具体的な期限が提示されたことで、
愈々クランメはルーシーの壮大な野望に反抗する策を切らしかけていた。
正確に言えば、これだけ
詰問しても
全く引き下がることなく
堅牢な壁のように
聳えるルーシーを前にして、次第に無力感を覚え
呆れ返るようになりつつあった。
「…一体何を根拠にそないな時間制限ができんねん。うちは悪魔宿した身でどんだけ普通に生きられんのか予想もつかないんや。おまえに命を握られとるようなもんなんやで。せやからちゃんと確実性を保証してくれへんと、納得して協力する気なんて
更々起きひん言うてんのに…。」
だがその
拗ねたようなクランメの態度を
窘めるように、ルーシーは
黄金色の鋭い眼光を
以て断言した。
「根拠? そんなものを言う必要があるのか? 私がやると明言したことはこれまで
全て実行してきた。私は野望を果たすそのときまで、おまえの命を
蔑ろにするつもりはない。だからおまえはここに引き
籠ってやるべきことをやっていればいい。」
その粗暴とも受け取れる
台詞に、
気圧されたクランメの心の内には再び冷たく燃え上がる確かな衝動があった。
——ああもう…
本真にうちは、おまえのそういうとこが大っ嫌いやねん。
それは頭ごなしな仕打ちに対する怒りではなく、根拠などなくとも成し
遂げることを当然に期待させ妄信してしまうような、無敵を思わせる権威性に対する『
嫉妬』であり、快感に似た不可解な心地良さが同じように膨らんでいた。
——せやけど、そないな感情の波に揉まれることに
何も抵抗のない自分もおる。理不尽に命を
弄ばれることが悔しくて腹立たしいはずやのに、その卑屈な感情がうちに
棲み付いた悪魔の餌になっているのが
解る。
悪魔が顕現したクランメに対しては
寧ろそのようにして悪徳を
煽り続けることが、
普通ではなくなった
生命活動を持続するための妥当な手段であることを、当の本人も認めざるを得なかった。
「…
阿漕な奴やな。それが
他人に協力を申し出る態度なんか。」
「特に意見もないのなら、今日からでも命題に取り掛かってくれ。連絡をくれれば、『封印』の実験には極力立ち会うつもりだ。」
これで要件を済ませたと判断したのか、ルーシーは今度こそ研究室を後にしようと荷物を
纏め、
颯爽と扉に向かって歩き出した。
だがクランメはその背中に向かって、最後に
一矢報いようと
牽制を飛ばした。
「おいドランジア、もし5年以内の約束が果たせんかったら、多少はうちの氷結で痛い目に
遭うてもらうで。…いや、それ以前に約束を破ろうもんなら、おまえの氷像を
拵えて敬礼させてもらうわ。」
だがそれを聞いたルーシーは、鼻で笑うように警告を言い残した。
「残念だがおまえは私を殺すことはできない。悪徳とは
矛先が決まっているものだ。
矛先を向けた対象が存在しなければ、ラ・クリマスの悪魔は顕現する理由を失い人の身から離脱する。だがそれは悪魔と融合した肉体にとっての死を意味する。つまり、おまえが悪魔を宿しつつ生き
永らえるためには、常に私に
矛先を向け続けるだけに
留めなければならないのさ。」
それから2年後、ルーシーは宣言通り大陸議会の議員として転身した。そこには例によってドランジア
派閥からの強い
推薦が根底にあったため、参入は時間の問題だろうとクランメは構えていた。
だがルーシーはその聡明さと権威性を
以て発言力を高め、日に日に一般市民の支持も増やしていった。驚いたことに、千年祭の翌年を
目途にセントラムで大規模な地質調査を実施するよう提言し予算を要求するまでに至っていた。
自らが担う命題の保険を自力で作り出していくその手腕に、クランメは当然に『
嫉妬』した。新聞や噂を通してあからさまに有能さを突き付けられることが、不本意ながら生命活力の増長に寄与していた。
一方のクランメも仕事や研究の合間を
縫って、ルーシーより課された命題に少しずつ取り掛かっていた。
悪魔を宿した日を境に体質が慢性的な冷え症を
患ってしまったかのように変化しており、館内でもストールやセーターといった防寒具を身に付けざるを得なくなっていた。
そんななかクランメは
自らの能力や実用性を踏まえ、過冷却という疑似封印の手段を思い付くまでには
然程時間を要しなかった。
だがそれが機能するかという実験は、
自ら
魔魂を生成できない以上、多忙なルーシーの同席を得た上で試行錯誤を繰り返さねばならず、
進捗としてはかなり緩やかなものであった。
なお、このときから
既にディヴィルガムに
魔魂を吸収させ、
魔素を仕込んだ液瓶に投下するという順序は確立されていた。
そして更に年月が過ぎ、ルーシーは当時の大陸議会議長の任期満了に
伴い、諸外国でも例を見ない
齢27という若さで議長ならびに首相の座に選出されることになった。
その頃にはクランメもまた、封瓶の試作品を
概ね完成させていた。だがそれは理論上
魔魂という
形を維持するに過ぎない
代物と言わざるを得ず、実際に悪魔を捕らえた上での検証には至っていなかった。
——そもそもラ・クリマスの悪魔の定義って
何やねん。霊的な存在なんか? 霊的な存在は凍結保存ができるんか?
——大前提として、悪魔を
包めた
魔魂は一般人でも視認できるとドランジアは言うとった。でも魔力自体は詰まるところ、
魔素と悪魔と悪徳の3つの要素が重なり合わんことには具象化せえへん。そのいずれかが欠ければ
魔力として成立せえへん
のや。
——悪徳を供給されなくなった悪魔が凍結保存できるか
解らん以上、
譬え過冷却が機能したとしても、
魔魂は内側から崩壊してただの
魔素の
殻だけが封瓶に残るんちゃうか?
その疑問はルーシーに
風蜂鳥で問い
質しても明確な返答が得られず、憶測を続けるにも限界があった。
それどころか、
壊月彗星が再び接近する時期を迎えるに当たり、ルーシーは試作段階の封瓶を数十本用意するよう要求してきていた。ラ・クリマスの悪魔を見つけやすくなる時期だからこそ、その検証をすべきだと意に介さなかった。
クランメ自身もその主張には理解を示さざるを得ず、その要求に応えていた。元より
自らに課された命題は悪魔の『封印』方法を
ある程度確立させること
であったため、及第点には達したと判断して、後はルーシーからの連絡を待つことにしていた。
案の
定ルーシーは首相の座に就いてもなお、ディレクタティオ大聖堂から十字架を
譲渡してもらうという交渉にはあり付けていないようであった。
だがクランメもルーシーも
齢28を迎え、
壊月彗星がまた一段と接近してきた頃、そのディレクタティオ大聖堂が
蒼く焼け落ちて多数の教徒が死亡したという衝撃的な事件を、クランメは新聞を通じて知ることになった。
それがラ・クリマスの悪魔による厄災であると直ぐに
解り、脳内ではルーシーに対する様々な憶測や疑心が飛び交った。
——この国の歴史的建造物が焼失した以上、現場は大陸軍が掌握せざるを得なくなる。そうすればドランジアの主導で十字架を押収することも不可能とは言えない。…もしかして、そのために奴は意図的に厄災を生み出したんか!? うちが以前、悪魔を顕現させられた時のように…!
だが首相となったルーシーには、今まで以上に
迅速な連絡を交わすことが
出来なくなっていた。
その事件から7日ほどが経った頃、封書と共に簡易な小箱が送り付けられてきた。小箱の中身は、グレーダン教徒が一般に身に付けている黒いペンダントだった。
だがクランメがそれを拾い上げると、
掌が
微かに
痺れるような違和感を覚えた。そして封書に
認められた内容に、思わず息を呑んだ。
『それは焼失したディレクタティオ大聖堂の地下から押収された一品だ。手に取って
解ると思うが、微量の隕石成分を
含有している。これは
嘗て『
魔祓の儀』で使用された十字架を細かく砕いて加工したものだ。』
『大聖堂の祭壇に飾られていた十字架は
疾うに
只の石像に
摺り替えられ、希少な鉱物を含む装飾品として加工されて闇市場に流され、内戦時代後より再興するグレーダン教団の資金源になっていたというわけだ。とはいえ、7本の十字架すべてが砕かれ失われたわけではない。その
残骸や装飾品を出来る限り押収し、成分分析を進めていくつもりだ。』
**********
「…で、それが例のペンダントや。あん
時は中間報告のつもりでうちに寄越したんやと思っとったけどな…。」
クランメは白衣のポケットから小箱を取り出すと、机上を滑らせてカリムに見せつけた。とはいえその外観を
眺めただけでは、隕石成分が含まれているかなど
解るはずもないことは承知していた。
あくまで度重なる厄災の
発端となった物的証拠として提示し、クランメは
漸く主張を結ぼうとしていた。
「その数日後にメンシスで別の厄災が起こった。メンシスが密輸品の
温床になっとったことくらいうちでも知っとる。そのペンダントもそこで密かに流通しとったに違いあらへん。せやからその時点で、ドランジアが標的と場所を選んで意図的に厄災を引き起こしとることは
概ね予想がついた。…だが、奴に渡した封瓶は1本たりとも戻ってけえへんかった。」
「そうして大人しく待ち
惚けとる間にもセントラムで、グリセーオで厄災が続いて、3日前にはトレラントが『
貪食の悪魔』による襲撃を受けた。そして今日、ディヴィルガムを携えた君が事情を知らされずにうちの前にやってきた。…
如何にドランジアとの約束が
歪んできてるか、もう
解ってもらえるやろ?」
固唾を呑んで独白に聞き入っていたカリムの前で、クランメはまた一段と前のめりになって訴えかけた。
「ドランジアの真の目的はラ・クリマスの悪魔の半永久的な『封印』やない。集めた
魔魂を一緒くたにして計り知れないほどの魔力を手に入れようとしとる…
嘗て預言者グレーダンが執行した『
魔祓の儀』を再現するみたいにな。せやから封瓶による一時的な『封印』で構へんとでも思っとるんや。その分だけ厄災を短期間に集中させればええだけの話やからな。」
「その上で何を
仕出かそうと企んどるのかまでは
解らんけど、その目的のためなら国民の犠牲を
厭わん非情な奴の考えることや。君らにも
秘匿しとる時点で絶対
洒落にならん
顛末になると確信しとる。うちかて『封印』はもっと長期的な計画やと思っとったんよ。」
「せやからうちを見逃す
幇助をしてくれって取引は、そないな脅威を阻止することに
繋がるはずなんや。そしてその交渉は…ディヴィルガムを託されとる君にしかできひんというわけなんや。」
漸く自らの主張を経て
警鐘を鳴らし終えたクランメは、
珈琲を口にしようとカップを
摘まみ上げたが、
疾うに空になっていることを失念していた。
もう一度
淹れ直そうと粉末の入った瓶の
蓋を開けようとしたが、その前に一連の独白を受けて
葛藤に
苛まれている様子のカリムから、
絞り出すような質問が挟まれた。
「リヴィアさんの
仰ることは大体理解したつもりです。しかし、その理屈であればリヴィアさんは狙われる順番として最後になるんじゃないんですか?」
「うちが最後と知られたら警戒されると思われとんのやろ。封瓶の予備はまだ持っとるはずやし、きっと残る『
憤怒の悪魔』にも目星が付いとるんやろな。」
「いえ、だからその…僕は最初に『
貪食の悪魔』を確保できなかったって言いましたよね? ディヴィルガムで
仕留められず逃げられてしまい…トレラントを
蹂躙した
後宿主とともに消失してしまったんです。」
「…
何や? 君はトレラントで『
貪食の悪魔』と
対峙してたんとちゃうんか?」
カリムが気まずそうに小さく
頷くのを見て、クランメは更にきな臭さを覚えた。その
曖昧な情報のせいで、自分が次の標的にされているという主張に筋を通し切れていなかった。
それもまたルーシーによる
攪乱めいた策略であるかのように思えたが、そうでなくともクランメには古い付き合いであるが
故の確信があった。
——ドランジアは憎らしい程に有能で、あからさまな妥協や嘘を許さない奴だとうちは散々思い知らされて来とんねん。あいつは確かにうちにこう言った…『
野望を果たすそのときまで
、おまえの命を
蔑ろにするつもりはない』と。
——つまり、野望を果たす準備が整ったから、うちがその
贄になるときが来たってことなんやろ!?
「あのとき現場にドランジアが直接出向いとったことは新聞でも報じられとる。奴の
魔素を
掌握する能力なら、魔力が浸透した宿主を悪魔ごと
魔魂に変形させても
可笑しない。」
「『
貪食の悪魔』はドランジアが密かに、自らの手で捕らえとるはずや。それを前提に動いとるから、
君らも
無駄に回り
諄い作戦立てて来てんねやろ?」
その
苛立つような
台詞が終わると同時に、クランメの背後の空気が
軋んだ音を響かせ、舞台の
陰から突き上がるようにして巨大な氷柱が
迫り出した。
そこには呑まれるように捕らわれた1つの人影があり、不意打ちを
喰らったことで手放された本物のディヴィルガムが、乾いた音を響かせて舞台に転がり落ちた。
氷柱の中から腕と顔だけを露出させた
格好で表情を
歪ませていたのは、サキナであった。