恰も青白い
繭に
包まれ、穏やかな眠りに
就いたサキナを静かに足元に横たわらせたカリムは、ディヴィルガムを支えに
蹌踉めきながら立ち上がった。
その一連のやり取りを
這い
蹲るような
格好のまま凝視していたクランメは、
愕然として
首を垂れた。
「…なんで…
何でそないなことができんねん…。」
その
虚ろな
呟きを質問と捉えたカリムは、生命活力の分配により少し
窶れた表情を浮かべつつ、振り返って答えた。
「具体的な原理は僕もよく
解らないんです。でも、ラ・クリマスの悪魔を『封印』する手順に従った後、魔力の
残滓みたいなものが隕石の中にこびり付いているのか、その悪魔の力を再現することができるみたいなんです。一度きりなんですけど…。」
「
喧しい。…もう
喋らんといて。」
だがクランメはその
台詞を強引に
遮ると、その場でへたり込むように姿勢を変えた。
俯き加減なその顔はすっかり血の気が
退いており、呼吸が早く、荒くなっていた。
その様子に明らかな異変を察知したカリムは
直ちに駆け寄ろうと一歩を踏み出したが、クランメは
紺青色の瞳を揺らめかせながら制止を訴えかけた。
「あかん。
早う逃げろ。もう…耐えられへんのや。」
「ど…どういうことなんですか!?」
「……すまん、
赦せ。」
次の瞬間、地下空間の
彼方此方で何か砕け散るようなけたたましい音が響き渡った。
床や壁から、そして天井から
幾つもの巨大な氷柱が突き出るように生成され、
忽ち広々とした空間を埋め尽くした。
カリムとサキナの周囲を避けるように
突如として生じた異変は、ほんの数秒の間に壮大な
氷洞を作り上げ、冷気が
溢れて更に室温を下げていた。
そしてその元凶と
思しきクランメは、その身体を
一際巨大な氷柱に深く呑み込まれていた。
——寒い。
瞳を見開いたまま氷の中に閉ざされているクランメは、
辛うじてまだ残っていた意識の中で最初にそう感じた。
そして氷の中で寒さへの耐性が失われているということは、『
嫉妬の悪魔』を宿す身としての余命が迫ってきている証拠でもあった。
——まったく、情けない人生の
終焉や。結局『
嫉妬』を
拗らせて自分で自分を滅ぼしてまうねん。
自虐に浸るように、クランメは引き金となった瞬間を思い起こしていた。
青年が自分の知らない隕石の秘密を知り使い
熟していたことに『
嫉妬』した。
年端もいかない男女のもどかしい関係性を
目の当たりにし『
嫉妬』した。いずれも一因ではあるが主たる要因ではなかった。
確かにラ・クリマスの悪魔を宿して以来、
浪漫を
抱いていたはずの隕石に
忌避感を覚えてしまい、また感情を制御するため人との
関わりも仕事以外は極力最低限に抑えてきた。
『
嫉妬』の対象が増えてしまわないよう神経を
尖らせ続けた。
色恋など
以ての
外で、これらの欲求の抑圧を酒で解消することも逆効果に思えて、
只管塞ぎ込むことに
徹していた。
感情を落ち着けている間は、瞳の色は元に戻っていた。だがそうして周囲に異変を察知されないよう気を配りつつ役務を
全うするだけの生き方は、孤独で、退屈で、
憂鬱だった。
故にクランメは、自身と同じくルーシーに利用される身であり、私情の持ち込みなど許されない『
陰の部隊』には
幾らかの親近感を
抱いていた。
だからこそ、カリムがサキナに訴えかけていた内容には、裏切りに似た強い衝撃を浴びせられた。
それはずっと自分が誰かに言いたかった言葉であり、誰かに言ってほしかった言葉であった。
同じ穴の
狢だと思っていた青年に、深い
葛藤の末、
醜態を
晒しながらも
縋り付ける相手が存在していたことに『
嫉妬』した。
役目を満足に果たせず
自棄を起こしても、救いの手を差し伸べてもらえる少女に『
嫉妬』した。
結局自分だけが何者にも頼れず
蹲るしかないのだと
己が身を
貶めることで、相対的に世間を生きる人々に『
嫉妬』した。
そうして
矛先が定まらなくなった悪徳は案の
定暴発した。暴発して
擦り減った宿主の命に、悪魔は容赦なく見切りをつけようとするのであった。
悪徳をこの上なく
募らせた者の、天罰とも言える
虚しき末路であった。死の
間際にして、クランメはこの大陸で厄災が
廻る摂理に触れられた気がした。
——疲れた。…もう、
何も考えたない。
クランメは
瞬く間に氷柱に体温を奪われ、脳内まで凍り付いたかのように思考が
儘ならなくなっていた。身体は痛みや苦しみを通り越し、
宛ら氷と一体化してしまったかのような
虚しい心地良さがあった。
その
極寒に身を
委ねていると、
今日まで
培ってきた知識やルーシーへの抵抗のための計略など、ありとあらゆる物事が自分にとって無意味で無価値であるように思えた。
『
嫉妬』にしか生き
甲斐を感じられなくなっていた自分に、張り裂けるような
嫌悪を
抱いた。
『
嫉妬』し続けなければ救いの望めない人生がずっと息苦しく、心は
疾うに限界を超えていたことに気付いた。
縋り付くような未練もなく、ただ利用されるだけの生き
様を終わらせてしまおうと、
塞ぎ込んで自然と事切れるのを待ち続けていた。
この選択すらもルーシーの
思惑通りだったのかもしれないが、それで野望の実現を遅らせることができるのなら本望だった。
——これで…よかったんや……うちは…充分……。
だがクランメは
自らを幽閉するその氷柱が外側から
頻りに何かで
殴り付けられ、自分を
叩き起こすように断続的な
鈍い騒音と振動が伝わってくることに気付いた。
朧げな意識の
下で焦点を合わせると、カリムが必死の
形相を
湛えながら、氷柱に杖を突き立て続けているのが
解った。
——無駄やって言うたんに……何をそんな今更…
気張っとんねん……。
最早何をカリムに説明したかすらも
曖昧でどうでも良くなっていたが、その打ち付けられる鉱石の部分から何の気配も感じられないことに気付き、クランメはぼんやりと認識を改めた。
——ああ…それは
紛い
物やった方か……。
だが
贋作の杖とはいえ、元より
氷塊を砕くような道具足り得ないことに変わりはないはずだった。
それが
解っていて
何故これ程までに差し迫った表情で無駄な
足掻きをしているのか、クランメは考えることも
億劫になっていた。
『
陰の部隊』として『
嫉妬の悪魔』を
見す
見す逃すことは
赦されないことから、自害に対する青年の抵抗は当然の行動と言えなくもなかった。
それでもその使命感を根底から揺るがし、現に深い
葛藤に
苛まれている青年の姿を見た。自分の命を悪魔ごと捕らえたとしても、厄災の無い世界の実現には
繋がらない可能性は充分に
示唆したはずだった。
結局青年の真意が
解らない
故に、クランメはその
虚しい抵抗がただ
極寒の
安寧を
脅かすだけの
煩わしい嫌がらせに思えてきていた。
同時に、当初自分が持ち掛けた取引が中途半端に
滞っていたことも思い出し、このまま大人しく死を待つことに未練が生まれてしまっていた。
——はぁ、しんど。…死ぬときくらい…静かにさせてや…。
苛立ちが
募ったクランメは、残存する魔力を振り
絞って氷柱に
孔を開け、最低限カリムを招き入れられるような空間を
拵えた。
結果として下半身以外が氷柱から露出しつつ横たわる格好になったが、衣服も髪も湿って冷たく、
真面に身体を動かすことも叶わなかった。
眼鏡は
最早使い物にならず、依然として視界は
不明瞭なままだった。
そんななか、カリムが恐る恐る
氷穴へと足を踏み入れて来るのを察した。
「リヴィアさん…大丈夫ですか…!?」
大声を出したつもりはないのだろうが、狭い空洞で震えた声が反響してクランメは頭が割れそうな思いだった。それでも
辛うじてか
細い声音を
絞り出し、
朧げに視線を合わせようとした。
「……
喧しいねん…
本真に……まだ
何か…用事あるんか……?」
「すみません。お尋ねしたいことはまだ山ほどあるんですが…1つだけ、これからの自分の選択のために
訊かせてください。」
カリムがどのような表情を浮かべているのかクランメにははっきりと見定められなかったが、遠慮のない姿勢の割には落ち着いているように感じられた。
「……言うてみ。」
「えっと…リヴィアさんは以前議長に魔力入りのリンゴを食べさせられたって
仰ってましたよね。被験者第1号だって。…
本当に
貴女が第1号だったんですか
。」
その厳選したであろう口早な質問の意図は、クランメにはさっぱり推測できなかった。この状況下でなくとも、恐らく同じ反応を示していたかもしれなかった。
「……どういう意味やねん。」
「議長はその直前にグリセーオに
赴いてたって
仰ってましたよね。5年前、グリセーオで起きた厄災がリンゴを使った最初の実験だったんじゃないかと思うんです。僕はその厄災の被害者で…そのとき議長とも
関わりを持っていたんです。」
詳細を聞き出したところで、凍り付いた脳内では
真面に状況を整理することも
出来そうになかった。
5年前に
突如来訪したルーシーに人生を大きく
歪まされた、その直前にグリセーオという遠く離れた地で起きた事件など、聞き及んだか
否かも判然としなかった。
だが、1つだけ確実に示せそうな答えなら持ち合わせていた。
「…よう
解らへん…けど……ドランジアは…無謀な手を…打つような奴とちゃう……と思う…。」
「ありがとうございます。…それを踏まえて、最後にお願いがあります。」
カリムはその謝意と共に、右手に握りしめていた杖をクランメに近付けた。その先端からは冷え切った身体にも突き刺さるような
痺れを感じ、いつの間にか本物のディヴィルガムに持ち替えていたことをクランメは察した。
「リヴィアさん、
貴女の力を僕に貸してください。議長から真実を聞き出すために、
貴女の力が必要なんです
。」
隕石から伝わる刺激により
僅かに
明瞭になった脳内で、クランメは今度こそカリムの切実な
懇願の意図を把握した。
この青年が自分の主張を
須らく
斟酌したうえで、自分を悪魔ごと捕らえることが主たる目的ではないことは
窺えた。
即ち、その副産物と言える『氷結』の魔力を即席の武器にしたいのだろうと解釈した。
その愚かな
魂胆を推測したとき、クランメの口元からは
咽るような溜息が
零れた。
「…君……人の命を…安く…買い
叩こうと…しすぎなんちゃう。」
「すみません。でも
顛末によっては、僕は議長と
対峙しないといけなくなるかもしれないので。」
「
阿呆か…そんでもまだ安いわ……君の
私利私欲んために…死にかけの命…渡す気ないわ。」
だがこの
期に及んで、ただ無価値な命のまま終わってもいいとは思えなかった。散々利用され
弄ばれる命なら、せめて自分の望む価値を付与したいと
希った。
「真実を…聞き出すなら……全部や。…ドランジアの…陰謀を……うちの力を
使うて…全部、暴くんや…!」
「…そのうえで君が…
本真に
為すべきことを……あの
娘と、考えるんや…!」
「……それで
漸く……うちは
報われる……。」
とはいえ交渉としては結局のところ、命を
投売りしていたようなものであった。
それでも当初の脅迫に似た切り出しにも
拘らず、自分の話を正面から受け止めてくれたこの青年に切なる想いを訴え託すことは、ただ
塞ぎ込んで死を迎えることよりも多分に価値を成すのだと思いたかった。
『人生は
何かを
遺せて初めて意味があるもんやと思っとるからな。』
『それ以前に約束を破ろうもんなら、おまえの氷像を
拵えて敬礼させてもらうわ。』
嘗て自分の口が確かに語った言葉が、不意に心の中に湧き上がってきた。決して満足いく人生ではなかったが、少なくとも誰かに何かを
遺し継承させられるのなら、それで充分だと思えた。
「…ありがとうございます。必ず、そうしてみせます。」
カリムが声音を震わせながらもはっきりと返事を告げると、クランメは
安堵すると同時に『
嫉妬』した。間もなく消えゆく自分と対照的に、意を決して新たな一歩を踏み出そうとする若者に『
嫉妬』した。
そしてクランメはその
微かな感情を最後の魔力に変換して解き放った。
氷穴の外で、
何処かが砕け崩れるような音が聞こえた。
「…帰り道は…下水道から行くんやで…。」
「……ほな、後のことは……頼んだわ…。」
そうしてやるべきこと、言うべきことを
全て吐き出すと、
途端に胸が詰まって意識が
遠退いていくような重苦しさが一気に襲い掛かってきた。
だが
透かさずその苦しみを
掻き消すように温かな波紋が全身を
撫でたのち、身体が空気に
蕩けて浮かび上がるような感覚に満たされた。
間もなくしてクランメは、魔力と一体化した身体が、意識が、
愈々隕石に吸い込まれていくのだと察した。
それでも、あれだけ鋭い敵意を向けられていたはずの隕石に捕らえられる過程は何の苦しみも感じず、
寧ろ安らぎを覚えるような温かさがあり、凍り付いてた身も心もすっかり
解していくようであった。
——
解らんもんやな……こうして
最期を迎えるんが、よっぽど
真面な気ぃするわ……。
——ほな…ちゃんとこの世界の
顛末に…うちの…命も…連れてって…くれよ……。
氷洞と化した広大な地下空間は、青年の足音を吸い上げて張り詰めたように沈黙を保っていた。
カリムは無事だった自分の荷物から液瓶を取り出すと、
悴んだ手でなんとか固く締まった
蓋を開け、ディヴィルガムを傾けて
仄かに青く輝く
魔魂を注ぎ込んだ。
液体がうねり、
魔魂は今までと同様に一瞬で凍り付いたが、それが自分にとって本当に正しい行いなのかは
疾うに
解らなくなっていた。
休息の眠りに
就いているサキナを
見遣ると、身体に絡み付いている青白い
蔓が徐々にか
細く
擦り減ってきていた。
もう残されている
猶予は
殆ど無いのだと覚悟を決めたように、カリムは大きな白い息を吐いてゆっくりと立ち上がった。