かに私は望まれて生まれた命ではなかったのかもしれない。だから都合の良い道具としてこの命に意味を付与されてきた…
伯爵様によって、そしてきっとお母様も…影ではそういう目で見ていたのかもしれない。
そう
勘繰ってしまうくらいに、クレオ―メから明かされた
妾の子という事実はロキシーの目に映る世界を
酷く
歪ませた。
何にも
縋ることができなくなり、湖の底に
成す
術なく沈んでいくような感覚に
陥っていた。
——それでも私は、確かに
人の子であって
道具なんかじゃない。それもまた創世の時から変わらない当然の摂理のはずでしょう?
——だから道具にされないよう、私は人を愛したい。そして愛されたい。欲情を満たすためだけじゃない、その人の一生すべてに尽くすことで、必要とされる存在になりたい。その愛する人を、私自身で決めたい。
——それが私の命の本当の意味になっていくのだと思うから。
だがその願望を叶えるために顕現した力はあまりにも
残酷非道で、持ち得る手段は
卑しく低俗なものであった。
人として愛し愛されたいと願っているのに、結局そのために自分の身体を道具にして利害関係を構築しようとしていた。
その方法を除外したとしても、使用人として仕えること以外に人と寄り添う方法を
見出せなかった。
それでいて愛したい人に拒絶されることを恐れて、麻酔のような毒を
只管に浴びせ続けてしまっていた。
ロキシーは一向に晴れないもどかしさに耐え切れず、カリムの体温に浸りながら徐々に
微睡みかけていた。
——いっそのこと
既成事実を作ってしまった方がいいのかしら。…でも毒が抜け切らないときっと情事に及ぶことは叶わない。でも今このまま毒が抜けたら、突き放されて、拒絶されて、逃げられてしまうかもしれない。
——それがどうしても怖い。この温もりを失ってしまうことが怖い。もう二度と手に入れられなくなってしまうようで怖い。…もう、どうしたらいいのか
解らない。
——あの
繋がっていた感覚が、
譬え道具であっても必要とされていた感覚が、今となっては恋しい。本当に愛する人同士で
繋がれたのなら、どんなに幸せなんだろうな…。
そのとき、出入口の扉が施錠を粉砕して勢いよく開かれ、壁に強く打ち付けられて破裂したような音を響かせた。
同時に
唸り声を
伴うような暴風が部屋中に吹き荒れて、大きな窓
硝子が風圧に耐えられずけたたましく割れて
昏い夜空を舞った。
今宵の
壊月彗星は厚い雲に
覆われていたが、それでも十分な明るみが部屋を照らした。
ベッドの
天蓋が
弄ばれるように
捩れ、ロキシーは
否が応でもその
唐突な嵐の元凶を視界に映すことになった。
頭部から全身を
覆うローブを
纏い無機質な仮面を着けた謎の人物が、部屋の出入口付近に
佇んでいた。その右手には、先端に鉱石か何かが着けられた杖のようなものが握られていた。
ロキシーは突然の派手な襲撃に一瞬頭が真っ白になり、その身体は横たわるカリムを護るかのようにしがみついていた。
元々派遣されたカリムの他に何者かが身を
潜めている可能性は頭に入れていたため、予想だにしない
轟音と怪奇現象に衝撃を受けたものの、その襲撃者自体に
慄くことはなかった。
だが部屋に吹き込む冷えた空気が地肌に刺さると同時に、杖の先端の黒い物体を視認するや
否や、そこから自分の心臓へ一直線に突き抜けてくるような、敵意に似た
悍ましさを察知した。
——立ち込めていた毒が薄くなってる。どうやったのか
解らないけど、あの人は意図的に窓を壊したんだ。…毒を生み出す私を始末して、カリム様を救出するために。
——それってつまり…私が命を狙われているってこと…!?
堪らずロキシーはベッドの上で壁際に背中を預けると、カリムの上半身を抱え上げて盾にするように抱き寄せた。
あの杖の先端で胸元を突かれることが致命傷になると、悪魔の本能が訴えていた。
——カリム様には申し訳ないけど…
一先ずこの姿勢で様子を
窺わないと…。
先の暴風は
既に治まっていたものの、室内は
未だに空気が波打っているようであった。
ロキシーは精一杯の
睨みを
利かせながら、急転する現状を把握することに努めた。
『
魔性病』発生以降、ロキシーは毎晩就寝前には邸宅内を巡回していたため、襲撃者がいつどこから邸宅に忍び込んだのかは検討も付かなかった。
だがそれは特段重要なことではなく、
寧ろ毒の充満した廊下を
辿ることの方が至難の
業のように思えた。それを
熟して差し迫ろうとする脅威に、ロキシーはより一層身を堅くした。
そして何のためにこのような襲撃に及んだのかと考えたとき、自分から
溢れた毒が今なお街中の人々の心身を苦しめていることを思い出した。
——私が死ねば、恐らく『
魔性病』も沈静する。…もしかして大陸軍側は、初めからそれが狙いだったって言うの? その根源を
炙り出すために、カリム様は
囮になっていたと言うの…?
——でも、いずれにせよあの襲撃者がカリム様の仲間なら、この状況でこれ以上手荒な
真似はしてこないはず…?
ロキシーが思考を
廻らせていると、襲撃者は左手でローブの裾から短剣を取り出して、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
何の抵抗も叶わず肉壁にされているカリムは、
虚ろな
眼差しで何かを襲撃者に訴えようとしているようだった。
だが襲撃者は左手を掲げると、何の
躊躇いもなく無様に
晒される青年の胸元に向かって短剣を振り下ろした。
だがその寸前、ロキシーの左手が襲撃者の左手首を
確と捕らえた。
振り下ろされたその腕はとてつもない重さで、
僅かでも気を抜けばそのままカリムの胸板を切り裂いてしまいそうであった。
——
酷い。この人は本当にカリム様を殺すつもりだ。カリム様を捨て駒にしてまで、私を始末したいんだ。
——そんなこと、させない。私は
未だ、カリム様に…何も
報いることが
出来ていないの!!
ロキシーは歯を食い縛り、襲撃者に対する激しい
憎悪と拒絶を込めて、殺意の
籠ったその手首を固く握り締めた。
しかし襲撃者はロキシーの手を振り
解くように勢いよく左腕を巻き上げたことで、ロキシーは引っ張られる形になりベッドから床へ
容易く放り出された。
冷たい床に
容易く不格好に叩きつけられ、ロキシーは小さく悲鳴を上げた。カリムもまた中途半端に投げ出される形になり、だらしなく床へと
雪崩れ落ちていくようであった。
——カリム様を、助けないと…!!
せめてその身を起こすべく
這い寄ろうとロキシーは
藻掻いたが、その間に立ち
開かるように襲撃者が
聳え立った。
そして
四つん
這いの姿勢から恐る恐る見上げるロキシーの胸元に向かって、右手に持つ杖を差し向けようとした。
だがそのとき、短剣が床に落ちて乾いた音を響かせ、襲撃者はその場にへたり込むように崩れた。
左肘を付いて、仮面の奥から食い縛るような
喘ぎ声が
零れていた。その左手首はローブの
袖が食い込むように焦げ付いており、不快な臭いを漂わせていた。
ロキシーは
咄嗟に自分の左手を
見遣ると、
掌全体が油のような
滑りに
塗れており、そこで初めて自分が何を
仕出かしたのかを理解した。
——毒だ。大気に
馴染ませるような
生易しいものじゃない、もっと濃密で危険なもの…。
ロキシーが振り撒く毒は元より空気感染、
若しくは経口感染という手法を
採るだけで充分であり、それ以外を
見出す余地もなかった。
だが明らかな感情の
昂りを
以て握り締めていた襲撃者の手首は、濃縮された毒が酸のように変質したことで、
宛ら冷たい火傷を負わされていたのである。
恐らく予測していなかったであろう反撃を
喰らい前傾姿勢で
悶えている襲撃者の姿を、ゆっくりと立ち上がったロキシーが
妖しげな微笑を浮かべて見下ろした。
——ちょっと
吃驚したけど、これでこの人も毒が回って
直に動けなくなるはず。
——でも、もしかしたらこの人もカリム様みたいに耐性を持っているのかもしれない。…それなら、今すぐにでも殺してあげるべきよね。
舌舐めずりをして唇を湿らせたロキシーは、襲撃者の前で膝立ちの姿勢で
屈み込み、無機質な白い仮面を柔らかい手付きで
弄り取り外そうとした。
その間襲撃者は何ら抵抗を見せることなく
俯き、呼吸を押し殺して
只管焼けるような手首の痛みを
堪えているようであった。
そうして
露わになった顎をロキシーが静かに持ち上げ、カリムと同じように
接吻による致命的な毒を——引き出せる限り濃縮した毒を施そうとした。
だが唇を寄せようとしたその顔は、明らかにロキシーと同じ
齢くらいの少女のものであった。
猫のような大きな
鈍色の瞳に長い
睫毛、そして毒を
堪える冷や汗に張り付く栗色の髪を視線で
辿ったロキシーは、ここにきて最初からすべてが間違っていたことを察し、一瞬にしてその表情が
青褪めた。
——嘘でしょう…まさか、女性だったなんて。
派手な襲撃、大陸軍、力の強さ…そうした断片的な推測と感覚、何より
煽られる
敵愾心により、相手が当然に男だと思い込んでしまっていた。
——駄目。こういう若い女性には一番私の毒が効きにくい。それにさっきの反撃も布越しだったから、毒自体は思ったほど回っていなかったのかも……?
改めて襲撃者の少女と瞳を合わせたその数秒間は、まるで時間が止まったかのような錯覚を引き起こしていた。
その原因が胸元に
宛がわれた杖の先端、黒い鉱石に
因るものだと、間もなくしてロキシーは気付くことになった。
胸元から全身に向かって広がる温かな波が、自らの
過ちを悟り硬直していた身体を揺らめかせ、柔らかなベッドに
埋没していくような感覚を引き起こしていた。
——嘘…嫌…やめて……私まだ、死にたくなんてない……!
——ああ……せっかく…私の…生きる道を……見つけたと…思ったのに……!
そのまま深い眠りに
堕ちていくように、ロキシーの五感が、意識が、鉱石と同じ色の暗闇へと
成す
術なく吸い込まれていった。
——カリム様…せめて
貴方だけには…ちゃんと謝りたかった……。
——ちゃんと謝れば……
貴方に…向き合って
貰えたのかな……。
薄暗闇で満たされた部屋の床に、音もなく一着の薄生地の下着が揺れ落ちた。
襲撃者の少女は押し
留めていた息を一気に解き放ち、
宛がっていた杖を右手で握り締めたまま、その場に
蹲って盛大に
喘いだ。
未だに左手首は燃えるような激痛に
蝕まれていたが、少女は応急手当を施すことなく、ローブの中で腰元に装着していた一本の液瓶を真っ先に取り出していた。