ドールが最後に記憶していた日付は、同年6月1日の
安息日であった。その情報は少なくとも自分が1カ月は死んだままだったことを意味していたが、だからといってこの現状を何ら説明できるわけではなかった。
「議長はラ・クリマスの悪魔をこの大陸から排除し、厄災の無い平和を実現することを掲げておられた。そのために
嘗て預言者グレーダンが執行した『
魔祓の儀』を再現し、7体の悪魔を
全て捕獲することで膨大な魔力を集め、…創世の神と同等の次元に並び立ち交渉するのだと
仰られた。」
イリアが少し言いにくそうに一国の首相の
本懐を明かすと、他の6人は一様に
怪訝な表情を浮かべた。
なかでもドールはグレーダン教徒として創世の神を
仰ぎ
崇める生活を送っていたことから、内心では
懐疑よりも拒絶的な反応が勝っていた。
——神様と並び立つ? 天国を訪ねようとしているということ?
——天国は永遠の命を得るために、
敬虔な信仰を絶やさず生涯を終えることで
漸く
辿り着ける地なのよ。ラ・クリマスの悪魔について、そんな
逸話を見聞きした覚えはないわ。
するとドールの右隣に立つネリネもまた鼻で笑いながら、両腕を広げてイリアに問いかけた。
「つまり私たちは、議長様の雄弁なる
妄言に付き合わされて殺されたっていうのね?」
いくら奇妙な状況とはいえ、角が立つような物言いにステラは戸惑いを隠せないようであったが、当のイリアは表情を変えずに釈明を続けた。
「議長は旧大陸帝国王でもあるグレーダンの子孫であり、ラ・クリマスの悪魔を『封印』するため生み出したディヴィルガムという杖を代々密かに継承されておられた。…
全ての悪魔をラ・クリマス大陸から引き
剥がすことは神が定めた民への
戒めを破壊する行為であり、
無間の牢獄に
囚われるという神罰を受けたグレーダンは、悪魔の『封印』を解き大陸の民に『7つの
戒め』を約束させることを条件に解放を許された。」
「そして身内にのみその真相を語り、二度と悪魔を捕らえ集めることがないよう警告し、本物のディヴィルガムを
委ねて
崩御されたのだという。だが議長はその事実を逆手に取り、創世の神と
対峙するためにラ・クリマスの悪魔を
全て顕現させ捕らえようとした…いや、これはもう捕らえた結果なのかもしれないが…。」
「すみません、その話は聞き捨てなりません。」
ドールはイリアの語る言葉に生前触れてきた史実や観念を大きく揺るがされ、失礼を承知の上で横槍を入れていた。
結果として再び6人の注目を浴びることになり、
嘗て十字架に縛られ、負の感情に染まった数え切れないほどの視線を浴びた過去を
彷彿とさせた。
だがこのまま押し黙っていれば今度こそ本当に
己が身が朽ちてしまいそうな気がして、
愈々口を挟まずにはいられなかった。
「グレーダンは厄災に苦しむ民を救うために創世の神から預言を
賜り、ディヴィルガムを生み出して『
魔祓の儀』を執行されたのです。
何故預言をお授けになった神が、預言の通りに
業を為したグレーダンを罰しなければならないのですか。」
一方のイリアは突然
傍らの修道女から燃えるような
紅い瞳を差し向けられ、明らかに虚を突かれているように見えた。
「…その因果関係は、すまないが私にも
解りかねる。だがグレーダンとその子孫が本物のディヴィルガムを
秘匿させていたことは確かだった。その事実に
鑑みれば、少なくとも悪魔を『封印』するという行為が
公に
是とすべきものでなかったことは想像に
難くないだろう。」
ドールにとっては苦し紛れにも聞こえた反論だったが、確かにその事実だけは認めざるを得なかった。
本物のディヴィルガムは大司教が代々継承してきた
司教杖ではなく『死神』が携えていたことに、実際に悪魔を宿して初めて認識させられたからである。
だが
千年来多くのグレーダン教徒に
崇め
讃えられてきたはずの偉業が、たった1人の
口伝で
覆されることなど到底受け入れられなかった。
それが死後に見た奇妙な夢の世界の出来事であったとしても、
誉むべきだと信じ続けていた
御業を
容易く否定されるわけにはいかなかった。
「…悪魔を『封印』したことが
過ちだったなどとは断じて認められません。預言者グレーダンは大陸の民に『7つの
戒め』を約束させたのち、悪魔を呼びこさず厄災を二度と引き起こすことのない平穏な世界を民の手で築いていくことを願い、創世の神に招かれる
儘に
自ら天に昇られたのです。神の
訓えである『7つの
戒め』を
遵守し続ければ天の国に
辿り着き永遠の命を得ることが
出来ると、
己が身を
以てその道をお示しになられたのです。」
「これは長い時代、長い年月を経て信仰されてきた史実であり、語り継ぐ書物や絵画も数多く存在しています。しかし、グレーダンの死を神罰だと
揶揄するような切り口など…
況してや
無間の牢獄などという具体的な描写など、見たことも聞いたことも……。」
ドールは顔を
紅潮させることも
厭わず、直立する軍人の女性を見上げて
捲し立てていた。
だが不意にその間に割って入るように、ピナスが遠くから
独り
言を投げかけてきた。
「
無間の牢獄とは、言い得て
妙だな。我が一族でもグレーダンの死は不可解な老衰だと語り継がれていたが、それが神罰だと言うのなら
強ち理解できなくもないのう。」
それが明白にイリアの肩を持つような発言だったので、ドールは息が詰まったかのような顔でピナスに向き直った。
ラピス・ルプスの民については、預言者グレーダンと友好的であったという
逸話を本で読んだことがあった。
だが『7つの
戒め』を破って悪魔を顕現させて以来、大陸の民の住む世界を追われてしまったという結末からは、人間との間の浅からぬ
軋轢が現代にも続いているのだろうという切ない感傷を
抱いたことを覚えていた。
そのラピス・ルプスの民の少女が、今この場で
解り
易く小意地の悪い口振りをしているようにドールには聞こえていた。
「老衰…? グレーダンが老衰で天に召された瞬間を、千年前のラピス・ルプスの民が
看取っていたとでもいうの?」
やや声音の
上擦ったドールの問いかけに、ピナスは皮肉を交えながら答えた。
「長老の話では、『7つの
戒め』なるものを
宣べ伝えるその姿が、奇妙にも
甚だしく老い
耄れていたそうだぞ。我が一族の
眼は人間よりも遥かに遠くを、
深くを
見通せる。信心深く
崇める人間の民から
秘匿してまでやり過ごさなければならない、後ろめたい何かがあったと受け止められても何ら不思議ではない。…例えば『
魔祓の儀』なるものが本当は失敗だった、とかな。」
「…そ、そんな……!?」
太々しい批判にドールは小刻みに身体が震え出すのを感じつつ、何かを言い返そうとして
口籠った。ピナスを捉えていた視線の間に、今度はネリネがうんざりした様子で侵入してきたからである。
「まったく、そんな昔話の真偽なんてどうでもいいわよ。問題はルーシー・ドランジアが何を
仕出かしたのかって話でしょ?」
ドールは
護ろうとしていたはずの揺るぎない信念が貴族令嬢に話題ごと
一蹴されてしまい、その仕打ちにすっかり冷や水を浴びせられていた。
ネリネやピナスだけでなく、この場にいる全員が
自らの主張を煙たがり、
妖しく輝く瞳で
卑下しているように思えて意気消沈してしまった。
——どうして? 私が間違っているの? 私が信じてきたことすら全部虚実だったの? やっぱり私はここでも、悪しき存在として
無下に扱われるの…?
一方で円形の空間の中心に躍り出るような形になったネリネは、
鬱ぎ込むドールを
他所に、周囲を見回しながら
苛立った声を上げていた。
「それで、さっきからそのルーシー・ドランジアを殺せって
執拗に私に
囁きかけてるのは誰!?
煩わしくて仕方がないんだけど!?」
恰も犯人
捜しをするようにネリネは四方八方を
睨んでいたが、この場の7人以外に人影はなかった。
だがドールは
皆の表情が先程のような
懐疑ではなく、ネリネと似たように不安や不審を
抱いていることに気付いた。
すると
虚しく沈んだ胸の内で
木霊するように、何者かの声が聞こえてくるのが
解った。
『…ルーシー・ドランジアを止めろ……
斃せ………殺せ……!』
自分の声音をずっと低く冷たくしたような響きに
慄き、ドールは思わず後ろを振り向いたが、黒い花畑と垣根のような壁があるのみであった。
その垣根の奥に何かが
潜んでいる可能性が
脳裏を
過ったが、そのときには広場を挟んで反対側にいるピナスがネリネに問いかけていた。
「
儂にもその言葉は聞こえるぞ。だが遠くからでも近くからでもない、
宛ら
儂自身が言葉を発しているような感覚だ。
儂は生前ドランジアと因縁があったが
故に
然程不思議ではない感覚なのだが…貴様は違うのか?」
「何よそれ…私はラ・クリマスの首相になんて会ったことはないし、
況してや間接的に危害を加えられたこともないわよ。」
ネリネは露骨に不機嫌な調子で吐き捨てたが、その
台詞をクランメが冷静に拾い上げて指摘した。
「間接的な危害なら加えられとるはずやで。君はドランジアに
予てより標的にされ、ラ・クリマスの悪魔を顕現しやすい体質にされた。悪魔を宿す前、
何か不自然な
物を口にせんかったか? …例えば、リンゴとかな。」
「…確かに食べた記憶はあるわ。でもリンゴ自体は別に珍しい食べ物ではないんじゃないの?」
「せやからその普遍的な果実にドランジアは魔力を込めて、警戒されずに摂取できるよう仕込んどった。それであとは
何かの契機で悪徳が高まれば、
直ぐにでも悪魔が顕現するっちゅう算段だったんや。…ここにいる全員、同じような手口で悪魔を宿してもうたんとちゃうか。」
ドールはクランメの言葉を半信半疑で聞きながらも、自分も同じようにリンゴを口にしていたことを思い出した。
一口どころか自然と丸ごと1個を食べ切っていたことは、今になって振り返れば異常な食欲であった。そしてそれを勧めたのはアメリアであり、そのリンゴを孫と呼ばれていた女性が持ち込んでいたことまで記憶が
蘇ると、
途端に背筋に
悪寒が
奔った。
——あのお孫さんが首相だったのかは
解らない…容姿なんて見たことがなかったもの。でもアメリアおばさんが最初から私にあのリンゴを食べさせるつもりだったのなら…リンゴの
仕込み
を知っていたのなら、
全ての事が都合よく成り立ってしまう。
生前のドールは教団の秘密を
詮索するため、グレーダン教と一線を画すアメリアの
口車に乗せられていたのだと思っていた。
だが
廻者として槍玉に挙げられ、その
惨い仕打ちに『
悲嘆』を
募らせることを期待し、アメリア自身が
教唆されていた…
若しくは
共謀していたのであれば、一夜のうちに本物のディヴィルガムを持つ『死神』に襲撃された事実にも合点がいった。
そして厄災を引き起こすため、周囲から
白髪を
疎まれていた自分が格好の『標的』として
見做されていたと仮定したとき、ドールはアメリアとの
邂逅それ自体に疑念を
抱かずにはいられなくなった。
——もしかしてあの時アメリアおばさんは…最初から私を厄災に利用するつもりで恩を売っていたの…? 私が
本当の悪魔の子として
非難され、絶望することを望んでいたっていうの……?