「…おまえら、もういい加減にしろ。論点をずらすな。憶測で物を語るな。俺らは食糧の分配を交渉しに来てんだ。
戯言なら酒場で交わしやがれ。」
暫し部下たちの主張を静観していたランタンだったが、その脱線具合を見兼ねて、低く脅すような声音で強制的に打ち切ろうとした。
ステラは
未だ不服を抱え込みながらも静まり返る男たちを見渡しながら、ランタンも民意を代弁する者として仕方なくこの場に立たされているのだろうと推察し、その心労に後ろめたい感情が生まれていた。
——私が妥協して少しでも食糧を分ければ、この場は一旦
凌げるのかもしれない。それが正しい選択なのかもしれない。
——でも抜本的な解決にはならないし、一度許せば二度、三度と許すことになって、そのうち当たり前のことになってしまう。何か代わりの、もっといい方法がないと…。
ステラが
俯いて
掌に
滲む汗をエプロンで
拭っていると、
不図ポケットの膨らみに手が触れた。
その中に
仕舞っていた小さなリンゴを
徐に
掴むと、5年前にリオが引き起こした厄災が脳内で再現された。
そして後から聞いたその不可解な現象の実態を思い起こしたとき、心臓が一段と大きな鼓動を響かせたような気がした。
——もしも、あのときのリオと
同じ力を私が使えたなら
。
——この状況を打開するための時間を、きっと作れるのかもしれない…!
自然と引き寄せられるように、ステラは小さなリンゴを口元に寄せて
齧り付いていた。
あまりにも
唐突に
宵闇で響く
瑞々しい
咀嚼音に、周囲の男たちは言葉を失い
茫然と立ち尽くしていた。
集約される懐疑と不審の視線に何ら動じることなく、ステラは
只管にリンゴを
頬張っていた。夜食など
殆ど
摂ったことはなかったが、何も気にする余地などなかった。
何の変哲もないただのリンゴであるはずなのに、これを食べれば何かが変わるかもしれないという根拠のない期待が芽生えていた。
酸味のある
爽やかな果汁がその土壌を活性化させるように、全身に不思議な活力を
齎しているような気がした。もし何の異変が起きなくても、自分を吹っ切れさせる言い訳の種にでもすればいいとも考えていた。
「…ステラ嬢、どうかしたのか…?」
普段から物静かなランタンも突然のステラの奇行に戸惑いを隠せず、様子を
窺おうと恐る恐る近寄ってきた。
だがその声が掛かる頃には、ステラは片手に芯だけを残して
殆ど食べ尽くしてしまっており、果汁で
塗れた口元をワンピースの袖で恥ずかし
気もなく
拭っていた。
そして、芽生えていた期待が実を結ぶことを確信していた。
「大丈夫です、ランタンさん。私に任せてください。…私が全部上手くやってみせます。
皆の面倒を、私が見てあげますから…!」
力強く宣言するステラの瞳には、
煌々とした
萌黄色の輝きが
灯っていた。
「……先生! …ステラ先生!! 」
聞き覚えのない青年の声音に引っ張り上げられるように、ステラは意識を取り戻した。
何か硬い長椅子のようなものの上に横たわっているらしく、身体には毛布を掛けられていた。
だが全身は
微温湯に浸かっているかのように
気怠く
熱いており、経験したことのない疲労感に浸されているようであった。
そのステラを心配そうに見下ろす青年の表情に、徐々に焦点が合い始めた。左目を黒い前髪で隠したその外見にはどこか懐かしさを覚えたが、
朧げな記憶の中で一致する人物が思い浮かばず、
暫し
曖昧な
眼差しで
眺めていた。
「……?」
「先生、俺だよ! 5年くらい前までジェルメナ孤児院で世話になっていたカリムだ…ほら!!」
青年が
微かに声を震わせながら首に掛けていた銀札を
朱色地のシャツの襟元から引き出し、ステラの目の前で掲げてみせた。銀札は2枚あり、それぞれ「カリム」「リオ」と刻まれていた。
ジェルメナ孤児院に所属していることを示すその名札から、ステラは
漸く青年のことを思い出し、
安堵するような深い溜息をついた。
齢12になる直前まで孤児院で過ごしていたカリムは、その当時から左目を隠すやや内気な子供だった。
だが当時は髪全体が肩まで届くような長さだったうえ
未だ声変わりもしておらず、
精悍な顔立ちも相まって、
恰も少女と
見紛う容姿をしていた。
それ
故ステラにとっては、前髪以外を短く切り
揃え
齢相応の青年となったカリムがまるで別人であるかのように見えていた。
「…ああ、カリムね……
暫く見ない間に…随分男前になったじゃない…。」
「よかった…先生、道の真ん中で倒れてたからどうしたのかと思って…。」
ステラにはそのような記憶はまったくなかった。孤児院の裏手でグリセーオの住民らと何やら
諍いを起こしていたような覚えはあるのだが、それすらも遠い昔の出来事のように感ぜられていた。
——おかしいな…私、何してたんだっけ……。
横たわっている壁際のカーテンからは、やや傾き始めた日差しが漏れていた。改めて視界を隅々まで
廻らすと、ステラは木造の物置小屋のような室内でカリムに介抱されていたことを認識した。
「…そういえば、ここはどこ…?」
「ここは…グリセーオの南にある高台に建っていた無人の小屋だよ。」
「グリセーオ……そうだ、子供たちのところに戻らないと…。」
ステラは歯を食い縛りながら、異様なほどに重たい身体を起こそうとした。その動きを予期していたかのように、
直ぐにカリムはステラの肩を
掴んで制止しようとした。
「
駄目だ先生、街に戻るのは…それにまだ休んでいないと…!」
「カリム、いま何時なの…? もう日が暮れるなら、早く夕食の準備をしないと…!」
嘗て世話をした孤児による
労りを振り払い、ステラはカーテンを開けて
凡その時間帯を
自ら把握しようとした。
だが窓の外に広がっていた光景は、全身に
圧し掛かる
倦怠感を吹き飛ばすほど異様で
悍ましいものであった。
そこに広がっているはずのグリセーオの街並みは、
夥しい量の太い
蔓によって地形全体を呑み込むように埋め尽くされていた。
蔓はあちこちで波打つように青白い光を発しており、乾いた土地で不気味な湖面を作り上げているように見えた。
ジェルメナ孤児院が建っていた場所も、アヴァリー家の邸宅も、そして遠方のスラム街に至るまで
蔓が
覆い尽くしており、更にその侵食を広げようと
蠢いているのが
解った。
あまりの
惨状に絶句したステラだったが、その
蔓には
忌々しくも見覚えがあり、真っ先に浮かび上がってきた言葉が自然と口元から
零れた。
「…あのときと同じ、厄災…。」
「そう…いや、あのときよりも段違いに深刻だよ。発生から丸1日も経たずしてこの被害の大きさらしいから。」
カリムもまたその光景を沈痛な
面持ちで
眺めながら、ステラに言い聞かせるように
呟いた。カリムもまた5年前にグリセーオで起こった厄災に巻き込まれ被災したことを、ステラは覚えていた。
当時は駐屯していた大陸軍が
早急に事態を収束させたと聞き及んでいたが、その後カリムは国土開発支援部隊に連れられるようにグリセーオを去ってしまい、ステラは別れの挨拶すら交わせていなかった。
カリムとはその時以来の再会でもあり、それ自体は嬉しいことであったが、同時に
何故このような形で再会するに至ったのか
素朴な疑問を
抱いた。
「…カリムは、どうしてここに?」
「え? ああ、仕事だよ…
偶々近くに駐在していたんだけど、厄災の
報せが届いて未明に
急遽駆り出されたんだよ…
早急に事態を把握して議会に連絡しろってさ。」
カリムが胸元に付けているバッジを指差しながら事情を明かすと、ステラは少しだけ胸を
撫で下ろしたように長椅子に
凭れた。
「そう…今もルーシーさんの下で立派にやっているのね。」
「うん。まぁ…そんなところかな。」
カリムが少し目を
伏せながら、判然としない
相槌を返してきた。
その反応をステラは見逃さず
訝しんだが、次なる疑問は彼が調べたであろう孤児らの安否であった。
否、
最早孤児だけでなくグリセーオの全住民の被災状況を確認せずにはいられなかった。
「それで、グリセーオの人たちはどうなったの?…私の他に誰か、助かった人は?」
ステラの問いかけに、カリムは視線を戻すことなくどこか言い
淀んでいるようであったが、
軈て小さく首を横に振りながら答えた。
「…
解らない。恐らく昨夜、日付が変わる前に起きたからか、1人残らず
蔓に取り込まれたままなのかもしれない。人影が視認できないほど
蔓が
幾重にも
蔓延っているんだ。大陸軍も駆け付けてはいるけど、
既に規模が大きすぎて安易に近付けないらしい。」
「…そんな…。」
「でも、まだ悲観すべきじゃないと思う。5年前はリオ以外に死傷者は出なかった。
あの
蔓はそういう脅威じゃない
。
皆の命が無事であることを信じて、この厄災の収束を待つしかないよ。」
あくまで希望を言葉にするカリムだったが、その口調はどこか
虚しく捨て
台詞のようで、気付けば青年は外へ出ようと玄関口へ向き直っていた。
「カリム、手伝えることがあるなら、私も…!」
「大丈夫。先生はまだ休んでて。…何か飲み水とか、食べられる物を探してくるから。」
無理にでも腰を上げようとするステラの呼びかけを
遮るように、カリムは背を向けたまま
応え、玄関扉を開けた。
何か
唐突に
居た
堪れなくなったような、
素っ
気無くなったような態度の変化にステラは少し戸惑ったが、この状況で更に気を
遣わせるべきではないと
自重し、長椅子に座り直した。
「…
解ったわ。カリム、ありがとうね。」
「……。」
カリムは小さく
頷いて
応えるのみで、そのまま黙って小屋を出て行ってしまった。