そのとき別の方向から何か空気を裂くような音がして、人間の男が
呻き声を上げて草花が生い茂る広場に崩れ落ちた。
猟銃を構えた男が静かに距離を詰めていたところを、右手側から何者かに肩部を射られていた。
ピナスが恐る恐る茂みから顔を出すと、男に刺さる弓矢がラピス・ルプスの民が使うものであり、時を同じくして狩猟に出ていた父カランがこの危難に
陰から救援してくれたことを察した。
——本当ならこの隙に退散することが、妥当な判断なのかもしれない。
——でも、こいつには直接
訊かなきゃいけない。
ピナスは茂みを
掻き分けて姿を現し、射られた痛みを
堪えて立ち上がろうと
藻掻く人間の男に歩み寄って、震えた声音で問いかけた。
「…
何故儂を殺そうとした?
何故あの姉妹ではなく、おまえのような者が
儂を待ち構えていたのだ?」
ピナスを見上げた男は、
喘ぎながらも激しい剣幕を突き付けていた。それを見ただけで、言わんとしていることは
凡そ想像がついてしまった。
だが実際にその口から言葉を聞き出す前に、再び広場で銃声が鳴り響いた。
次の瞬間にはピナスは強く突き飛ばされて倒れており、振り返った視線の先ではピナスを
庇ったカランが下腹部を出血させて転がり
悶えていた。
ピナスは『
獣人』を始末しようと
潜んでいた人間が複数おり、
自らの不用意な振る舞いによって父に重傷を負わせてしまったことを理解した。
だが脳内はその現実を受け止めきれず破裂したように真っ白になり、ピナスはカランへ近付こうとぎこちなく
這い寄っていた。
「父上……父上…!!」
一方のカランは想像を絶する苦痛に歯を食い縛りながら、そのピナスの挙動を制止させるかのように腕を伸ばした。
「来る…な……ピナス……逃げ…るんだ……!!」
その
掠れた
台詞が終わらないうちに、三度目の銃声が鳴り響いた。
だが今度こそピナスを狙った銃弾は、
何処からともなく駆け付けた大きな青白い狼によって
阻まれた。
狼は銃撃の痛みを
堪えながら
唸り声を上げると、
応酬するように2体の
蒼獣を放って潜伏する人間を襲わせた。
突如顕現した『
貪食の悪魔』の威圧感にピナスは言葉を失っていたが、青白い狼は先に射られた手負いの人間を丸呑みすると、出血が止まらず息も
絶え
絶えになりつつあるカランへと近寄った。
カランはその狼をぼんやりと見つめながら、弱々しく
呟くように言い聞かせた。
「プリム……すまん……あとは…頼んだ……。」
その
最期の言葉に
応えるように、青白い狼はカランをも丸呑みして報復の力へと変えた。そしてへたり込み
愕然とし続けるピナスに向き直ると、聞き慣れた声で静かに
諭した。
「ピナス。アリスのこと、クラウザのこと…頼むわね。」
急転する事態に
狼狽していたピナスは、その後1時間にも満たない断続的な悪夢を
只管に追いかけているだけだった。
再び降り
頻り始めた雨の中、父カランを捕食し巨大な青白い怪鳥の姿へと転じた母プリムは、人間の村落へと突撃して手当たり次第に木造の
家屋を破壊し、住民を捕食して回っていた。
取り残されていたピナスが
鈍重な足を引き
摺る頃には、小さな村落は
無惨にも壊滅し
彼方此方が炎上していた。
その後青白い怪鳥が不安定な低空飛行を続けながら南下している姿を発見すると、ピナスは遠巻きに獣道を
掻き分けながら必死な思いで脚を動かし追い掛けた。
だが怪鳥が狙いを定めていたのは、
昨今の悪天候で増水していた河川に追い詰められていたリオナとサキナであった。
軈て襲い来る怪鳥から飛び込むようにリオナを
庇ったサキナだったが、態勢を崩し足を滑らせたリオナは河川へと転落し、瞬く間に流されてしまった。
泥に
塗れながら悲痛な
叫声を上げるサキナに、旋回した怪鳥が奇声を放ちながら再び襲い掛かった。
だがそのときサキナの背後の茂みから突進するように、何者かが現れて立ち
塞がった。
そして突き出した何かに貫かれるようにして、怪鳥は青白い粒子状に拡散し2人を通り過ぎるように消滅していった。
一段と強まる雨音と動悸の中で、ピナスは息を押し殺しながらその悲劇の
顛末を遠巻きに見届けることしかできなかった。
母プリムの
虚しい
最期が、
最早助からないだろうと確信せざるを得ないリオナの末路が、銀色の
眼に痛々しく焼き付いていた。
そして悲劇に終止符を打った杖のようなものを握る、眼鏡をかけた長い黒髪の女性軍人の人相が鮮明に記憶されていた。
**********
あのとき手負いの人間の男に話しかけようとせず、父が
陰ながら
示唆した通りその場を立ち去っていれば、その後の悲劇を生むことはなかっただろうかと、それからピナスは
幾度となく自問していた。
だが仮に両親を失わなかったとしても、
何故鉛玉を黙って寄越すような、無機質で非情な代弁を大人しく受け入れなければならないのか、その疑問への抑圧と不本意な
訣別が、かえって人間への
敵愾心を
育むことに変わりはないだろうと思った。
——母の願いにそぐわず
儂が『
貪食の悪魔』を
自ら顕現させてしまうことは、当然の帰結であったのだろう。…それでも、後悔はなかった。
——いくら人間に
遜り寄り添おうとしても、ラピス・ルプスの民はその
身形を作り変えることができなければ、悪魔を顕現させないことを何ら保証も確約もすることもできん。それを知ってか問答無用で一族を
貶め優位に立とうとする人間と
対峙するために、悪魔の力を借りることは決して愚行ではなかったのだ。
——そして目的を果たすために、
儂は立ち止まるわけにはいかん。会って、話をつけねばならんのだ。
「…ルーシー……ドランジアに……!」
「私の名を呼んだか?」
大粒の雨が降り
頻るなか、ピナスは
仰向けに寝そべるように
瓦礫に埋もれていた。知らない声音に反応されるまで、どれだけの間意識を失っていたか
解らなかった。
経験したことのない疲労感と雨で湿りきった衣服と毛並みで、
瓦礫の
染みになってしまったかのように全身が重かったが、寒さを感じるどころか燃え
滾るような熱で身体は満たされていた。
雨粒に
塗れながらも次第に明瞭になってきた視界には、傘を差してこちらを見下す1人の女性軍人が映っていた。
そのすらりとした上背と長い黒髪、銀縁の眼鏡、そして蛇を思わせる
黄金色の瞳は、まさしく7年前にディヴィルガムを
翳して母を討った人物であった。その女性が、ピナスの
碧色の瞳を真っ
直ぐに捕らえていた。
「貴様が…ルーシー・ドランジアなのか…?」
「ああ、その通りだ、悪魔を宿したラピス・ルプスの民よ。」
淡々とした答えを聞きながら重い身体を起こしていたピナスの口からは、自然とくぐもった笑いが
零れていた。
もう
翼竜にも、怪鳥にも
変化する余力は残されていなかったが、探し求めていた2人が同一人物であったことは願ってもない幸運だと思った。
「そうか、そうか…やはり
儂は間違ってなどいなかったのだな!!」
その
威嚇するような
台詞と共にピナスは青白い狼へと転じ、ルーシーを押し倒そうと
喉元目掛けて
素早く飛び
跳ねた。
だがルーシーは右手に握っていた傘の
柄を放りながらピナスの首元を下から突き上げるように
掴み上げ、その反動でひっくり返すように
瓦礫に向かって
叩き伏せた。
予想だにしない反応と腕力により身体を強く打ち付けられたピナスは激しく
咽せ、
変化を維持する力が
途切れて元の姿に戻った。
頭部には
然程衝撃がなかったものの、首元を軽く抑え威圧するように
屈み込むルーシーに
直ちに反撃する手段が思いつかなかった。
——強い……なんという腕力だ。…
否、
儂の余力が
僅かだったということか……?
一方のルーシーは急襲に
然して
苛立つようでもない、淡々とした調子でピナスに問いかけてきた。
「
何故私に
喰って掛かる? 理由を聞いてやろう。」
水滴に
塗れる眼鏡の奥からもはっきりと
覗いて見える
黄金色の瞳を前にして、ピナスは不本意な態勢ながらもせめて本来の目的を果たそうと
睨み返した。
「2つある。…1つは、我が一族が暮らす集落クラウザに届けられた勧告の返事だ。…我々は貴様らの
庇護など望まん。この街の
惨状を見て悪魔の力を思い知ったであろう。これからも我々は『
貪食の悪魔』と共にあり、そのうえで人間とは相互に不可侵であることを望む。」
「そうか。…2つ目は?」
「…単なる
私怨だ。貴様は7年ほど前に悪魔を宿した
儂の母をディヴィルガムで討った。…それだけだ。」
それらを聞いてもなおルーシーは
微塵も眉を動かすことなく、ピナスの首元に右手を添えたまま言い聞かせた。
「あのときのことはよく覚えている。だが私は悪魔を討ってなどいない。正確には、討ち取る直前に自滅したんだ。」
その冷静で冷淡な答えに、ピナスは目を見開き息を呑んだ。
「
壊月彗星の遠い時期に
無理矢理顕現させたようなものだったからな。『魔力』を蓄えてもあれだけ暴れれば身が
保てなかったのだろう。私としても
好機
を逃したことは残念だった。とてもよく覚えている。」
ルーシーが語り掛ける言葉が呑み込めず、ピナスの脳内は早くも混乱し始めていた。
——自滅…? そんなことがあり得るのか…? それだけではない…先程からこいつは何を言っているんだ…?
目の前の女がラ・クリマスの悪魔について知らない知識を
数多蓄積させているように見えて、ピナスは
途端にその大きな影に
気圧されるようになっていた。
「それと勧告の件だが、君の回答通り今後我々は不可侵・不介入ということで承諾しよう。」
そして
序でと言わんばかりに、ルーシーはあっさりとピナスの要求を呑んだ。
目的が達せられたことは
悦ばしいことであるはずなのだが、いま
陥っている状況では
寧ろ不気味さを覚えてしまい、ピナスは
疑るような視線を投げ返していた。
「…貴様、何が目的だ?」
「知りたいか? 今に
解るさ。」
ルーシーの
囁き声とともに、間近で何か砕けるような音がした。
不快な音がした方へピナスが視線を落とすと、ルーシーの右手が
宛がわれている首元を中心に、顎から胸部にかけて肌に大きな亀裂が入っていた。
隙間からは淡い
碧色の光が漏れており、少しずつその
疵が全身へ
伝播していた。
何故か痛みは感じなかったが、痛覚を喪失したと言い表した方が妥当なくらいに、全身を強烈な脱力感が襲っていた。随分前に射られた
鏃の麻酔薬よりも、更に抗いようのない制圧の波が押し寄せていた。
ピナスは一段と目を
瞠って
驚愕しながらも、徐々に遠くなる意識をなんとか引き留めようと、
妖しく見下すルーシーに向かって声を荒げた。
「…何なんだこれは!? 貴様一体何をした!?」
「ディヴィルガムを知っているのなら見当は付くだろう? 『
貪食の悪魔』を『封印』している。」
ピナスはこの圧倒的な強者に捕らえられた以上、故郷へ帰ることは叶わないだろうと覚悟はしていたが、あまりにも
愚弄するような仕打ちに怒りを覚えずにはいられなかった。
「ふざけるな! 人間の身でそのようなことができるわけが…!?」
「できるさ。そのためにこの力を
鍛錬してきたようなものだ。それに…『
貪食の悪魔』だけは、
私の手で直接始末したい
と
希っていたからな。」
その
台詞とともに向けられる明らかな敵意が重く
圧し掛かるようで、ピナスは
愈々口を
噤んだ。亀裂の侵食がほぼ全身に行き届き、声を発することも
儘ならなくなっていた。
「おまえは私に
仇討ちしたかったのだろうが、それは私も同じなんだよ。おまえが私を恨むよりもっと前に、私は『
貪食の悪魔』
絡みで身内をほぼすべて失った。直接見たわけじゃないし伝聞に過ぎないのだが、私の姉が『
貪食の悪魔』に
冒されたと聞いている。だから今こうして私の手で悪魔を仕留められることが、実に幸運で
堪らないんだよ。」
——今
此奴は何と言った…? 人間に『
貪食の悪魔』が顕現しただと…? 『
貪食の悪魔』は我が一族の尊厳であり、役割ではなかったのか…?
「不思議そうな顔をしているな、ラピス・ルプスの民よ。『
貪食の悪魔』が人間に宿らないと、何の証拠や統計を
基に妄信していた? 悪魔などおまえたちの特権でも何でもない、ただの共依存から導かれる結果論だ。それが千年経っても理解できないから、おまえたちの一族は
刻一刻と滅亡へ近付くのだ。」
軈てピナスの身体は淡い
碧色の粒子状に崩れ始め、ルーシーの右の
掌に吸い込まれるように収束していった。
「だが案ずるな。私はそのような
顛末を良しとしない。君たちの一族を含めた国民の未来を導くために、まずはこの大陸からすべての厄災を消し去る必要がある。」
「だから君には、その
礎の1つになってもらう。トレラントを壊滅させるほどに濃縮されたその『魔力』、
有難く
重用させてもらうぞ…。」
——申し訳ありません、お
爺様。すまない、アリス。…約束を守れなかった。…目的は果たしたが、何者か更に
悍ましき存在を前に
成す
術がなかった。
——どうか、
儂の無知を、
驕りを、…
未だ見ぬ脅威の
贄と
相成ったことを、
赦してくれ……。
未だ降り
止まぬ大雨のなか、ルーシーの
掌には淡い
碧色を放つ光の
塊が浮かんでいた。
ルーシーは空いている片手で腰元の
鞄から器用に透明な液体で満たされた瓶を取り出すと、
蓋を開けてその光の
塊をそっと落とし込んだ。
液体が
塊を絡め取るように一瞬で凍り付くと、ルーシーは満足そうに瓶を
鞄へと
仕舞い込み、
最早使う必要のなくなった傘を拾い上げて立ち去った。