第1話 暗雲
文字数 4,426文字
——ラ・クリマス共和国 大陸平和維持軍 国土開発支援部隊 第1部隊活動日誌(抜粋)
——記入者:部隊長イリア・ピオニー
【ラ・クリマス大陸暦999年5月16日 アヴスティナ連峰の麓にて】
——野営の後、明朝までにクラウザへと到着。ラピス・ルプスの民の長を名乗るオドラ―・ベル氏に大陸議会より預りし勧告文書並びに食糧品等の物資を受け渡す。ベル氏の応対は、比較的我々と良好な関係を意識していたものと思われた。
「…見えてきた。あれがクラウザだ。」
明朝の冷たく静まった空気を掻き分けた道の先に、2本の古びた石造の柱が忽然と立ち並んでいた。傍から見れば、山壁が風化し切り崩されたようなその地形に人が住んでいるなど誰も想像出来ないように思えた。
だが今や稀有な人種となったラピス・ルプスの民は確かにそこで何百年と集落を営み続け、その辺鄙な石像が唯一の目印なのだとイリアは事前に情報を得ていた。
「ふぁ~あ…にしても隊長、本当にこんな朝早く尋ねて大丈夫なんすか?」
イリアが御する馬の後方では副隊長の1人であるウィロ・カルミアが、揺られる馬の上で欠伸をしながら癖毛の金髪を掻いていた。
「ちょっと、あんたはそれより先に自分の身嗜みを気にしなさいよ。みっともないわね。」
同じくその隣で馬に跨り部隊を率いているもう1人の副隊長ナンジ―・レドバッドが、藍色掛かった黒髪を靡かせながら気怠そうな同僚を咎めた。
「煩ぇな。そっちこそ顔が真っ青じゃねぇか。『獣人』との対面を前に気後れでもしてんのか?」
「仕方ないでしょ、ただでさえ冷え込んでるんだし。あと『獣人』は蔑称なんだから気を付けなさいよ?」
「…すまないな、変則的な遠征で無理をさせてしまって。」
イリアはいつも通り棘のある口論を繰り広げる2人の副隊長を振り向きながら、凛とした声音で申し訳なさそうに言い聞かせた。
だがウィロとナンジ―は透かさず喧嘩を中断し、互いに表情を柔らかくし合ってイリアに言葉を返した。
「私たちは大丈夫ですよ、隊長。これもドランジア議長の指示ですから、何の心配もしていません。」
「そうそう。明日は安息日だし、今日も変則的な分早く仕事を切り上げられると思えばどうってことないっすよ。」
「…相変わらず休むことばかり考えてて呆れるわ。よく隊長を前に軽々しくそんな口が利けるわね。」
「ちゃんと夕方発の機関車でヴィルトスに帰省する許可貰ってるからな。俺は仕事以前に愛する妻子のために生きてんだよ、あんたにゃ当分その心は解らんだろうけどな。」
「はいはい。愛する妻子のためにちゃんと身嗜み整えて仕事に励んで、さっさと昇格でもしていきなさい。」
尚も続く2人のやり取りを背に、正面に向き直ったイリアの口元は自然と綻んでいた。
ウィロは齢28、ナンジ―は齢29と自分より歳上であり、大陸軍の所属歴としても先輩に当たる存在であった。
それでも2人は隊長に任命された自分に敬意を払いつつも、ピオニー家という由緒ある家柄を敬遠することなく、時には親身に接してくれていた。
気さくだが要領の良いウィロは、大陸議会ドランジア派閥であるヴェルフ・カルミア議員の末子で妻子持ちであった。一方で冷静で面倒見の良いナンジ―はあまり過去を明かさないものの、大陸東部の出自であると聞いたことがあった。
決して長い付き合いとは言えないが、イリアは自身に対する2人の姿勢や気遣いが有難く、信頼を寄せていた。
イリアが率いる国土開発支援部隊第1部隊は、セントラムで調達した物資をグリセーオに配給しつつ、大陸北東部カリタス州や東部ラヴォリオ州の貧困地域を巡回してセントラムに戻るという7日間周期の業務に従事していた。とはいえそのうち1日は安息日、所謂休日である。
だがほぼ年中大陸内を行脚している国土開発支援部隊には、風蜂鳥を通じて既定の道筋から外れた訪問先が大陸議会や大陸軍本部から指示されることが屡々あった。
特に今回はアヴスティナ連峰という遠方へ出向くことになり、隊員の足並みは重苦しいものがあった。
大陸平和維持軍元帥ジオラス・ピオニーの娘であるイリアには家名に恥じぬ厳格さが常に求められていたためか、仕事以外では寡黙になり、どのような任務であっても専ら自らの振舞いを以て部下に意思を体現するようになっていた。
その分ウィロとナンジ―が屈託のない言動で部隊の空気を和ませる役回りとなっており、その両副隊長の働きぶりにイリアは精神的にも助けられていた。
だが目前に迫っていた石造りの門の前に突如小柄なラピス・ルプスの民の少女が現れると、部隊の空気は一転して緊張感に包まれその足を止めた。
要件を伝えるべき相手は集落の長だったが、仁王立ちするその少女は露骨な敵意を差し向けていたからである。
「このような朝早くから大陸軍が何用か。それとも儂の知らぬ間に人間の活動時間が早まっておったのかのう?」
彼女の態度は尤もであり、人間であってもこのような明朝に突然門戸を叩かれれば機嫌を損ねて当然の無礼であることは重々承知していた。
背後では両副隊長含めた隊員が皆固唾を呑んで、イリアの立ち回りを見守る視線を送っていた。
だがイリアは皮肉交じりの歓迎を受けながらも、静かに馬から降りて表情を変えることなくその少女へ歩み寄った。
決してこの不躾な訪問が、悪い結果を齎さないという確信があったからである。
——それでも敢えて隊長…いやドランジア議長はこの時間帯に集落を訪ねることをはっきり指示された。議長の指示はいつも迷いがないうえに的確で、恐ろしいほどに上手く物事が運ぶ。
最終的にはこちら側の事情を深く説明するまでもなく、後から現れた一族の長が第1部隊の訪問に理解を示し、無事に任務を遂げることができた。
それが200年以上生きると言われたラピス・ルプスの民の思慮深さに因るものなのかはイリアには解らなかったが、ルーシー・ドランジアを信頼した結果が自身の心の内にまた1つ積み重なったことは確かであった。
イリアの大陸軍としての生き様は何よりルーシーへの畏敬の念によって支えられ、一歩を踏み出す確かな原動力になっていた。
【同年6月2日 ラヴォリオ州ユーノスにて】
——昨夜ディレクタティオの大聖堂が蒼き炎で焼け落ちたとの報せを風蜂鳥にて受け取った。
——安息日であった昨夜の礼拝に参列していた正教徒数百名が犠牲となったその蒼炎は、伝承されるラ・クリマスの悪魔による厄災だと大陸議会は考えているようだ。
——当部隊もその不幸な犠牲を悼みつつ、予定通りラヴォリオ州を巡回し、夕刻までには同州セプテムへと向かう。
【6月8日 ラヴォリオ州ノヴェムにて】
——安息日であるが、大陸議会より通達があったので日誌に記す。
——予てより採決が争われていた関税法に係る特措法が明日にも成立見込みとなったことから、その通達ならびに大陸軍としての関係構築のため、メンシスへの訪問が指示された。訪問予定日は11日とし、前日までにセントラムに到達し物資補給をせよとのことであった。
——今や我が国の2大貿易港と称されながらも未だに領主の監督権が根強く、これまで大陸軍による介入が不十分だった地にこれから足を踏み入れると考えると、身が引き締まる思いである。
——とはいえ、13日にグリセーオへ定期物資を届けるためにはセントラムへ蜻蛉返りをしなければならない。だが今週ラヴォリオ州で訪問できなくなる地域は他の部隊が足を運ぶよう、別途調整がされているらしい。
【6月11日 ヒュミリア州メンシスにて】
——同州内の大陸軍駐屯地を発ち、午前中にはメンシスの領主ホリー・エクレット伯爵を訪ねた。
——9日に可決された特措法の施行に伴い、早くて来週16日には輸出入品の検査体制を整えるため別部隊が派遣されることも予定通り伝えた。
——エクレット邸に寄贈した物資はセントラム産の果実が中心で挨拶代わりのようなものであったが、当の伯爵は終始落ち着かない様子で我々を持て成していたように窺えた。
「そりゃ当然でしょうね。メンシスには密輸品が出回ってるって話っすから、伯爵からすりゃ俺達の来訪は摘発前の最終勧告みたいなもんすよ。」
セントラムへ戻る道中、エクレット伯爵と謁見した感想を答えたイリアに、ウィロは清々したかのような相槌を打った。
メンシスが密輸品の温床となっている実態はイリアも把握しており、先日の特措法成立はその現状を打破し共和国の基盤をより強固にする好機だと捉えていた。
だがその一方で少し勇み足が過ぎたのではないかとも顧みており、似たような心境をナンジ―が吐露していた。
「でも翌年に控えていた千年祭を念頭に掲げた措置とはいえ、ちょっと大陸議会側の圧力が強いように感じるわね。猶予を与えればその分闇市場を隠蔽されやすくなるんだろうけど…海賊との接点もあるって噂だし、今後大陸軍と何かしらの衝突は避けられないような嫌な予感がするわ。」
その懸念に対し、現職議員の末子であるウィロが呆れたように反論した。
「そうは言っても、特措法はここ半年くらいずっと議会で揉めてたんだぜ。グレーダン教派閥がずっと抵抗してたのが、この前の大聖堂焼け落ちの一件以来打って変わって妥協するようになったんだ。今更伯爵が狼狽したところで、呑気な奴だとしか思えねぇけどな。」
「そうなんだ。…でもグレーダン教派閥って、所謂保守派でしょ? 千年祭を踏まえるのなら猶更特措法を争う理由が思い浮かばないんだけど。」
「そんなの、奴らが密輸に何かしら関わって甘い蜜吸ってたからだろ。実際そういう噂もあったしな。疚しい理由があるから醜く粘ってたんだ…きっとそれが、大聖堂の焼け落ちを機に大陸議会側に露見しちまったから法案に折れたに違いねぇよ。」
議員の息子であるとはいえ憶測で語るのは良くない、とイリアは釘を刺そうとしたが結局その台詞は呑み込んでしまった。雑談程度で逐一口を挟むような事柄でもないと思い直したからである。
自分の使命とは自国の平和と発展の一助となることであり、どのような世迷い事に塗れようと任ぜられた目的のために隊員を先導することだと常に肝に銘じていた。
【6月12日 プディシティア州セントラムにて】
——昨日訪問したメンシスにて大規模な竜巻が発生し、甚大な被害を齎して交易都市としての機能を喪失したとの一報が入った。
——迅速な復興支援並びに流通網の再構築に伴い国土開発支援部隊の再編が実施されるため、遠征中の全部隊へ15日の安息日までにトレラントに帰還するよう緊急指令が出された。
——当部隊は明日のグリセーオへの定期配給のほか主要地域を廻って帰還する行程となるが、恐らくトレラントへの到着は早くても15日の昼過ぎになる見込みである。安息日に休めず隊員には負担をかけるが、このような深刻な事態にこそ国のため尽力してもらうよう理解を求める他ないだろう。
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