「…サキナ…なのか…!? どうしてそこに…いや、大丈夫か!?」
突如聳え立った氷柱とそこに捕らわれた少女の姿が目に入るや
否や、カリムは思わず目を
瞠って立ち上がり、
戦慄きながらも駆け寄った。
その手前で
虚しく横たわっていたディヴィルガムに気付くと、戸惑いながらも拾い上げた。
一方でクランメはカリムの一連の反応を観察した
後、ゆっくり起立して歩み寄りながら
贋作の杖を放り投げるように返却した。
「カリム君が持って
来とったディヴィルガムは良く
出来た
紛い
物や。本物は仲間の女の子に持たせて奇襲をかけるって
魂胆やったんかもしれへんけど…君のその様子やと
本真に
何も知らされん
囮役に仕立てられとったみたいやな。まぁ、敵を騙すにはまず味方からって作戦は別に珍しいことやないと思うけどな。」
クランメが
紺青色の瞳をサキナに向けると、彼女が
紫紺のローブで全身を
覆いながらもその
生地がかなり厚手のもので、せめてもの氷結対策を施していたように
窺えた。
とはいえほぼ全身を氷に
埋められてしまっては
上塗りする冷気に
抗える余地もなく、屈辱に
悶える少女の表情が耐え
難い寒さに
青褪めていくのは時間の問題だろうと見越していた。
——さて、どないしよか。ドランジアの
刺客とはいえ、他の厄災みたく
無暗に
他人の命を奪うような
真似をするつもりは
更々ないんやけどな。
カリムとの交渉がすっかり中断されてしまったクランメは、次の一手を熟慮する合間に、氷結に捕らわれた少女を
窘めようと高圧的に語り掛けた。
「命狙われとるって
解ってて
何も対策せえへんわけがないやろ。この地下空間にこっそり忍び込もう
思たら下水道から舞台の
陰の
蓋開けて上がってくるしかないねん。せやからうちは
態とそこが死角になるよう座っとったんや。」
「けどそれ以前にな、君の敵意が本物のディヴィルガムを通じてうちの背中に
犇々と伝わって
来とんねん。
その杖はそうやって悪魔を吸い上げようと狙いを定める
んやで。その辺が
疎かになっとったというか、
ぶれてたというか
…
何か気に
障ることでもあったんか?」
講釈を垂れながらも、クランメが実際にサキナの存在に気付いたのは、カリムに『
貪食の悪魔』の
顛末について主観を述べていたときであった。
その
最中にあからさまに突き刺すような敵意を背後から感じたクランメは、その線を
辿った先に
凡その見当を付けて反射的に氷柱を生成させていた。
長く悪魔を宿し続けていたことで皮肉にも魔力操作が洗練されてきていたが、
流石に死角で行使した
分氷柱は
大袈裟な規模になっていた。
一方のサキナは、全身を徐々に
蝕む冷気に歯を食い縛って
抗いながら、問いかけには
応えず白煙混じりの苦しげな呼吸を繰り返しているのみであった。
その氷柱の下の方を、カリムは拾い上げた本物のディヴィルガムで
頻りに打ち付けていた。
だが隕石部分が氷柱に当っても
鈍い音を地下空間に反響させるのみで、
僅かな
皹すらも生じる様子がなかった。
次第に取り乱していくようなその情けない背中に気付いたクランメは、
呆れたように言い聞かせた。
「そないな乱暴してもその氷は壊れんし、大事な隕石が傷付くだけやで。確かにその氷はうちが魔力
使うて作り出したけどな、それは周辺の
魔素を
操作した結果として
出来上がったもんであって、魔力の
塊とはちゃうねん。」
「
魔素の使い方には
二通りあるって説明したやろ。せやからそれは自然に気温の変化で
融けるか、うちが固めた
魔素をもう一度動かすかせえへんと無くならん。…まぁ、この地下空間の室温で前者が望めへんことくらい
解るやろ。」
クランメの冷徹な指摘をカリムは受け入れざるを得ず、
愕然としてその場に崩れ落ちた。
だがその無様な姿を
咎めるように、氷柱に捕らわれているサキナが
掠れた声音で訴えかけた。
「…私のことは構うな……早く悪魔を討つんだ…!」
「
駄目だ。『
嫉妬の悪魔』を討ったとしてもこの氷は消えない。君を助けることができない。」
カリムは
独り
言を
呟くように答えると、それが気に
障り何か言葉を投げつけようと
藻掻くサキナを背に、クランメに向かって深々と
首を垂れた。
「リヴィアさん、お願いします…サキナを解放してください。」
その迫真の
懇願は、青年に対し
陰鬱な印象を
抱いていたクランメにとって意外とも言える反応だった。
——
何や青臭いな、そないな
真摯な頼み方されたら調子狂うてまうやんけ。…
本真にうちが悪魔らしい
悪者になってしもてるみたいやんか。
——せやけど、こうなった以上背に腹は代えられへん。君のその感情、存分に利用させてもらうで。
「カリム君、それはうちの
幇助に協力することと引き換えにその
娘の解放を
乞うって意味でええんやな?」
「…その通りです。」
カリムの静かだが確かな返答が地下空間に染み渡ると、サキナは
堪らずカリムを
睨み付け
罵った。
「この
腰抜が…! …過去を清算した気になって
腑抜けたおまえに…情けを掛けられるくらいなら…このまま死んだ方がましだ……!」
「……。」
だがカリムは思い詰めた表情のまま解放を待つばかりであった。顔も上げず硬直しているかのような姿勢を
嘆くように、サキナは更に悲痛な声音を荒げた。
「ふざけるなよ……私はもうここで…結果を出さなきゃいけなかった……
私から始まった厄災の連鎖を断ち切らなきゃならなかった
……だからもう自分の命なんて…惜しくない…! ……それなのに…おまえは何も知らずに…勝手なことを……!」
「…そうだ。俺は何も知らない。何も
解らないままここに来てしまった。だから何も
解らないまま、君の命を
無下にするわけにはいかない。」
漸く上体を起こし口を開いたカリムだったが、
俯き加減にサキナに背を向けたまま、自身に言い聞かせるように答えていた。
その
侘しい背中に向かって、
尚もサキナは
罵倒を繰り返した。
「おまえは…『
陰の部隊』失格だ…! ……散々悪魔の
囁きに…惑わされやがって…! ……そいつを
見す
見す逃がそうものなら…私はおまえを裏切り者として…
即刻突き出してやる……!」
「それが正しいことならば、俺は構わない。それで俺が命を奪われたとしても、君が俺の遺志を継いで厄災の無い世界を実現してくれるのなら…それでいい。」
感情を押し殺すようなカリムの返事を聞いたサキナは、染み込む冷たさと積み重なる屈辱とでより一層
悶えるかのように表情を
強張らせ、
掠れた声音を震わせながら口元から白煙を上げた。
「臆病者…! 軟弱者…! ……おまえのせいで…私はまた…罪を…背負うことになる……!」
そのとき、サキナの周囲が
抉り取られるように氷結が消滅し、ぐったりした身体が氷柱を滑り落ちた。
慌ててカリムがサキナを抱きかかえるように受け止めたが、全身を
纏うローブは
酷く湿って想像以上に冷たく、重くなっていた。
一方でカリムの背後では、
懇願通りサキナを解放させたクランメが、高出力の魔力行使による反動でその場に
蹲っていた。
魔力の操作が洗練されてきたとはいえ、氷結を一気に昇華させ、かつ必要最小限の出力に済むよう調整することは決して容易な
業ではなかった。
結果としてサキナの肉体は冷え切ったままであり、衣類を乾燥させるべく更に手を加えなければならなかった。
だがそれは保護というよりも、想定しうる上での最悪の
懸念を
払拭するために踏むべき段階の1つに過ぎなかった。
クランメはカリムとサキナが若々しく
葛藤をぶつけ合っている
最中、
不図した違和感を
抱いていたのである。
この2人の関係性は知る
由もなかったが、これまでの悪魔との
対峙を経て、それなりに連携し関係を築いてきたことが
窺えた。
だが今回は最初から別々の指示が下されていたように見えたうえ、サキナと呼ばれた少女の方が劣等感を
抱いているのか、発言の真意は
不明瞭だったが、何か
自棄を起こしているように感じられた。
そして一連の観察から、1つの疑問が浮上してきていた。
——
本真にうちを奇襲する作戦やったら、カリムとサキナの立ち位置は逆転してへんと
可笑しい。少なくとも成功率を上げるなら、実績のあるカリムに
潜入を任せた方がええはずや。
何で反撃されやすい対象にこの
娘を立てて、精神的に追い込ますようなことさせてんねん。
そのように思案しながらサキナの
苦悶の表情を
眺めていると、その違和感は最悪な形で
腑に落ちた。少女が
募らせ充満させつつある感情に気付いてしまったからである。
その感情の
昂りすらルーシーの想定の範囲内であるという可能性を疑ったとき、吐き気に似た不快感を覚えたのであった。
——ドランジアの野望を
挫く最も簡単な方法、それはうちが自害することや。
——『
嫉妬』を
募らせとる
者に目星を付けるんは7つの悪徳の中でも
難儀な部類に入る。せやから奴は早い段階からうちに
唾付けとったようなもんやし、その言動で適度な『
嫉妬』を意図的に与え続けてうちを今日まで生かしてきよった。
——そんでもうちが追い詰められた末、自害という選択肢を採って抵抗する可能性も
皆無とは言えへん。せやから奴は今この状況に
於いても、手堅く保険を作っとるんやないか?
——あの
娘には恐らく『
嫉妬』か、
若しくは『
憤怒』に
繋がる悪徳が充分に育ってるんや。そしてドランジアの話に
因れば、
悪徳は伝染しやすい
。
——うちが自害すれば『
嫉妬の悪魔』が、そうでなくとも『
憤怒の悪魔』があの
娘に宿る可能性がある…どう転んでもええように最初から仕組まれとるんやないんか? そう考えると、あの
娘をこのまま起こしとくこと自体が危険やないんか!?
「…カリム君、ちと
退いてくれ…! うちが今から、その
娘を……!?」
だが反動を
堪えつつ
這い寄るようにクランメが手を伸ばした先では、思いもよらぬ光景が広がっていた。
カリムは膝を付いて
屈みながら左腕でサキナを抱える一方で、右手に握られたディヴィルガムの先端からは
仄かに青白く輝く
蔓状の物体が湧き出し、カリムの右腕に絡みつつサキナの全身に巻き付いていた。
サキナは依然として身体を震わせながら、弱々しく抵抗するようにカリムの
襟元を
掴み、か細い声音で訴えかけた。
「…余計なこと……しないでよ……。」
「ごめん。俺が
不甲斐無いばかりに。」
だがカリムはサキナの閉じかけた
瞼から
覗く
鈍色の瞳をじっと見つめたまま、
辿々しくも切実に言い聞かせた。
「俺…もうどうしたらいいのか
解らないんだ。1人じゃ何も
解らない。何もできない。だから、考える時間が欲しい。協力してくれる人が欲しい。そのためには君しか、頼れる人がいないんだ。だから…俺は今ここで、君を失うわけにはいかないんだ。」
その情けない言葉の
羅列を聞いたサキナからは、
呆れたような小さな溜息が
零れた。
だが
軈て全身を青白い
蔓で
覆い尽くされていくに連れ、その口元が
僅かに
綻んでいくように見えた。
蔓は湿ったローブの内部を
辿って地肌にも直接絡み付いており、その
温もりに表情は
安堵し、サキナは呼吸を落ち着かせながら
微睡むように
瞼を閉じていった。
「…うん……また、あとでね……。」