ドールが死神に向かって、正確には死神の足元に向かって
徐に右手を差し出すと、その足元の床は一瞬震えるように光と熱を帯びたのち、
轟音を
伴って再び
蒼炎の火柱を噴き上げた。
死神は
辛うじて横っ飛びにこれを回避したが、ドールが着地したその足元を差して立て続けに
蒼炎を噴出させたので、息を付く暇もなく廃墟を跳ね回る他なかった。
それでもなお機を
窺おうとする死神に、ドールはその場でゆらゆらと舞うように追撃をかけ続けていた。
その戦況は、死神が単独で打開するにはあまりにも困難なものであった。
大きく距離をとろうとすれば、それだけ確実に
蒼炎が着地を待ち構えて迎撃する
虞があった。一方で小刻みな回避では、かえってドールとの距離を詰めることができずにいた。
また先程のように
僅かでも足元を
掬われれば、致命的な隙を与えることになりかねなかった。
そして回避に専念し時間が経過するに連れて、
数多噴出する
蒼炎と衝撃によって廃墟は更に崩壊を重ね、足の踏み場をより一層複雑に
歪ませていた。
その非現実的かつ圧倒的な脅威こそが、
千年来大陸に伝わる悪魔が
齎す厄災の力であった。
だが
暫くして死神は次第に距離をとりつつ、支柱などが崩れてできた大きめの
瓦礫の山に身を隠した。
そのうち仕留められるだろうと
半ば悠長に構えていたドールは、単調な攻撃の裏を
掻かれてしまったことで小さく溜息をついた。
炎とは当然ながら火種がなければ
熾せず、
焼べる素材がなければ立ち消えてしまうものだが、それらがなくとも意図的かつ強制的に発火させ思い通りに持続させることが、悪魔が為す災いの力であった。
だが自然の
理に逆らうほど体力、ならびに精神力の消耗が激しくなることを、ドールは本能的に理解していた。
大聖堂を廃墟に変えるほどの短時間で激しい消耗をすれば、死神と
対峙する直前のように意識が
朦朧とし、決定的な隙を許す
虞があった。
ドールはそのような事態を懸念し、局所的に狙いを定めた火柱という効率の良い攻撃方法を採っていた。だが予想以上に死神が執念深く立ち回っていたため、その方針の転換を迫られていた。
その
焦慮するような展開にも
拘らず、ドールは不気味な低い笑みを
堪えずにはいられなかった。
「ああ…本当に嫌になるわ…思い通りにならないと、どんどん悲しくなってくるじゃない…!!」
悦に浸るような声音を口火に、廃墟の四方八方で同時多発的にいくつもの
蒼炎が噴き上がった。耳が割れるような
轟音と衝撃が連鎖し、丘そのものが震えているようだった。
その状況下でドールは感覚を深く研ぎ澄ませ、
瓦礫の山の向こうで身を潜めたままの死神の存在をはっきりと認識した。
そして
脆くなった足元を勢いよく蹴り出すと、
瓦礫の山の
傍に噴き上がる
蒼炎を
潜り抜けながら、振り
翳していた大鎌を
薙ぎ払うように
一閃した。
不意を突いたはずの斬撃は岩盤を
抉るような鈍い音を盛大に響かせ、
瓦礫の山に突き刺さりながら死神が
纏うローブの首元付近に深々と食い込ませていた。
ドールはその
痺れる
手応えを
諸共せず、
露骨に残念そうな表情を浮かべた。
露出した
白髪も修道服も何かに
護られているように
微塵も
燻ることはなく、静かに揺らめかせながら不満げに
呟いた。
「本当にしぶとい…。今度こそ絶対首を
刎ねたと思ったのに。やっぱり拾い物の扱いは難しいわ。」
ドールとしては無作為に
熾した
蒼炎とその衝撃で死神の警戒心を散漫にさせ、そのなかで最も
傍らに近い火柱の中から虚を突く
魂胆であった。
それでも死神の卓越した反射神経を前に
僅かに及ばず、身動きは封じたものの致命傷を負わせるには至らなかった。
所詮大鎌は焼き殺した教徒の1人がどこかから持ち出してきたものを拾い上げ、哀絶の
儘に振り回していたに過ぎず、徒党を組んで襲い掛かってきた教徒の大半は
蒼炎で焼き殺していたことを思い出した。
蒼炎が立ち消えた廃墟は間もなく
虚しい静寂で満たされ、
壊月彗星の
眩しさが淡く
昏く感じられた。
「動かないでね、死神さん。…動いたら、今度こそ燃やし尽くしてあげるから。」
無理矢理にでもローブを引き裂いて脱出しようと
藻掻く死神を、ドールは低く冷たい声音で脅迫し制圧した。
虚を突かれ横っ飛びに回避しようとした間際を固定された死神は、不安定に
凭れる姿勢に
悶えて完全に静止することは叶わなかった。
罅割れた仮面から
覗く口元はその苦痛や
焦燥、あるいは屈辱で
歪んでいるように見えた。
それでも、左手に持ち替えていた杖だけは
頑として離さず握り締めていた。
未だに死神の正体が男か女か判別できないでいたが、ドールにとっては至極どうでもよい疑問になっていた。
直ちに
止めを刺すことはせず、死神の目の前に転がる
瓦礫にゆったりと腰を下ろして、哀情を込めて
囁きかけた。
「用意周到な死神さんならご存知なんでしょう? 『
悲嘆の悪魔』は悲しい感情を
糧にするの。暴虐の限りを尽くし、何もかもを燃やし尽くして、奪われ失われる
他人の命に哀情を抱き、
只管に道を踏み外していく
己が人生に絶望を抱くの。降りかかる理不尽も、期待外れの現実も、
須らく破壊の力に変換するの。」
「生まれつき悪魔と
蔑まれ拒絶され、数えるのも嫌になるほどの憎悪と殺意を向けられ、
挙句本物の悪魔に
冒され、いくら振り払っても終わらない私の悲しみを…止めどない激情が
齎す力を、あなたが制圧することは叶わない。…だから、いま
貴方がどう行動するのが最善なのか、理解できるはずだと思うの。」
その
囁きは次第に低く重く声音を変え、深紅の瞳を見開いて差し迫っていた。
「
貴方の雇い主は誰。
貴方みたいな人間が
独りで厄災に挑んでくるはずがないわ。教えてくれれば、
貴方の命は見逃してあげる。」
経験
皆無の尋問を図った手前、この手の
顛末は想像に
難くないことはドール自身も認めざるを得なかった。
だが死神がこの
期に及んで沈黙を続ければ、それだけドールの『
悲嘆』を増長させてしまう
虞は死神にも想定できるはずだと踏んでいた。
故に
期待していないことが期待通りに進むことが悲しい
のだと、
敢えて念を押したつもりだった。
いっそのこと多少
蒼炎で
焙ってでも、その仮面から言葉を吐かせようかとも考えていた。
只管に道を踏み外した自分が行き着く運命は、明瞭に脳内で描写されていたからである。
案の
定、死神は口を
噤んだまま無様に打ち付けられた体勢を維持していた。ドールは
暫くして深い溜息をつくと、再び吹き荒れ出した風の冷たさに思わず打ちひしがれた。
そのとき、ドールは
微かに違和感を
抱いた。
死神とは別の
刺客のような気配を察したわけではないが、どこかで何か
歪のようなものが生じた気がした。だが
僅かな動揺も死神に気取られないように、ドールは薄ら笑いを浮かべて透かさず語りかけ続けた。
「…何も
応えないということは、
貴方には代わりの
利く駒が控えているということでしょう。
貴方は自分の命が使い捨てのように利用される現実が悲しくないの?
貴方のその身は
呆気なく
灰燼に
帰して、
貴方の意識はきっと果てしない暗闇へ墜ちながら
成す
術なく消えていく……それなのにどうして、何の抵抗もなく、そんなに
容易く死を受け入れようとするの?」
扇情を試みたはずのドールの
台詞は、大して長続きしないうちに失望の投げかけへと移り変わっていた。壁に引っ掛かったぼろ人形に話しかけているようで、先程生まれた違和感が徐々に無視できなくなってきていた。
いますぐこのぼろ人形を燃やし尽くして、何事もなかったかのように立ち去ることは
容易いのに、何かが途切れたようでその所作へと
繋がらなかった。
——立ち去るって、
何処に? きっとまた同じような
刺客が私を狙ってくる。それを迎え撃っては殺して、殺して…いつしか親玉を始末したとして、そのあと私はどうすればいいの?
——厄災を
齎す悪魔を抱えながら、悲しみを抑えながら平穏に生き永らえることが本当に可能なの? そんな私を受け入れてくれる場所が、この世界の
何処に存在するの……?
全身を駆け
廻る悲しみが
途端に抑えきれなくなるような気がして、ドールは思わず身を
屈め、両手に顔を
埋めて震え出した。
直ちにこの世界から目を背けて
塞ぎ込まなければ、
己が身が崩れ落ちてしまいそうな気がした。
だがその暗闇に浸っていると、どこかから
馴染みのある
嗄れた声音が響いてきた。
『…おまえももう大人になるんだから、いつまでも
惨めな環境に甘んじる必要なんてないはずだろう? この世界にはおまえの
白髪を何とも思わず受け入れてくれる場所はいくらでもあるはずさ。』
——何言ってるの。私がどこかに行ったらアメリアおばさんの面倒は誰が見るの。
『…偉そうな口を
利くな。そんなことを頼んだ覚えはないね。それよりドール…おまえは将来やりたいことの1つもないのかい?』
——
解らない…思い出せない…私あのとき何て答えたのかな……ねぇ教えてよ、アメリアおばさん……。
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穏やかな昼下がりのディレクタティオの路地裏を、食糧の詰まった袋を抱えた修道女ドールが小走りに伝っていた。
正装の
頭巾にぴったり収められた
白髪は、
禍つ象徴として
忌み嫌われていた。
白髪とは老いる過程で生じる結果であり、先天的なそれは
古より呪いのように
疎まれていたのである。
ドールは街中を歩く時も必ず
白髪を隠していたが、住民にもうっすらと認知されていたため、なるべく目立たないように立ち回る癖をつけていた。
3年ほど前に巻き込まれた
些細な事故で
頭巾から
白髪が漏れてしまい、それを目撃した住民から恐れられ、
罵られたことがあった。
その場を治めたのが、アメリア・トリナーデという老婆だった。
その聞き慣れない姓は大陸外からの移住者であることを何より表象していたが、若かりし頃に夫婦で移住し街の発展に貢献し続けてきた姿は住民にすっかり
馴染まれており、彼女の堂々たる発言には無視できない威厳が
伴っていた。
「悪魔の子だ? 馬鹿馬鹿しい、その小娘が今まで何をしたって言うんだね。あんたらの信仰とやらは、そんな小娘に石を投げつけるためのものなのかい?」
だがその後、アメリアは足腰が不自由になり寝たきりの状態になる日が増えた。
アメリアの