唐突に高官の説教が
教導になり、ロキシーは
焦燥と戸惑いが入り混じった表情でもう一度ルーシーを見上げた。
学舎に通っていなかったロキシーは最低限仕事に必要な読み書きや計算などを母から教わっていたものの、社会情勢や歴史に関しては
疎いままであった。
それを知ってか知らずか、ルーシーは視線を合わせることなく、腕を組んだまま淡々と語り続けていた。
「千年前は国王が君臨する時代で、法律なんて民主的な概念は
未だ存在しちゃいなかった。
男尊女卑が当たり前だし、それを
揶揄する表現自体もなかっただろう。」
「だがそうして
虐げられていた女性に悪魔が顕現し厄災を引き起こすようになり、その悪魔を封印したと言われる預言者グレーダンが民と交わした『7つの戒め』によって、人々の価値観は変化した。女性に再び悪魔を顕現させないため、男女の立場が対等になるよう尊重されていくようになった。」
「預言者グレーダンの偉業を伝道するため新興したグレーダン教が、大陸の民の価値観
変遷に大きく貢献したことは事実だ。だが長い年月を経てグレーダン教を
掲揚する帝国時代は
終焉を迎え、数百年に
亘る内戦時代に突入した。恐らくその間に、これまで
培ってきた民の価値観は
有耶無耶になってしまったのだろうな。」
「それが和平へと結びつき、この国が海外諸国に
倣って共和制を採用してからまだ100年か150年といったところか。共和国としての立法や行政を新設した大陸議会に集約し、統治のための大陸軍を包括しているが、各州では
未だに代々の貴族が領地を手放すことなく実質的な自治権を握っている傾向にある。」
「いかに大陸軍が各州に
駐屯し協調性を構築しているとはいえ、警察権を
揮うには
未だ慎重にならざるを得ない場合が多い。
勿論ここセントラムも例外ではないがな。」
「結局この国はまだまだ未熟で発展途上にある。それでも、
嘗て確かに大陸の民が
培った尊厳は、今の時代も変わることなく重んじられていくべきだ。…詰まるところだな…。」
大陸史を一息で駆け上がるような授業が終わり、
漸くルーシーがロキシーに向き直った。
「君も仕事熱心なのは構わないが、ちゃんと自分の幸せのために生きるんだぞ。…私みたいに婚期を逃さないようにな。」
だが結ばれた
顛末は重厚な前提とは裏腹に、
茶目っ
気を
孕んだ何とも漠然とした内容であった。ロキシーは
揶揄われるような口ぶりに、呆然とした表情を返すしかなかった。
「私はもう28なんだが、同じくらいの
齢の女性は大概結婚していて子供もいてな…すっかり仕事に生き過ぎてしまったことを
些か悔やみ始めているところだ。」
威厳のある女性高官が見せる
自嘲に対し、ロキシーも釣られて苦笑いで
応えようとして、
拙く引き
攣った表情になってしまったような気がした。
陰鬱そうな自分を励ますつもりなのか、相変わらずルーシーの意図するところを汲み取りきれないままでいた。
「まぁ子供が欲しいかと聞かれれば微妙なところだが…昔は甥っ子の面倒を見ていたこともあったし、憧れは無くはないな、うん。」
そしてロキシーからは質問も何も発していないにもかかわらず、ルーシーはいつの間にか
陶酔するように自分自身との会話に浸っていた。
「姉夫婦の子だった。父が昔大陸議会のお偉いさんでね、軍人だった姉夫婦は国の発展に貢献するよう日頃から厳しく言われていたんだ。それでも息子には赤子の頃から、家柄だとか国益だとか、そんな束縛を受けずに望むまま健やかに生きてほしいと言い聞かせていた。そこにあった普遍的な愛情はとても尊ぶべきもので、温かく
眩かったことを覚えているよ。」
ロキシーはルーシーの独白に
呆気にとられる一方で、その高官が抱く思い出にどこか
寂寥感が漂っているような気がしていた。
まるで
その『普遍的な愛情』がもう存在していない
かのような物悲しさを無視できずにいられなかったのである。
——そんなことを私に言われても…
解らない。世間一般に言う普通の家庭だとか家族愛だとか、私はそんなものに触れたことなんてない。
同時に自分にとっても『普遍的な愛情』が遠い別世界の概念であるように思えて、ロキシーは
項垂れるように目を背けてしまった。
「まぁ、だからといって魅力的な男がいるかといえば話は別だがな。どいつもこいつも図体や声だけでかくて、多少腕力が強いくらいで見下そうとしてきやがる。愚かしくて浅ましくて
呆れて物も言えない。そうでもしないと私より優位に立てないからって…。」
「…ドランジア隊長?」
ルーシーの独白が愚痴に転調したところで、不意に庭園の奥の方から部隊員と
思しき金髪の男性が顔を出し、声を掛けてきた。
ロキシーは
吃驚して小さく飛び上がるように振り向いたが、ルーシーは何ら気にすることなくぶっきらぼうに手を振って
応えると、その
掌を優しくロキシーの肩に置いて
囁きかけた。
「すまない、長話をし過ぎたようだ。それではロキシー…若い時間は短いのだから、せめてもの生き
甲斐を探し
給えよ。」
その言葉を最後に、ルーシーは
颯爽とこの場を立ち去ってしまった。
結局ロキシーは一言
挨拶しただけで、その一言すら遠い昔の出来事に感じるような異質な時間を体験していた。
——なんだったんだろう、あの人……悪い人じゃないのかも、しれないけど…。
そのロキシーの両手は、
未だにべたついたままであった。だが手汗だと思っていた湿り気の要因はリンゴの果汁であり、ルーシーの長話を拝聴する
傍らで無意識に丸々1個を食べ切ってしまっていたのであった。
——取り
敢えず、手を洗わなきゃ…。
異様な満腹感が
腑に落ちたロキシーは、リンゴの芯を廃棄する
序でに邸宅内で進められている協議の様子を
窺おうと、棒になりかけていた足を動かし始めた。
その時には
既に、ルーシーが臭わせた違法な薬物についての詮索の一件などすっかり記憶から押し流されてしまっていた。
「えっ!? …薬が、無い…?」
その日の夜、ロキシーは使用人長の個室で母レピアから明かされた事実を前に
茫然自失となった。
クレオ―メ
伯爵に命じられる毎晩の
夜伽に際し欠かさず服用していた薬『ミシェーレ』はレピアが管理していたが、何の予告もなく提供が打ち切られたにも
拘らず、
夜伽に従事するよう言い渡されてしまっていたのである。
レピアは
昏い目をしながら頭を抱え、
狼狽えるロキシーを
宥めようとした。
「あなたも小耳に挟んでいるでしょう? メンシスが不可解な竜巻だとかに潰されたって。それでまだ
暫く調達できる見込みが立っていないのよ。」
だがロキシーは母の様子から、『ミシェーレ』の在庫が予期せぬ形で失われてしまったのではないかと想像した。すると不意に昼間の女性高官の
台詞が脳裏に
蘇り、その憶測を下支えした。
『流れ着いた密輸品を取り締まることは困難になっている。…証拠隠滅を
謀る十分な
猶予が生まれてしまっているんだ。』
日中に訪れた国土開発支援部隊は、緊急であったとはいえ事前の連絡なしに到着したわけではなかった違法に仕入れていた薬を誰が破棄したのかは、容易に想像がついた。
そして薬を服用せず
夜伽に及ぶことが何を意味するのかも理解していたロキシーは、肩を震わせて
愚図るような声音を漏らした。
「それでも…その……
孕まされるのだけは、嫌です……。」
生理だからと無理にでも逃げる口実を作りたかったが、周期的に
誤魔化すことは難しかった。
元々生理の間はレピアが代わりに
夜伽に従事していたが、それも薬を服用した前提の話であり、
齢35とはいえ使用人長でもある実の母に
孕む危険性を押し返すことの方が困難であるように思えた。
そもそもロキシーは
齢を重ねたレピアの代わりに
夜伽に従事するようになったという
経緯があり、それ以前のより長い年月に
亘って、レピアは
伯爵の相手をし続けてきたのであった。
「…
伯爵も例の薬が
使えないこと
は承知しておられるし、今後のためにもご容赦を
懇願しておいたのだけどね…ここ数日で気が立っているし
晩酌の量も多いから、あまり期待しない方がいいのかもしれないわ。」
「そ、そんな…!?」
ロキシーが両手で口を
覆いながら悲鳴を上げようとすると、レピアは
徐に歩み寄ってロキシーを抱き寄せ、肩に
埋めた頭を優しく
撫で回した。
「…あなたにはいつも負担をかけてしまって申し訳ないと思ってるわ。でも、故郷を失った私たちが
縋り付くためには仕方がないことなの。」
「駆け込みの使用人という身分でありながら栄養のある食事と温かな寝床が与えられて、親子で痩せ細ることなく美しい
身形のまま生きていられるなんて、普通じゃ考えられない、願ってもいないことなの。こういうときだからこそ、
伯爵様をお支えしないといけないの。」
「…それに、私だってあなたが
孕むのは本意ではないわ。もし
孕んでしまっても、可能な限り身体を傷付けず
堕ろせるよう最善を尽くすから…!」
ロキシーは母の温もりに包まれて、全身に立つ鳥肌が
鎮まっていくような気がした。そのなかで
瞼を閉じながら、
只管に自分の心に言い聞かせた。
——母はずっと自分だけじゃなく私のことも考えて、親子で不自由なく生きるために動いてくれている。私なんかよりも、よっぽど
沢山の苦労をしている。だから私も、こんなことで音を上げるべきなんかじゃない…。
——少しの間、
辛抱すればいいだけ……大丈夫…身体はもう、慣れているはずだもの……。
だがこのときロキシーは、心にこびり付く確かな
蟠りを
拭い切れないことに気付いた。
痩せ細ることのない恵まれた生活、不自由のない普通の暮らしを装う度に、
本当の普通
から
乖離していく
虚しさが色濃くなっていた。
『そこにあった普遍的な愛情はとても尊ぶべきもので、温かく
眩かったことを覚えているよ。』
普通の
身形を維持するために普通でない身体の使い方を続けていること
が、
遣る
瀬無く後ろめたいと初めて思えた。
——ずっと、このままでいるしかないのかな……。
母に手を引かれるその先で『普遍的な愛情』に
相見えることなど、十中八九ないのだろうと密かに打ち
拉がれずにはいられなかった。
「…さっさと脱げ。」
いつもとは違った肌寒さを感じる
伯爵の寝室で、白い寝具用のローブを
纏ったクレオ―メが
杯を片手に
項垂れるようにして、豪勢な
天蓋付きのベッドの縁に座り込んでいた。
傍らの机では果実酒の瓶が数本
空になって転がっており、物々しく張り詰めた空気を察していたロキシーは、クレオ―メが開口一番に放つ命令に早くも
戦慄いていた。
クレオ―メはメンシス港の機能停止に
伴い単純に領主としての業務が
煩雑化したうえ、この日は
終日大陸軍との応対に追われ
疲弊していた。そしてその心労を紛らわす薬も
皆無だった。
勤勉さで知られ日々業務に
忙殺されていたクレオ―メが
予てより闇商人から買っていた違法薬物は『ミシェーレ』だけでなく、精神増強剤など複数品目に及んでいた。
それら一切が調達できなくなったいま、せめてもの代替となるのが自家製の果実酒であり、若き女使用人の肉体であった。
ロキシーはクレオ―メの低い声音にたじろぎながらも、息を押し殺すようにゆっくりとエプロンドレスを脱いだ。
伯爵は機嫌が
芳しくないときは、決まって自ら脱衣するよう最初に命令することを覚えていた。
それでも
今宵に限っては下着まで脱ぎ去ることに著しい抵抗を感じ、簡単に折り
畳んだエプロンドレスで前身を隠すようして、静かにクレオ―メの
傍へと歩み寄った。