イリアの攻撃的な
口振りは、渇望の証拠であった。理不尽で不服な
遇いを受けることは『
憤怒』を高めるための燃料でもあり、そうして
怒る対象を滅ぼすことが本来の悪魔としての本能であった。
だがそれは同時に悪魔を宿した自身を滅ぼすことも意味しており、一連の破滅的な衝動はイリアの軍人としての
強靭な精神力によって
辛うじて抑え込まれていた。
ルーシーはそのような
膠着状態を
遂に観念したのか、大きく溜息をついて
呆れたように両手を広げた。
「…確かにこれは私の誤算だな。仕方ない、一度しか言わないからよく聞くといい。」
ここに来てルーシーが本当に真意を打ち明ける気になったことは、イリアにとって拍子抜けであった。
だが不気味に静まり返った周囲を警戒するように視線を走らせるなかで、もしかしたら先程まで包囲していた『
陰の部隊』にすら釈明を
躊躇うような目的を抱えているのかもしれないと
訝しみ、
直ぐに身構えていた。
「私の本当の目的は…この大陸からラ・クリマスの悪魔を排除するため創世の神と交渉することだ。7体の悪魔の魔力は、神と同等の次元に立ち並ぶために必要なものなのさ。」
だが
漸く語られたはずの一言はあまりにも現実離れしたものであり、イリアだけでなくカリムも絶句していた。
——創世の神と、交渉する? 神と同等の次元に立ち並ぶ? …夢物語にも聞こえるそれが、
貴女の真意なのか……!?
その反応を受けたルーシーは
自嘲気味に肩を震わせながら、更に語り続けた。
「そんな顔をするのも無理はない。だがこの大陸には、
嘗て一度だけ創世の神と
対峙した者がいた…
旧大陸帝国王
グレーダンだ。」
「グレーダンはラ・クリマスの悪魔を『封印』するために『
魔祓の儀』を執行したが、それは失敗に終わった。ディヴィルガムでは7体分の悪魔の力を抑え込むことが
出来ず、グレーダンはその膨大な魔力に呑まれた。…厳密に言えば、神罰を受けたのだ。悪魔を
遣わせた大陸の民への
戒めは創世の神の決定事項であり、その悪魔を封じることは神に対する
叛逆行為だったからだ。」
「神罰として
無間の
牢獄に
囚われたグレーダンは神に
赦しを
乞い、悪魔を再び解き放ったうえ大陸の民に『7つの
戒め』を約束させることを誓った。そうしてグレーダンは神の
赦しを得て現世に帰還したが、神は
無間の
牢獄でグレーダンの寿命を大きく奪っていた。大陸の民に
戒めを課すことを彼の
最後の役割として
決定したからだ。」
「そして
唐突な老衰を民に
秘匿しながら役割を終えたグレーダンは、その日のうちに息を引き取った。…皮肉にもその末路が預言者としての
肩書を完成させてしまったがな。」
学舎でも聞いたことのない史実を
流暢に明かすルーシーを前に、イリアは徐々に
眩暈を覚え始めていた。
「…到底信じられないだろう? だがこれは
戯言ではない…そうでないと
私は信じなければならない
。これは
紛れもなく現世に帰還したグレーダンが王族のみに語った言葉だからだ。
その子孫である
我がドランジア一族は、代々密かにこの事実を
口伝してきた。民の上に立つ者が二度と同じ
過ちを繰り返さないよう
戒め、本物のディヴィルガムを
秘匿して歴史の表舞台から
自ら退いたのだ。」
「だがそれから何百年という時が経ち、共和国として法律や人権、道徳規範が根付きつつある現代に
於いて、
偶発的な厄災に
因る
戒めなど国家
繁栄の
弊害にしかならないと捉えられるようになった。そうして私の父はピオニー
元帥と共に『
陰の部隊』を組織し、ディヴィルガムを引っ張り出して厄災の根絶に乗り出した。」
「しかし、父は結果を求めて
急いてしまっていた。それが一因となって身内に不和が生じ、崩壊へと至った。…それでも唯一残された私は父の遺志を継ぎ、着実に厄災の根絶を果たすべく13年の時を費やした。結果として
辿り着いた方法は、
嘗てグレーダンが犯した
過ちを再現することに他ならなかった。」
「だが私は
無間に
囚われようとも、神に
赦しを
乞うつもりなど
毛頭ない。その
牢獄で朽ち果てるそのときまで、私は厄災を
齎す悪魔を
己が身に抱え、この地に
還す必要がないことを訴え続けてやる。…それこそがドランジア家の
末裔となった私の役目であり、責務なのだ。」
「…おまえたちは疑問に思ったことはなかったのか? この大陸を囲む海の向こうにも
数多の国家が栄え、人の生活が営まれているというのに、ラ・クリマスという世界だけが千年も厄災の脅威に
晒され続けているのだぞ? その理不尽な束縛を打ち破ることができる者は、私以外に存在し得ない。…その意味では、交渉ではなく
叛逆と称した方が妥当なのかもしれないがな。」
ルーシーの長い独白に聴き入っているうちに、イリアは
眩暈が一段と
酷くなり、片膝を付くような
格好へと崩れ落ちてしまった。
それは想像を
遥かに超えたルーシーの原点と執念に理解が追い付かなかったからでも、先の雷撃の反動が悪化したからでもなかった。胸が締め付けられるように呼吸が苦しくなっており、
俯きながら大粒の冷や汗を浮かべていた。
傍らではカリムもまた同様に地面に
蹲るようにして
喘いでおり、
自らの体調の異変が何らかの外的要因に
係るものであることだけが明らかであった。
——何だ…? 上手く息ができない……これもまた、議長の
仕業なのか…!?
その
掻き
毟りたくなるような首元を、
俯く視界の外から伸びてきたルーシーの右手が
掴んだ。
決して
絞め付けるような
力みは感じなかったものの、それ以前の息苦しさから何も抵抗が
出来ず、周囲の空気全体が抑圧されているようで電撃を震わせることも叶わなかった。
「すまない、イリア。おまえをこんなに苦しませるような形で
最期を迎えさせたくなかった。…これは私の
我欲が導いた誤算だ。」
朦朧とした意識に届いたルーシーの言葉を
合図に、
掴まれたイリアの首元を中心に肌が盛大な
罅割れを起こし、
黄蘗色の光が
滲む
亀裂が
忽ち全身へと広がっていった。
添えられただけの
掌から一瞬
骨身を砕くかのような激痛が
奔ったが、
直ぐに全身が空気に
蕩けるかのような脱力感へと転じ、イリアは今まさに自分の命が奇妙な力で奪われようとしている現実を
否応なしに突き付けられた。
僅かな気力を振り
絞って引き
攣った顔を上げると、ルーシーの
黄金色の視線に
囚われた。その蛇を思わせる
昏く支配的な
眼差しは、初めて会った頃の彼女に抱いた印象を想起させた。
——
貴女は……あの時から何も…変わっていなかったのですね……。
軈て焦点も合わなくなり、その残像が緩やかに
遠退いていった。
成す
術なく意識が暗闇へと引き
摺り込まれていく中で、最後に生まれた感情もまた静かな『
憤怒』であった。
だがその
矛先は
最早曖昧で、
悄然としたものに成り果てていた。
——どうして
貴女は…いつも独りで……何もかもを抱え込んでしまうのですか……。
——私は…
貴女の道具としてではなく……
貴女の意志を共に担ぐ者として…力になりたいと願っていた…はずなのに……。
——悔しい……
虚しい……。
——未熟な自分が……最後まで
貴女の心を開けなかった自分が…
不甲斐ない……腹立たしい……。
東の空から
昇った
壊月彗星は、
暦の上では
今宵が最もこの星に接近する日であった。
立ち込めていた雷雲が流れ去り、
煌々とした怪しげな輝きはソンノム霊園の広場に降り掛かった
無惨な厄災の
痕を誇張するように照らし出していた。
その中心で
蹲っていたカリムは、ゆっくりと呼吸を繰り返して慎重に体力を取り戻そうとしていた。
傍らには持ち主の無くなった隊服や
鎧が
虚しく転がっており、
その異変を境に
息苦しさは和らぎつつあった。
ディヴィルガムは
未だカリムの
懐に抱えられていたが、その杖が無くともルーシーは悪魔を
魔魂に変えることができるというクランメの推論が無情にも証明されていた。
ルーシー・ドランジアという人物の正体が飛躍的に混迷を極め、カリムは底知れぬ
畏怖を
抱いた。
だがその一方で、なんとしても彼女に問わねばならないことが1つあった。
カリムはやっとの思いで顔を上げたが、その目先の光景に
直ぐさま息を呑んだ。
こちら側に背を向けていたルーシーの前には6人の『
陰の部隊』が新たに現れて囲むように
跪いており、
各々が
魔魂の入った封瓶を献上するように掲げていた。カリムが
庇っていたはずの封瓶も、いつの間にか奪われてしまっていた。
ルーシーは右手を広げて淡い
黄蘗色の
魔魂を浮かべながら、左手を掲げられた封瓶より上の辺りに
翳した。
すると凍結していた封瓶の中身は上澄みから
罅割れて融解し、
紅色、空色、
菫色、
萌黄色、
碧色、
紺青色の6つの
魔魂が浮かび上がった。
そしてルーシーが
黄蘗色の
魔魂と共にこれらを空中で練り合わせると、一気に膨張して高さ数メートルはあろうかという扉を
象った猛烈に白く
眩い光となった。
この世の何よりも
眩しく感じられたその光の扉は、カリムにとって
只管に不気味な存在でしかなかったが、これこそがルーシーの悲願であった創世の神との交渉に
繋がる入口なのだろうと思わされた。
そしてルーシーが光の扉へ向かって一歩を踏み出したので、カリムは
咄嗟に声を張り上げて呼び止めようとした。
「…おい、待てよ……ちゃんと説明しろ……!」
敬語を忘れて必死にしがみつくような物言いだったが、ルーシーは振り向くことなく何の感情も
伴わない無機質な調子で返事をした。
「カリム…
リオナのことは
本当に申し訳なく思っている。そしておまえを悪魔への
復讐心に束縛させてしまったこともな。だからこれから私が為すことは、せめてもの
贖罪でもあるんだよ。」
ルーシーがリオの真名を知っていたことでカリムにはまた別に込み上げてくる感情があったが、そのことを追及している余裕はなかった。
「違う…そのことはもういい…俺が
訊きたいのは、こいつの色のことだ!!」
その
喚き声にルーシーがゆっくりと振り返ると、カリムは
這い
蹲った姿勢で前髪を
捲り上げていた。普遍的な黒色の右の瞳に対し、隠していた左の瞳は蛇を思わせる
黄金色であった。
ルーシーはその釈然とせず
苛立つ青年の表情を振り返り苦笑を浮かべると、
遣る
瀬無い声音で語り掛けた。
「
ドランジア家の人間としてのおまえは、もうこの世には存在しない
。だから、これからは自由に生きろ。…それがおまえの両親の願いでもあったのだからな。」
直接的な答えではなかったが、それだけでも
幾分かの確信を得たカリムは、何も言い返せず
愕然としていた。
「…しかし、こうして縁を切ったはずの
甥を
廻り合わせるとは、やはり創世の神は
質が悪いものだ。はっきりと文句を言ってやらねばならんな。」
そしてルーシーは
独り言のように
呟くと、そのまま
眩い扉の先へと足を踏み入れ、今度こそ姿を
晦ましてしまった。
何の離別の言葉もない幕切れにカリムは頭が真っ白になり、後追いすることも
儘ならず、打ち
拉がれてその場に崩れ落ちた。