「…だとしたら何? 悠長にこのまま停泊し続けるつもりなわけ? あんたが
幾ら
猶予を与えたのか知らないけど。」
小雨と潮気でうっすら
湿気った甲板の臭いを間近に感じながら、ユーリことリリアンは冷淡に見下してくるローレンに何とか
喰らい付こうと
足掻いていた。
両手は縛られ
己が身は組み伏せられ、部下だったはずの団員は誰一人助けを差し伸べることなく、かといって
嘲笑うこともなく静観を続けていた。
ヴァニタス海賊団という集団が、世襲で
尚早にも首領の座に就いた少女に付き従うよりも、敏腕で実績のある年長の幹部に
与する選択肢を
採ることは、時間の問題だとリリアンは常日頃から危機感を
抱いていた。
尻尾を巻いてここから逃げ出すわけにもいかず、重圧に
抗うように、名実ともに
相応しい存在となれるよう今日まで努力を惜しまなかったつもりだった。
それでも団員たちは実情を
斟酌し、歩調を合わせてくれるほどお
人好しではなかった。海賊とは単純に、より確実に利益を最大化させる者のために
集い、付き従う組織だからである。
だからこそリリアンにとって、ネリネは
幾度となく
羨望を重ねた夢想の人物像であった。
ネリネを
鳥籠で心地良さそうに
囀る小鳥に
譬えるならば、リリアンは波間に
揺蕩う
檻の中で
藻掻く獣であった。
決して
相容れることのない、純真と平穏の象徴。彼女が死を迎えるその日まで、
醜悪な外界など知ることなく
真っ
新で幸福な人生を歩んでほしいと願っていた。
——それなのに、ネリネは
穢されてしまった。…あたしが
不甲斐ないばかりに。
視界の奥から、乗組員になおも身柄を抑えられ続けるネリネの姿が飛び込んでくる。その美しく
艶やかな金髪も上等なドレスも汚れて乱れ、
最早人生の何もかもを諦めたように顔を伏せていた。
リリアンの様子を意識するような
素振りは見られなかった。そんな箱入り令嬢の心境を察するには、充分を通り越して沈痛な思いだった。
——
拉致された彼女のことは自分の命に替えてでも救わなければならないと思っていた。…それなのに。
「ネリネ嬢は今晩中に闇市場の人身売買に懸けます。」
ローレンが
未だ抵抗を模索するリリアンに
止めを刺すように、顔を近付けて一段と低い声音で
囁きかけた。
「愚かな領主のせいで
何処も
店仕舞いに追われていますからね。身代金ほどの額は期待できませんが、
早急に片は付くでしょう。
既に奴隷商にも時間を指定して送迎に来てもらうよう取り計らっています。」
その非情な算段自体に、リリアンは大した衝撃を受けはしなかった。
ローレンを問い詰めた手前、有能な彼なら
幾重にも策を練っていることは想像に
難くなかったからである。
自分が身代わりになれないどころか、最悪自分も同じように奴隷商に売られる可能性があることも含めて覚悟はしていた。
だがその
猶予が
愈々尽きたことで、リリアンの内ではその
囁きの衝撃を遥かに
凌ぎ、嵐のように逆巻いて膨張する衝動を抑えきれなくなっていた。
——
赦さない。絶対に
赦さない。ネリネを
穢したこの海賊団も、これから
穢そうとする
醜悪な世界の存在も、愚かなあたし自身も。…ネリネが
穢れたという現実も。
——全部消してしまいたい。全部消して、全部無かったことにしてしまいたい。…だから、そのために…!
リリアンは瞳を大きく見開いて
昂った激情をぶち
撒けた——その瞳に、澄んだ空色を
湛えながら。
「あたしの…ネリネを……返せええええええええ!!!」
***********
昏い夜空を
覆っていた雲が大きな
孔を開け、
壊月彗星が
妖しげにこちらを
覗き込んでいた。
砂煙のような何か
煌めいたものが、月光に照らされながら舞っていた。
ベッドの上でドレスを
纏ったままいつの間にか眠りに
墜ちていた少女は、平屋の天井がすっかり無くなっていることを認識すると、その空色の瞳でゆっくりと周囲を見渡した。
天井どころか壁も柱も、この
辺鄙な広場に建ち並んでいた平屋はすべて跡形もなく吹き飛んでおり、一帯には壊れて
拉げた家財や建材が
無惨に散乱していた。
人気はなく、広場を囲む雑木林が一連の出来事を物語るように
騒めいていた。
——無意識に力が暴発したのか。昨晩の記憶が夢に出てきたせいで…。
徐々に鮮明になる意識によって今しがた起きた事態を把握し終えた少女は、ベッドからゆっくりと腰を上げていると、
突如として背筋に緊張感が
奔った。
そして、周囲に広がる
凄惨な光景のあちこちへ
睨むような視線を
撒き散らせた。
——いや、無意識のうちに自己防衛が働いたんだ。そして
未だあたしは、命を狙われている。…この状況で敵が
潜んでいるとすれば…!
少女は素早く身を
翻して左腕を振り抜き、それまで横たわっていたベッドを猛烈な風で吹き上げた。
するとそのベッドの下に
潜んでいた、
紫紺のローブを
纏った何者かが姿を
露わにした。
まるで巨大な害虫を見つけたかのように、少女は思わず空色の瞳を大きく
強張らせた。
その何者かはベッドを吹き上げた風が
凪ぐ瞬間を狙って、飛ばされないよう床に突き立てていた短剣を左手で引っこ抜くと同時に、
凄まじい瞬発力で地を蹴って少女との距離を詰め、その短剣を胸元に突き付けようとした。
他方で少女はそれ以上に
怯むことなく、ドレスの腰元に隠し持っていたナイフを右手で引き抜きながら、突き出される短剣を
薙ぎ払った。
だが予想以上に軽すぎる手応えに、少女は少し姿勢を崩した。
襲い掛かってきた何者かはその隙を逃さないと言わんばかりに、今度は右手に握っていた棒状のものを、先程より広く開かれた少女の胸元に向かって
透かさず突き出してきた。
——!? こいつ…!!
少女は前面に構えられていた短剣だけに注目を奪われ、もう片方の手にも別の武器が
据えられていたことに気付いていなかった。
それでも、少女は後方へ倒れるように大きく身体を
仰け
反らせてこれを本能的に
躱し、宙を舞いながら身を
捩って強烈な回し蹴りで反撃した。
少女の脚は敵の右側の胴に入ったと思われたが、無理な姿勢だったためかこれも会心の当たりとは言えず、蹴飛ばされて広場を転がった何者かは受け身を取って即座に立ち上がった。
少女もまた
直ぐさま身を起こして、その不審者に向かってナイフを構えた。
壊月彗星が静かに照らすその金髪は、あちこちがうねって巻き毛になっていた。
「…あんた誰? さっきのカリムって人? それとも…『
陰の部隊』とかいう謎の存在? まぁ、何でもいいけどさ。」
目の前で短剣と槍のようなものを両手に携え、白い仮面と
紫紺のローブを身に
纏った何者かを、巻き毛の少女リリアンは気色悪そうに観察しながら問いかけた。
「あたしの命を狙うってことは、やっぱり大陸議会とか大陸軍関係の
刺客ってことだよね。寝込みを襲おうだなんて随分と卑劣で悪趣味じゃない。海賊でもそんなことしないよ。」
相手の身元を暴こうと挑発してみるが、当の
刺客は
唸り散らす風にローブを
靡かせながら静かに身構えるのみであった。
リリアンはこの展開を
以て、メンシスからの道中が最初から仕組まれたものであったと
概ね断定した。
そうでなければ、この
刺客だけがベッドの下に身を
潜め、無意識に引き起こした暴風から生き延びた理由が思い付かなかった。
他方で
刺客以外に支援しようとする人の気配が
皆無であることを察すると、先の無意識の自己防衛によって大方の作戦は
破綻したのではないかと推察した。
そしてこの
刺客に関しても、虚を突ける初撃が唯一の好機だったに違いないと見定めた。
——あたしの風を起こす力といまの身の
熟しを見て、あいつは正面からやり合うのは不利だと察したはず。そうなると次は…風を
凌げる雑木林に身を
潜めて機を
窺うつもりだろう。きっと最初からそのためにあたしをこの
辺鄙な場所に連れ込んだんだ。
——それでも
直ぐにその脚を動かそうとしないのは…そこまで無傷で逃げ込める自信がないからだろう?
「突っ立ってるだけなら、さっさと返り討ちにさせてもらうよ!!」
リリアンはその宣言と同時に、
自らを吹き上げる突風を生み出し、一瞬で
刺客との距離を詰めた。
直ぐさま
刺客も短剣で応戦したが、
鍔迫り合いになることはなく、リリアンのナイフ
捌きに押されて少しずつ後退を余儀なくされていた。
一方のリリアンは初撃を除いて追い風を起こすことはなく、単純な体術と
力業で
刺客を少しずつ広場の隅へと追い詰めていた。
刺客の応戦ぶりから単なる軍人でないことは想像に
難くなかったが、その短剣を
去なし続けるに連れて、露骨になる力量の差に思わず
苛立ちが
募った。
「おい、そっちは
利き手じゃないんだろう!?
嘗めやがって!!」
リリアンは怒号とともに力強く右足を踏み込み、ナイフを振り抜いて
刺客の短剣を弾くと、そのまま飛び跳ねるように左足で
刺客の左手を更に蹴り上げた。
刺客は
愈々その激痛を
堪えきれず、短剣を手放してしまった。
リリアンは更にその場で一回転すると、勢いを維持したまま数歩踏み込んで、
蹌踉ける
刺客に向かって強烈な飛び蹴りを
喰らわせた。
何を着込んでいたのか奇妙な反動があったが今度こそ痛烈な一撃となって、
刺客は数メートル距離があったはずの防風林の1本まで吹っ飛び、激しく背中を打ち付けた。
そして受け身を取れる余地もなく、投げ付けられた人形のように力無く木の根元へ崩れ落ちてしまった。
何ら
猶予を与えることなく、リリアンは
刺客の
胸座辺りを左手で
掴んで引っ張り上げた。
無機質な白い仮面の奥にどんな表情が浮かんでいるのか多少なりとも興味はあったが、いまはこの
刺客をいち早く抹殺することが優先された。
右手のナイフを
翳し、ローブの奥の心臓
目掛けて一突きにする…そしてまた
またネリネの顔をして
逃避行を再開させることが先決であった。
だがその右手は動こうとしなかった。この
刺客を刺し殺すことに、確かな
躊躇いがあった。
その異変にリリアンは一瞬動揺したが、
直ぐにその原因に納得した。
——そうだ。
ネリネに人殺しをさせちゃいけない
。…ネリネを脅かそうとする人は
皆、偶発的な事故や災害に見せかけて排除しないといけないんだ。
リリアンはその周囲に風を巻き起こし旋回させ、
刺客の
胸座を
掴んだまま上昇気流に乗って
宙へと浮かび上がった。
幾重にも重なる風が悲鳴のような
唸り声を発し、雑木林を激しく揺さぶり
慄かせた。
軈てその雑木林よりも高く浮遊すると、
壊月彗星に照らされた水平線が見えてきた。やはり海の近辺だと察した
海賊団元首領としての
感覚に、狂いはなかった。