昏い夜空の下、小高い丘の上の廃墟に1人の修道女が
蹲っていた。
北の山脈から吹き降ろす風が
唸りを上げ、彼女の露出した長く美しい
白髪を
棚引かせていた。
だが当の本人は
微塵も
身動ぎすることなく、
紅い瞳で
目下に
夥しく散乱している
瓦礫や人骨を
呆然と
眺めている。
ここには街の象徴であり、ラ・クリマス大陸の歴史的建造物であるディレクタティオ大聖堂が
聳えていたはずだった。
だが今となっては壮大な焼き討ちに
遭ったかのように無惨に崩れ落ち、
燻ぶり、
讃えられていた
荘厳さの面影もなければ、救いを
乞うような人影さえ見当たらない。
ただ1人
瓦礫の山で人形のように腰を下ろしている
白髪の修道女が、かえって異質な存在感を放っていた。
ドールという名のその修道女は、
酷く
刃毀れし黒ずんだ大鎌を力無く握り締めており、異質さに磨きをかけていた。そして、
徐に
口遊み始めた。
『…
嗚呼ラ・クリマスよ などかひとり 行き
廻る月に 魅せられし 知らずや
今宵 誉むる
宮は 嘆かふ声さへ 消え去りけり…』
掠れるような声音で
唄い終わると同時に、その口元から小さく乾いた笑いが
零れ落ちた。
即興とはいえ、その残酷な替え
詩は原曲となる聖歌をこの上なく
穢すものであった。だが信仰していた創世の神を、偉大なる預言者を
讃える聖地は、もうここには存在しない。
夜空を
覆っていた雲が流れ去り、
今宵また一段と大きな輝きを見せる
壊月彗星が、天井を
失くした大聖堂を静かに照らし出した。
ドールはゆっくり首を
擡げると、
壊月彗星の光に反射して
煌めき舞う粒子に思わず
見惚れてしまった。
恐らく北の山脈から風に乗って運ばれてくる粉雪だろうと、
朧げな意識で推測した。厚着をしているわけではないのに、不思議と寒さを感じなかった。
ドールはそうした疑問を
抱くまでに、一体どれだけの時間が過ぎたのかすら
曖昧になっていた。
——いつから私はこんな場所に居るのだろう。
何故こんなに冷たく、物騒な武器を携えているのだろう。
頭の中が
鉛のように重く、
鈍く、少し前のことが何も思い出せなかった。
その一方で胸の内に
鉛よりも冷たく、
澱んだ何かが
閊えているような違和感を覚えていた。
——身体が冷える前に、修道院に戻らないと。
そう心の中で言い聞かせて立ち上がろうとしたその時、ドールは背後の少し離れた
瓦礫の陰から
微かな気配、それでいて明確な殺気を向けられていることを察知し、反射的に
翻って大鎌を投げつけた。
大鎌は数回転しながら猛烈な勢いで
瓦礫の山に突き刺さり、
恰も岩壁を
抉ったかのように盛大に破片を散らした。
その衝撃から弾けるように、何者かが飛び跳ねて距離をとった。
ドールの修道服と同じような
紫紺のローブを
纏っており、表情は無機質な白い仮面で
覆われていた。フードを被ったその
身形では、男か女かも判別できなかった。
「あなた、誰? ……グレーダン教徒の、生き残りの人?」
2人の間を再び北風が
唸り散らす中、ドールは
呟くように問いかけながら、
瓦礫に埋もれた大鎌を拾いにゆっくりと足を動かした。
その胸元では、黒い鉱石を
鏤めたグレーダン教徒のペンダントが
妖しげに揺れていた。
問いかけは風に
掻き消されたのか、返事らしきものは聞こえてこなかった。だが何も反応を返されなくとも、答えが
否であることは最初から明らかであった。
無機質な仮面の奥から向けられる視線は、恐怖でも怒りでも憎しみでもない、純粋な敵意だった。
ドールの
紅く染まった瞳には、その何者かが自分という存在をこの世界から排除するために
遣わされたかのように映っていた。
「…あなたはきっと、死神なのね。私を殺すためにやってきた……私がこの大聖堂を破壊して、正教徒たちを皆殺しにした罪を
咎めるために。」
自分の口から自然と生まれるような言葉を聞きながら、ドールは
靄がかかっていた記憶が徐々に晴れていくのを感じていた。
——そう、すべて私が壊した。殺した。
嘗て創世の神が初めに創られたと言い伝えられるラ・クリマス大陸で、いまから約千年前に大陸帝国王グレーダンが神から預言を
賜り、厄災に苦しむ国民を救った。
その栄光を崇め
讃えて新興したグレーダン教の総本山たるディレクタティオ大聖堂、ならびにそこに
集った大司教をはじめとする正教徒数百人…。
——そのすべてを、私は壊した。殺した。
ドールはその
罪科を思い起こしていくにつれて、胸の内の
澱んだ何かが決壊したように溢れ、血が
廻るように全身を満たしていくのが
解った。
それは震え出すほど冷たいはずなのに、
滾るように熱くてどこか心地良く、身も心も
解されていくようだった。
「…でもね、違うのよ死神さん。」
ドールはグレーダン教を信仰する修道女であるため、創世の神以外に何者も神として扱うべきではないのだが、立ちはだかる者が名乗らないために都合良く世俗的な表現を当てはめていた。
「私はこの神聖な場所を壊すつもりなんてなかったし、誰1人として殺すつもりなんてなかったの。突然私は捕らわれて、異端者だの
廻者だの悪魔だのと決めつけられて、大勢の教徒たちの前で処刑されるところだったの。」
「大司教様が私を
磔にして心臓を
穿とうとして…その後も教徒たちが一斉に襲い掛かってきて……こうしなければ、私は一方的に殺されていたの。何も悪いことなんてしてないのに、弁明の余地なく殺されたい人なんていないでしょう?」
「だから死神さん、お願いします……どうか私を見逃してください。」
ドールは湧き上がる記憶と感情を、
堰を切ったように言葉に変えていった。祈るように両手を組み、
紅い瞳を真っ直ぐ死神へ向けて
懇願した。
暫く双方の間で絶えず吹き荒れ続ける風が、廃墟に染み付いた不快な臭いを
誤魔化し続けていた。
死神は依然として何の言動も
寄越すことなく、ドールの出方を
窺い警戒しているのか、その場でローブをはためかせているだけであった。
他方でドールもまた、死神相手に
命乞いが
罷り通ることなど
端から期待していなかった。
そして期待していないことが期待通りに進む
度に、また胸の内で冷たい何かが
沸々と湧き上がっていた。
ドールは
悄然としつつ揺らめくように死神に背を向けると、夜空に
燦然と輝く
壊月彗星を
名残惜しそうな表情で見上げた。
「知っていますか。あの
壊月彗星は、千年前までは『月』と呼ばれた丸い天体だったんですよ。」
吹き
荒ぶ風に
搔き消されないよう、ドールは意識的に声音を強めていた。背後で
睨みを
利かせる死神に対し、
恰も
猶予を訴えかけるように語り始めていた。
「『月』は今から千年前、この大陸に隕石が
墜ちる際に、衝突を受けて砕けてしまったのです。それ以来軌道を変えて彗星となり、一定周期で
廻るようになったと言われています。…しかしその現象以上に、当時のラ・クリマスに生きた民に
齎された大きな変化がありました。」
壊月彗星に照らされて舞い踊る粉雪が幻想的で、
未だ
嘗て見たことがないほどの美しさを覚えたドールは気分が高揚していた。気付けば、歴史や
御伽噺が好きだったことを思い出しながら
饒舌になっていた。
「創世の神はこの世界を創造されたとき、管理者として御自身の姿に似せた『人』を創造し、男と女に分けて
均しく役割を担わせました。しかし体格差や力の差などを
以て男が女の優位に立ち、支配し従属させ富を集約するようになったので、哀情と失意のあまり涙を流されたのだ言われています。それが『月』を壊し、この大陸に
墜ちた隕石なのです。」
「その隕石には、大陸の民を
戒めるべく厄災を
齎す7体の悪魔が宿っていました。…伝承される『ラ・クリマスの悪魔』のことです。『悪魔は隕石の衝突と同時に創世の大陸に
棲み着き、
苛まれし女を
憑代として、民を
戒めるが如く厄災を振り撒いた』と、グレーダン教の聖典には記されています。」
「一連の史実を根拠にして、グレーダン教は『隕石が
即ち創世の神が
零した涙であるならば、
壊月彗星の先には神の住まう天国がある』と考えています。
敬虔な信仰の果てに死後の魂が天国に導かれ、
永久の安息を得ることを待ち望み神聖視しているのです。」
「もちろん教徒である私も同じように信じていました。…でも、もう私にそんな資格はない。」
一段と強く吹き付ける風に腰元まで伸びた
白髪が大きく
煽られると、ドールは
途端に現実に引き戻された。
怯えるように
瞼を閉じると、暗闇の中で冷たい
澱みが破裂しそうなほどに膨れ上がっているのが
解った。
突き上がるような息苦しさを紛らわそうと、ドールは震えた声音で心情を
吐露していく。
「きっと私は天国へは行けない。
沢山の命を奪ってしまった事実に変わりはないから。私が死んだときはきっと、底なしの落とし穴に吸い込まれるようにどこまでも
墜ちていって、そのうち何を考えているのかも
解らなくなって、『私』は何も
遺らなくなってしまう。…そうなることがとてつもなく恐ろしくて、悲しいの。」
そのとき、ドールは胸の内を圧迫する
澱みの正体を
漸く自覚した。すると同時に、自分が今どうするべきなのかをはっきりと理解した。
——そう、死ぬこと以上に悲しいことなんてない。どうして私は
素性も
解らない
他人に命を狙われているの? そんな理不尽で悲しい
最期なんて嫌だ。悲しいのは嫌だ。……でも…。
ドールは深紅の瞳を
潤ませながらゆっくりと死神の方へと向き直り、改めて仮面の奥から
覗かせる視線を捉えた。そしていまにも弾けそうな感情を抑えるように、
只管に
詭弁を
捲し立てた。
「死神さん。
貴方が私を殺す理由は何ですか。私が
貴方にとって何か不都合なことをしましたか。私が大勢を殺したことが許されないのだとしたら、
何故貴方が今ここで私を殺すことは許されるのですか。」
「
貴方が本当に死神であるならば、神様に見放された人の魂が死んだ後どうなるのか教えてくれませんか。そうして私が死という未知の闇に恐怖する心を、悲嘆に
囚われる心を和らげてくれませんか。私が殺されることに、納得できる意味を頂けませんか。」
死神の
寂然とした
佇まいは、まるで初めから置物であったかのように何ら変わるところはなかった。
いまのドールが何者なのか
解っているからこそ、何ら応答することもなく、
自ら動かず警戒を続けているように受け取れた。
ドールは置物と向き合っているかのような虚しさを覚えると同時に、
己が身に降り掛かった悲しい宿命から逃れる
術がないことを自覚した。
——悲しい。
期待していないことが期待通りに進むこと
が悲しくて
堪らない。……でも…。
ドールが小さく溜息をつくと、突然時間の流れが緩やかになったかのように、吹き荒れていた風が
鎮まり返り、
流麗な
白髪の
靡きが
止んだ。
「…
解ってる。
貴方が私を殺すことは、きっと正しいことなの。」
ドールは
自ら結論を導きながら、
瓦礫に突き刺さったままの大鎌の
柄に再び手を伸ばし、固く握り締めた。
——でもその止めどなく
溢れる悲しみが、今の私を奮い立たせる。悲しみの
儘に力を
揮って
抗えと、
囁く声が響いてくる。
「だって私には、厄災を
齎す『ラ・クリマスの悪魔』が顕現してしまったのだから。」